Text by 山元翔一
Text by 松村正人
Text by 原雅明
日野浩志郎率いるgoatが結成より10年を迎えた。その10周年ツアーのゲストの面々が凄まじい。
初日の名古屋公演にはGEZANとCampanellaが、東京公演にはPhewと鎮座DOPENESSが、2日間開催される京都公演2日目では、Phew+山本精一のデュオとOGRE YOU ASSHOLEがgoatと共演。なお京都公演の初日は、日野浩志郎と中川裕貴によるユニット・KAKUHANが、ジム・オルーク、石橋英子、山本達久からなるトリオ・カフカ鼾に加え、空間現代×吉増剛造が出演する。
ジャンルを越えて国内のミュージシャンから信頼を集める一方で、ソロ名義であるYPYを含め、日野浩志郎の音楽はいま海外のリスナーからも熱い注目を集めている。昨年リリースされたKAKUHANのデビュー作はイギリスの独立系オンラインレコード店「Boomkat」の2022年のトップリリースで5位に選出された。
goatとは、日野浩志郎とは一体何者なのか。そのサウンドの強度は何によってもたらされているのか。10周年の節目に原雅明と松村正人に寄稿してもらった。
goat(ゴート) / Photo by Yoshikazu Inoue
2013年に日野浩志郎を中心に結成したグループ。元はギター、サックス、ベース、ドラムの4人編成であるが、現在は楽曲によって楽器を持ち替えていく5人編成で活動している。極力楽器の持つ音階を無視し、発音させる際に生じるノイズ、ミュート音などから楽曲を制作。執拗な反復から生まれるトランスと疲労、12音階を外したハーモニクス音からなるメロディのようなものは都会(クラブ)的であると同時に民族的。
テキスト:原雅明
学生時代の坂本龍一に「ここがいよいよ西洋音楽のなれの果て」と思わせた、1970年頃のミニマルミュージックがある(※)。その拠点はニューヨークのダウンタウンだった。そしてそこは、さらなる「なれの果て」と言える、80年代のミニマルミュージックを生んだ。
ピーター・ゴードン、ピーター・ズンモ、リース・チャタム、ヴィト・リッチ、ジュリアス・イーストマン、それにこの時代でもっとも有名なアイコンとなったアーサー・ラッセルといった作曲家/演奏家がいた。彼らは、現代音楽のなかで地位を確立していた先駆者のスティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスらミニマリストたちのようにミニマルミュージックに対してピュアでも厳格でもなかった。
ロックバンドのアンサンブルやジャズの即興を持ち込み、民俗音楽のポリリズムや催眠的なドローンも使い、ディスコのエディット、ヒップホップのループ、パンクロックの3コードにもミニマリズムを発見した。
彼らが真にユニークだったのは、かつてライヒが西アフリカの音楽を、テリー・ライリーやラ・モンテ・ヤングがインドの古典音楽を発見したのと同じ姿勢で、アメリカのポピュラー音楽に他者として向き合い、そこに自己の表現を投影したことだ。
彼らにとっては、モータウン・サウンドを手がけたホーランド=ドジャー=ホーランドも、CBGBで演奏するThe Ramonesも等しく外部にある、発見されるべき音楽であった。アメリカにいながら他者として存在するというスタンスが、彼らのミニマルミュージックには通底していた。それは、アーサー・ラッセルの素朴な弾き語りの背景にもあったことだ。
goatを聴いていると、このスタンスを思い起こさせる。その音楽が何かに似ているという意味ではもちろんない。goatはさまざまなジャンルを取り込んでいるわけでも、カバーしているわけでもない。ジャンルに括れない音楽をやっているというわけでもないだろう。goatもまた、ただ他者として発見を続けている。そして、90年代のストイックでミニマルなエレクトロニックミュージックやポストロック、あるいはマスロックに対してすら、徹底して他者として向き合っている。
リプレスされた『New Games / Rhythm & Sound』(※)をいま現在聴いて感じるのは、そのことだ。ここに収められた10年ほど前の音楽にはノスタルジックなものは感じないが、90年代以降に失われていたものを思い起こさせはする。
Autechreが上モノとビートの区別を積極的に曖昧化して、池田亮司がサイン波に収束していくようなサウンドを構築していた90年代後半、そこに外部としての存在はもはやいないかのようだった。誰もがつくり手になり、当事者となっていった。ソフトウェアは徹底して内部を掘り進め、そこで完結するシステムが精度の高いサウンドを生んだ。そして、ソフトウェアの開発が進み、商品化され、手軽に手に入る状況がほどなく訪れると、ジャンルの細分化と拡張も一気に進んだ。
それによって、誰もがどこかのジャンルに容易にフィットすることができた。地下の閉じたクラブから野外のフェス空間へと解放されていった音楽もあれば、ひたすら個の空間にこだわるエクスペリメンタルな音楽もあったが、そこに外部的なものを意識させる存在はなかった。そして、アーサー・ラッセルもジュリアス・イーストマンもエイズで亡くなったあとのダウンタウンのミニマルミュージックは、ポストパンクあるいはポストクラシカルといったジャンルのオリジネーターとしての位置に何となく収まっていった。
だが、アーサー・ラッセルを、バッハの「無伴奏チェロ組曲」を発見したパブロ・カザルスと同列に語り、クラシックの教育を受けて育った自分をポピュラー音楽の外部に置く者が現れた。チェロ奏者でもあるBlood Orangeことデヴ・ハインズだ。また、ジュリアス・イーストマンをエレクトロニックミュージックとして再解釈することで、ロレイン・ジェイムス(とそのアルターエゴのWhatever The Weather)は自分を外部に立たせようとした。
彼/彼女らの登場が象徴するように、ジャンルの見取り図や系統図の類いをすり抜け、嘲笑うように、外部に立つ者は発見を続けていく。ハインズは、ラッセルの音楽に流動性のある、独特の変わったフォームのコードがあり、9/8拍子の上でも当たり前のようにボーカルが乗ってくることを指摘する。「変だとわかっていても、変だと感じない心地よさ」の発見は、ハインズの音楽に多大な影響を与えた。
できあがったばかりのgoatの新譜『Joy In Fear』を聴いた。goatは変わることなく、ジャンル音楽の外部にいるのだが、このアルバムはもう失われていたものを思い起こさせることはない。ある種の風通しのよさを伝えているようにすら感じる。
コンセプトもサウンドもまったく異なるが、日野浩志郎の『GEIST II』(2023年)にも同様のことを感じた。音色やアーティキュレーション、ダイナミクスなどの繊細な変化が生みだすものに、耳が自ずと向かうからだ。それは、ハインズの言う「心地よさ」であり、ジャンルの融合に抗う音楽の強さの表れでもあるだろう。
日野浩志郎(ひの こうしろう)/ Photo by Yuichiro Noda, Courtesy of MODE
1985年生まれ、島根県出身。実験的なリズムのアプローチを試みるグループ「goat」や「bonanzas」での活動のほか、電子音楽を使ったソロプロジェクト「YPY」を行なう。ほかにも電子音とクラシカル楽器を融合させたハイブリッドオーケストラ「Virginal Variations」、その発展として多数の音空間を混在させた全身聴取ライブ「GEIST」の作曲、演出を手がける。
テキスト:松村正人
ドン・エリスは幾度か訪れたジャズの黄金期のなかでも1960年代のニュージャズ周辺で名を馳せたトランペット奏者で、後年は作曲家としてもさきごろ逝去したウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(1973年)じゃないほうの代表作『フレンチ・コネクション』(1971年)のサウンドトラックを手がけるなど、前衛からインド音楽まで、幅広い音楽的方法を自家薬籠中のものとした作風はひいき目にみても過小評価のきらいがある。
そのエリスに、ビッグバンドを率いて西海岸の『モントレー・ジャズ・フェスティバル』に出演した際の音源をおさめた『'Live' At Monterey!』なるライブ盤がある。
録音は1966年9月18日で、5本ものトランペットと3台ものダブルベースをふくむ特異な編成がまず目をひくが、それ以上に特異なのは楽曲の構造、ことにリズムで、奇数と偶数拍子を融通無碍に組み合わせ、果ては“27/16”なる曲名まで存在する楽曲の随所にエリスは変拍子をもちいている。ともあれ星の数ほどもあるジャズのライブ盤でも本作がとりわけ印象的なのは冒頭の楽曲への聴衆の苛烈な反応である。
本作は司会の紹介にひきつづき、エリス自身の楽曲紹介で幕をあける。ぱらぱらとした拍手にむかえられて登場したエリスは彼らの1曲目が曲名の由来でもある19拍子をもちいていることを告げるのだが、この時点での観衆の反応はせいぜいが(苦笑)といったもので、曲名をさして「市外局番じゃないよ」というエリスのギャグも若干空回り気味なのに、1曲目が終わるころには万雷の拍手を呼ぶのだから生演奏の説得力にまさるものはないというべきか。ちなみに観衆の耳をさらい、作者みずから市外局番になぞらえたこの曲のタイトルは“33 222 1 222”という。
いささか前置きが長くなったが、私がgoatの3作目『Joy In Fear』の2曲目から連想したのがドン・エリスのこの曲だった。『Joy In Fear』の2曲目の題名は“III I IIII III”という。現時点で読み方は不明だが、私はおそらく拍数かなにか、リズムのカギなのではないかとはじめて聴いたときに直観した。
ところが数えようにもそうは問屋がおろさない。エリスの場合、リズムこそ特異だが楽想や反復性はセオリーに準拠しており、意外とすんなり聴き進められる。一方のgoatは拍子や拍節およびそれらの配列そのものが楽曲の語法であるうえに語り口も時々刻々と変化するので指折り数えていては追いつかない。
結果、曲名はリズム構造をさすのではないかという推測は推測の域を出なかったが、メッセージやエモーションよりも「モーション」に焦点をあてるかにみえるのはgoatの面目躍如といったところか。
なんとなればこれまでもgoatは言語を意味伝達のツールというよりは代替可能な記号とみなしてきた。過去2枚のアルバムのタイトルも『NEW GAMES』と『Rhythm & Sound』といい、収録曲の題名も“Std”“Solid Eye”“Ghosts Part 1”など、アルファベットの羅列か簡単な単語の組み合わせに終始する。
意味よりも音とその強度に主眼を置くのは日野浩志郎が拠点を置く大阪ないしは関西シーンの伝統の一部であり、goatもその系譜につらなるとみるべきだが、極端で騒々しかった先達たちに較べるとgoatのサウンドはごりごりなのに必要以上に重たくない。孤立した系に対する開放の系とでもいえばいいか。
メインストリームに対するオルタナティブという立ち位置に異同はないもののアプローチには懸隔がある。最たるものが身体性のあり方であろう。1980~90年代のオルタナティブな音楽、ことに非常階段やボアダムス周辺、なにより日野もメンバーの一員であるbonanzasのフロントに屹立する大阪最後の秘峰というべきSpasmom~SUSPIRIAの吉田ヤスシなど、そのサウンドには突出した身体性の反映があった。
これはジェンダーというより主体ひいては実存の諸力であり、そのすべてをいかに音楽に反映するかにオルタナティブの強度はかかっていた。換言すれば、「他者性のエキゾチシズムへの転換」ともみなせる力学が支配的に働いており、慣性の法則さながらなその後の展開は2000年代以降のオルタナティブなシーンをポストモダン的な閉塞感においやったきらいもなくはない。
以上のような状況にgoatは『NEW GAMES』をひっさげ登場した。ちょうど10年前のことである。題名とおり、そこには新たな法則の提案があった。
リズムの革新については一部述べた。彼らの楽曲の多くは特定のパターンの反復からなるが、間欠的におとずれるサウンドの微細な変化がタイムライン上にひっかき傷のようのようなものを残し、聴感上のトラップとなる。ここには2000年代のクラブミュージックやポストロックの影響も少なくないが、そこからの新世代への転写としてマスロック的なスタイルを選択したなら、いまみたいなgoatにはならなかったであろう。
この観点はおそらく前身バンドTalking Dead Goats "45からgoatへの転身の際の問題意識とも重なりあう。彼らはその過程でハードコア流儀のストイシズムはそのままに身体性の現前を切り詰める方向に舵を切った。楽曲の構築をPC内で完結させるとともにその再現においてもギターやベースやドラムスやサックスの既存の演奏方法に依存しないやり方をとった。
結果、楽器をシバく物音や弦楽器のミュート音に変則的なリズムパターンからなるgoatのサウンドはミニマルやエクスペリメンタルといったジャンル名よりも、それらを成り立たせる力学を浮き彫りにするにいたった。さきごろ「EM Records」がリリースした『New Games / Rhythm & Sound』は過去2作より、goatの髄というべき楽曲を編んだものだが、レコードに針を落とすたびにその部分と全体の関係の豊かさにあらためて耳をうばわれるのである。
五木田智央の手がけたgoat『New Games / Rhythm & Sound』のアートワーク(Bandcampを開く)
その関係性に8年ぶり3作目の『Joy In Fear』では変化がきざしている。顕著なのは先述の2曲目“III I IIII III”以降か。それ以前に新作ではメンバーも変わっている。日野浩志郎、ベースの田上敦巳、サックスの安藤暁彦らオリジナルメンバーに、MANISDRON / The Noupの岡田高史をドラムスに、元鼓童の立石雷が篠笛と打楽器に迎えた陣容である。
3曲目の“Cold Heat”では立石の篠笛と安藤のサックスが多様な響きを導きだし、続く“Warped”ではタブラを思わせる音色による微分リズムとゴング風の打音がゆるやかなリズムを縁どっていく。高音部にカリンバを連想する“Modal Flower”やポリリズミックな“Spray”のアフリカ的なニュアンスからガムランを思わせる終曲の“GMF”まで、まがうことなきgoatのサウンドだが10年という時間の流れを感じさせる一枚でもある。
五木田智央の手がけたgoat『Joy In Fear』のアートワーク(Bandcampを開く)
その間、日野はカセットレーベル「Birdfriend」をスタートしYPY名義でいくつかの作品をリリースしている。「Birdfriend」は気の置けない仲間との気ままな実験の場といった趣きだが、日野は2020年には新レーベル「NAKID」を立ちあげ、よりシリアスな方向性を打ちだしはじめた。『Joy In Fear』は「NAKID」のリリースで、レーベルにはほかにも日野とチェロの中川裕貴とのユニットKAKUHANの『Metal Zone』(2022年)と日野名義の『GEIST II』もある。
goatをふくめ、個々の作品は形式こそ異なるが、ドローン、打音、パルス、電子音、フィールド録音など、音程のない非楽音の積極的な使用では共通している。いうまでもなく日野浩志郎のパレットの中心には昔もいまもこれらのマテリアルが乗っている。
一方で、描きだす作品は『New Games』『Rhythm & Sound』期にはマテリアルの特長を優先するメディウムスペシフィックな傾向があり、『Joy In Fear』期(というか現在)は形式の歴史性を背景に置くモダニズム的転回の途上にある。
端的にいえば、2010年代前半はマテリアルの先鋭性をいかに形式に昇華するかが課題だったのが、10年後にはマテリアルの原料が気になりだしたといえばいいか——ノイズとグリッドの領土からカオスとフラクタルの沃野へ。日野浩志郎流のエコロジーシステムを表すかにもみえる昨今の作品群の背後には一度捨象した意味と身体性もほのみえる。
いささか大袈裟だが、あるいはここにはAI時代における人間観の変化があるかもしれない。人間らしさをいかようにも仮構できる世界にあって、徹頭徹尾、音という抽象物がかたちづくる音楽に遍在する人間らしさとはなにかという問いである。
日野浩志郎 / Photo by Yoshikazu Inoue