Text by 山元翔一
Text by 小野寺系
長編ストップモーションアニメーション『オオカミの家』は、存在自体が事件であり、アニメーションや映画の表現の常識を打ち壊す、きわめて個性的な問題作だ。複数の部屋全体を使って、絵が描きこまれ立体物が動き回るという、大規模なアニメーションが展開していく映像を見れば、誰もが驚嘆することだろう。その作風には、ヤン・シュヴァンクマイエルやクエイ兄弟というアートアニメの巨匠の作風を部分的に引き継ぎながら、部屋を真っ黒に塗りたくったりドローイングによって短編を制作したデヴィッド・リンチ監督の初期作品を彷彿とさせるところもある。
同時に、謎に包まれた演出や内容は、いったい何を示しているのか、多くの観客に疑問をもたらすことにもなるはずだ。このとてつもない作品はいったい何なのか、その意図について、クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督に疑問をぶつけてみた。
ー今回の『オオカミの家』、凄まじい作品でした。いったいなぜこのような手法でアニメーションをつくろうと思ったのか、非常に興味があります。またお二人の初期作品『ルシア』『ルイス』も鑑賞しましたが、かなり近い手法で制作されていますよね。
レオン:『ルシア』は二人が初めてつくったアニメーション作品です。そして2作目が『ルイス』。そのオリジナル作品の最終章が、長編作品『オオカミの家』なんです。つまり、3部作の最終章ということです。そういうふうに観ていただくと、より理解が深まり世界観も広がるかと思います。
私たちの作品は、ビジュアルアートを描くところからスタートしています。そのキャンバスとして、最初に壁を選びました。壁に絵を描いて消す、また絵を描いて消す、そのプロセスを撮影しようというアイデアが生まれ、そこから絵を描くためのキャンバスが壁をはみ出して部屋全体になっていき、家具もまた絵を描くためのものとなり、さらには、もっといろいろな素材を利用しようということになっていく……。そうやって発展していったというのが、今回の作品の制作手法ということになります。
ー塗りたくられるペンキや無数の立体物で、撮影時に大変な状況になってしまうわけですが、キャンバスとなる「家」は、どうやって用意しているのですか。
コシーニャ:じつは家そのものを用意した、というわけじゃないんです。オープンスペースに家を一軒建てるのは困難なので、美術館やギャラリーの一部、またはアトリエの空間を利用して、それら別々の場所の映像を組み合わせて、ひとつの家であるように見せているわけです。
撮ってつなげて、撮ってつなげてというストップモーションの手法は、そんなマジックを生み出すのに適しているんです。
ー長いあいだそうやって、お二人でアニメーションづくりを続けてこられたということですが、それぞれどんな役割を担っているのでしょう。
レオン:それぞれが絵を描くし、立体物を造形します。また撮影もしますし、作品について一緒に長時間の議論もします。何でもやってきましたが、それらを分業しているというわけではなく、二人がそのときどきでさまざまな作業を引き受けながら動いているという感じですね。
私たちはお互いが芸術家で、一緒に仕事をする前からそれぞれの芸術活動をしてきました。だから、じつは作家としてのタイプだったり趣味嗜好全然違ったりするんです。でも15年以上一緒に仕事をできているということは、気の合うところや似通った部分もあるということなんでしょう。
ーどういった点が違いますか。
レオン:私はこだわり性で、のめり込んでいくタイプなんです。ホアキンは全体に意識を払いながら細部も見てくれるという特徴がありますね。そういった違いがお互いを補って相乗効果が生まれていると思います。
コシーニャ:自分ひとりだけでやっていると、越え難い壁が必ず出てくるんです。二人体制の監督の利点は、違う視点や個性を持っていることで、その壁を越えることができる。そして、常にお互いが刺激を与えあって成長することができるところだと思います。
そもそも私たちの作品って、ひとりではつくれないものなんです。だんだんかかわってくれる人たちが増えてきているので、いまは二人でもないっていう状況なんですけどね。
1. これはカメラによる絵画である
2. 人形はいない
3. 全てのものは「彫刻」として変化し得る
4. フェードアウトはしない
5. この映画はひとつの長回しで撮られる
6. この映画は普通のものであろうと努める
7. 色は象徴的に使う
8. カメラはコマとコマの間で決して止まることはない
9. マリアは美しい
10. それはワークショップであって、映画セットではない
- 『オオカミの家』の制作にあたって、二人の監督が自らに課したルール左から:クリストバル・レオン、ホアキン・コシーニャ
2007年から活動をはじめた2人組のビジュアルアーティスト。ラテンアメリカの伝統文化に深く根ざした宗教的象徴や魔術的儀式を、実験映画として新しい解釈で表現している。映画制作のために、写真、ドローイング、彫刻、ダンス、パフォーマンスなど、さまざまな技法を組み合わせている。2021年にはウェブサイト「IGN」の歴代アニメーション映画ベスト10に選出。同年Varietyの「観るべき10人のアニメーター」にも選出された。『ミッドサマー』などで知られるアリ・アスターは2人の作品を一晩に何度も鑑賞し、自らコンタクトをとり、意気投合。短編『骨』の製作総指揮に名乗りを上げ、さらに自身の最新作『Beau is Afraid』内のアニメパートも2人に依頼した。2023年8月、2人の初の長編映画『オオカミの家』と『骨』が同時上映される
ー制作については、よくわかりました。それでも疑問に思うのは、異様ともいえる世界観を生み出す感性やアイデアがどこからきているのかということです。いったいどんな子ども時代を過ごしたら、こんな世界を創造できるのか、秘密を知りたいです。
コシーニャ:いや、そこまですごい幼少期を過ごしているわけではないですよ。知ってがっかりしないといいですけれど(笑)。
私たちが生まれた年は1980年。ピノチェト独裁政権(※)の中頃から後半くらいの時期です。そこで、私たちの家族が犠牲になったとか、直接的にひどい被害があったというわけではないんです。しかし、絶えずうっすらとした恐怖がある子ども時代を過ごしてきたことを覚えていて、そういう原体験が作品に投影されているということだと思うんです。
私たちの作品には「閉められた窓」がたくさん出てきます。こういった環境で生きていると、窓を開けて開放的に過ごすことができないものです。私たちの表現する閉鎖的な雰囲気というのは、そういった記憶の象徴なのかもしれません。
『オオカミの家』より ©Diluvio & Globo Rojo Films, 2018
レオン:時代の要素や空気が直接的、または間接的に作品に影響するというのは、よくあることです。日本だって第二次大戦だったり、そこで広島などが受けた被害だったり、強く意識はしていないとしても、そういった過去の出来事が作品に影を落とすことはありますよね。たとえその時代を過ごしてなくても、それは受け継がれて残り続けるもので、私たちの作品にもフィクションのかたちで、そういったあらゆるものが表現として表に出てくるということだと思います。
ーそういった現実のシリアスな要素や恐怖を、おとぎ話のようなかたちで描くというのは、なぜなのでしょうか。
レオン:おとぎ話や民話、人々の口で広められてきた伝承などは根底でつながっていて、そこには現実の出来事が反映されているのだと、私たちは理解しています。つまり、おとぎ話とは現実をフィクションのかたちで表現する手法であると。
『オオカミの家』より ©Diluvio & Globo Rojo Films, 2018
レオン:ウォルト・ディズニーだったり、宮﨑駿監督の作品などもそうですが、多くのアニメーション作品には、おとぎ話を描いたり、それをベースにしたものがたくさんありますよね。それは突きつめていくと、現実の歴史や出来事を描いているということだと思うんです。
私たちには、ラテンアメリカの作家、チリの作家として、自分たちの立場から、歴史や社会、そして現実の体験を表現したいという強い気持ちがあります。そういった意味でいうと、さまざまな問題が長く続いている環境に幼い頃から住んでいる私たちの「おとぎ話」は、明るく楽しいメルヘンにはなりづらい、ということでしょう。
ー『オオカミの家』の設定に利用されているのは、チリの歴史に刻まれている「コロニア・ディグニダ」(※)の事件ですね。今回それを題材に選んだ理由を教えてください。
コシーニャ:「コロニア・ディグニダ」を題材にした点については、いろいろな理由があるので、ひとことでは言い表せないです。私たちの生きる世界でこのようなことがあったというのは、忘れてはいけないこと、語り継がなければならないことです。
『オオカミの家』より ©Diluvio & Globo Rojo Films, 2018
コシーニャ:チリのことでよく知られている歴史といえば、昔スペイン人がやってきて、土地を制圧して国がつくられていったという流れだと思うんですけど、ヨーロッパからの移民が国に入ってきたというのは、チリにとって重要なことでした。いい/悪いという議論以前に、事実として重要であるということです。
同じように、ドイツ系移民がチリに入ってきて、自分たちの共同体をつくったというのは、重要な「事実」であるわけですね。まずは、その事実を描きたかったんです。あまりに過酷な話で、フィクションのようにも感じますが、現実にあったことです。『オオカミの家』の観客は、現実ばなれした異様なものを観たと思うかもしれませんが、そういったおとぎ話のようなものが、現実世界とつながっているんだということを示すには、いい題材だと思いました。
そして今回の話というのは、「コロニア・ディグニダ」の歴史にとどまらないものです。このひとつの例を通すことで、人権の問題だったり、人を支配することだったり、洗脳してコントロールするような状況だったりとか、そういったほかの歴史や世界中の社会状況にも接続できる、複数の要素がテーマに含まれています。
『オオカミの家』より ©Diluvio & Globo Rojo Films, 2018
―今回併映される監督作『骨』は、アリ・アスターが製作総指揮を務めていますね。一緒に作品を手がけた経緯を教えてください。
コシーニャ:私たちの作品を観て、彼のほうからアメリカのエージェンシーを通じてコンタクトを取ってきたのがはじまりです。そこから実際に話し合ったことで、「私たちの作品には近いものがあるよね」という感触を得て、一緒につくってみようという話に発展しました。
実際に仕事をしてみると、アリ・アスターという人は、アイデア、設計図が明確に頭のなかにできていて、それに沿って映像をつくりだすタイプのクリエイターだと感じました。そこは私たちとは少し異なるところです。
―アリ・アスター監督は、ホラー映画作家として知られています。その意味では、『骨』も『オオカミの家』も、ホラージャンルにあてはまる作品だと、ご自身で感じられますか。
レオン:アリ・アスター監督がホラー映画作家だということについて、本人が同意するかどうかはわかりません。もしかしたら違うと言うかもしれませんね。それは置いておくとして、『オオカミの家』などの作品を、ホラー映画だと観客が思うのであれば、そうとってもらってもいいと思います。まあそういう要素もあるんでしょう。
そこは観た人がそれぞれ感じ取るということでいいんじゃないでしょうか。でも、私が強いてジャンルを決めるのであれば、先ほど述べたような、おとぎ話というか、フォークロアのようなものに近いのではと考えています。
コシーニャ:作品は観た人に委ねたいなというのが、いつも二人が思っていることですので、どのように解釈されても、それは正しいものだと思います。私たちが一番嫌だと思うのは、100人が100人とも同じ感想を持つことなんです。
だから、いろいろな観客がいろいろに理解をしていただければ嬉しいです。ただジャンル的な試みで観客をコントロールしようとは思っていないので、私たちがつくりたいものをつくったら、結果としてこうなったのだということは理解していただくとありがたいです。
『オオカミの家』より ©Diluvio & Globo Rojo Films, 2018
コシーニャ:一方で、みなさんが私たちの作品をご覧になったときに出てくる感想は、多くが「恐怖」なんですね。私たちはアート活動を通して、ことさら恐怖を与えようという意図はないのですが、なぜみなさんがそう思うのだろうということを考えながら、新しい作品をいつも手がけているんです。
私たちの手から作品が離れたとき、それは恐怖として受け取られるんだなということを、最近実感しているわけです。でもまあ……『骨』は死体の骨を子どもがもてあそんでいるような内容ですしね。それを怖くないと感じる人は、あまりいないと思うので、たしかに怖い作品だとは思いますよ。そこは最低限私も認識しています。
クリストバルが言う、おとぎ話だという理解に私が同意できるのは、もともとおとぎ話が口頭伝承で昔の出来事を語り継ぐための形式であると思うからなんです。であれば、明るく楽しい話ばかりでなく、そこには当然恐ろしい現実を反映したものも含まれるわけです。だから恐怖に触れるというのは、おとぎ話の性質そのものだといえるということです。
『オオカミの家』より ©Diluvio & Globo Rojo Films, 2018
『オオカミの家』とは何かという疑問の答え、そして作品に込められたメッセージは、はっきりと具体的にひとつの言葉として示されることはなかったが、その理由は二人の監督が自らを芸術家だと自負していることからきているように感じられた。だからこそ、何よりも作品そのものを観て、観客それぞれの感性や理解で作品を受け取ってほしいというスタンスを守っているのだろう。
その意味では、美術館で芸術作品を観るように、鑑賞者自身が作品を通してアーティストと対峙し、自分なりの答えを見つけるという姿勢こそが、『オオカミの家』を観て味わうということなのだと考えられる。
『オオカミの家』より ©Diluvio & Globo Rojo Films, 2018
クリストバル・レオン監督も言及した宮﨑駿監督の『君たちはどう生きるか』が先日公開され、その謎めいた内容が一部の観客を戸惑わせた。だがそれは同時に観客に対して、より豊かな鑑賞体験を提供する試みの結果だったともいえる。作家の感性が自由に発揮されたアート作品に接して、観客側が能動的に作品世界を探求することによって、娯楽の先にある作品の楽しみ方ができるのではないだろうか。
一方で、二人の監督は今回のインタビューで、内容を読み解くためのヒントや、補助線となる考え方を数多く与えてくれたこともたしかだ。「コロニア・ディグニダ」をはじめとした設定の背景や、世界の社会問題とのつながり、ラテンアメリカ、チリの歴史と、そこでの生活に根差した作家性、そしておとぎ話の構造とアニメーション作品との関係性……。これらの内容を踏まえたことで、作品の姿はかなりクリアに見えてきたのではないだろうか。
だがそこから観客たちが何を受け取ろうとするのか、自分自身で答えをつかみとっていくことが、レオン&コシーニャ監督の願いなのだ。
クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督による『オオカミの家』のメイキング写真