Text by 後藤美波
Text by 稲垣貴俊
Text by You Ishii
Text by 吉田真妃(Kurarasystem)
Text by チヨ(コラソン)
「これを世に出したら、自分の第二章が始まるような気がしています」。8月9日からディズニープラスで配信がスタートするドラマ『季節のない街』の作品情報の発表に際し、宮藤官九郎はそうコメントした。黒澤明の映画『どですかでん』の原作小説である山本周五郎の小説『季節のない街』に20歳で出会い、突き動かされるように演劇を始めたという。
演劇、ドラマ、映画そして音楽など幅広く活動する宮藤は、キャリアをスタートさせる前に大きな影響を受けた作品のドラマ化にあたり、企画・監督・脚本を務めている。長いキャリアのなかで、「本作で第二章が始まる」とはどういうことなのか? 「自分が面白がっていないと先に進めない」という宮藤に、節目の作品となる『季節のない街』、そして自身の創作のこれまでとこれからについて話を聞いた。
宮藤官九郎(くどう かんくろう)
1991年より大人計画に参加。脚本家として2001年映画「GO』で『第25回日本アカデミー賞最優秀脚本賞』他多数の脚本賞を受賞。以降もドラマ『木更津キャッツアイ』『あまちゃん』『いだてん~東京オリムピック噺~』など話題作の脚本を手掛ける。2005『真夜中の弥次さん喜多さん』で長編映画監督デビュー。俳優としても数々の作品に出演する。待機作に、映画『こんにちは、母さん』(出演/9月1日公開)、映画『ゆとりですがなにか インターナショナル』(脚本/10月13日公開)などがある。
※本記事にはドラマ『季節のない街』本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承ください。
―今回の『季節のない街』で、宮藤さんは「自分の第二章が始まる」とおっしゃっています。まずはその理由からお聞かせください。
宮藤:じつを言うと、そう言えばたくさん宣伝してもらえるかなと思ったのが一番の理由なんです(笑)。だけど間違いなく、『季節のない街』はずっとやりたかった作品。まだ演劇を始める前、何者でもなかった頃に出会った小説なので、特別に思い入れが強いんですよ。
20歳くらいで大学に行かなくなって、バイトばっかりしてたときに、黒澤明監督の映画をVHSでたくさん観たんです。そのなかの多くは「みんなが良いって言ってるし、たぶん良いんだろうな」という感じでしたが、『どですかでん』(※)は自分にとって異質でした。誰が主人公なのかわからないし、変なヤツがいっぱい出てくるし、結局まとまらないし、「なんだこれ?」って。そのとき「俺にとって面白いのって、こういうやつなのかも」と思ったんですよね。そのあと原作を読んだら、また全然違う面白さがあって、自分もなにかやらなきゃと背中を押されて本格的に大人計画に入ったという。
とはいえ、どう考えてもこの企画は通らないと思っていました。60年も前の小説だし、無理だろうなって。それをこんなに早く、しかも自分の想像以上に素晴らしい座組でやれるとは思わなかったですね。そういう意味でも自分にとって節目の作品だと思います。
『季節のない街』 2023年8月9日(水)からディズニープラス「スター」で全話一挙独占配信スタート
―率直に言うと、まだ第一章だったのかという驚きもありました。
宮藤:ですよね。いまが第何章なのかわからないです。自分でも適当なこと言ってるなと(笑)。
―配信作品の監督は今回が初めてですが、率直な感想はいかがでしたか?
宮藤:ドラマを撮ってるのか、映画を撮ってるのかわからない感じがあったというか……なぜかというと、今回、撮影が始まる時点で台本が全部できていたんです。テレビの連ドラだと、台本を全部書き上げてからクランクインすることはないので、みんなの様子を見ながら、「この役、面白いな。じゃあこんなエピソードにしようかな」とか「最初に思っていた展開だとありきたりだな」って現場で考えたり変更することも多いんです。
でも配信作品は、基本的に、撮影前に台本が完成していないといけない。だから最初に全部書くし、撮影も話数の順番に行なうし、役者さんも自分の役が最終的にどうなるかわかっている。本来はそれが健全だとは思いつつ、やっぱりテレビの連ドラの良さもあって、それは撮影途中に本を変えることでミラクルが起きることもあるから。なので、どちらがいいかは一概には言えないんです。テレビ以外のドラマが普及するなんて、昔は思いもしなかったですよね。
―本作と同じく、これは自分の節目だと感じられた作品は過去にありましたか?
宮藤:新しいことをやるときは、だいたい全部が節目だと思ってるんです。初めて書いた芝居や映画、連続ドラマもそう(※)。最初は「連ドラ全11話、自分1人で書けるのかな?」って思いましたけど、やってみたら書けた。朝ドラの156話(NHKテレビ小説『あまちゃん』、2013年)や、大河ドラマの47話(NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』、2019年)も、「できるのかな」って思ったけど、できた。
俺こんなのも書けるんだ、すごい難しかったけどやれたぞ、という「できた!」って経験は自分にとって大きいですね。共通しているのは、どれぐらい大変なのかわからないまま引き受けたということかもしれません。
―そういう経験を重ねて、宮藤さん自身の可動域が広がってきたというか。
宮藤:いまでもそうなんですけど、「初めて」って盛り上がるんですよ。初めて歌舞伎を書いたときはめちゃくちゃ大変だったなとか、初めての映画のときは「全部面白くしなきゃ」って頑張りすぎて具合悪くなったなとか(※)、そういうことは忘れられないし。続編やスピンオフがあまり得意じゃないのは、きっと「初めて」じゃないからだと思うんです。
ただ、そういう自分の節目になった作品を見返すと、「これはもうできないな」と思うことも多いんですよね。当時と同じように書くつもりはないですけど、やっぱり、数年前に書いた台本でもいまの本とは違いますから。単純に「よくここまで調べて書いたな」って思うこともあるし、一方で、昔の台本ほど「この表現はもうダメだな」とも思うし。「なんでいまの時代はこれが怒られるんだろう?」って、その理由も考えますけどね。
―若い頃の作品を見返して、初期衝動的な意味で「いまはもうできないな」と思われることもありますか?
宮藤:そこはあんまり関係ないですね。というか、関係ないと思いたいです。今回の『季節のない街』にも初期衝動はあると思うし、たぶん、僕はそういうふうにしかつくれないんですよ。自分が盛り上がっていたり、面白がっていたりしないと先に進めないのは昔から変わらないなって。
―かつて宮藤さんは、「もしも舞台や映画をやめて連ドラだけに集中したら、僕の脚本は面白くなくなると思う」とおっしゃっていました。俳優業やグループ魂としての音楽活動のほか、以前は『笑う犬の冒険』などのバラエティ番組で構成作家のお仕事もされていましたが、多岐にわたるお仕事が宮藤さん自身を更新している感覚があるのでしょうか。
宮藤:その通りですね。コント番組をやっていたとき、打ち合わせで出てきたいろんなアイデアを「俺がまとめるの?」って思いつつ台本を書いたこともありましたけど、それって他人の頭で考えたものを自分が書く作業なんです。そこで書いたことは知らないうちに自分の道具になっていて、ドラマを書くときに「あれ面白かったし、やってみようかな」と思える。
役者の仕事で感じた違和感や、役者同士だからこそ見える共演者の面白さも、自分の作品には確実に活かされます。役者として人の脚本を読んでも、「やっぱ俺の本って変だな、だけど面白いよな」とか「この人すごいな、俺も頑張らないと」と思うこともありますし。だから、部屋にこもって脚本だけ書いてたら絶対にダメになっていたと思います。脚本家がみんな役者をやればいいとは思わないですけど(笑)。
―余談ですが、いまでもバラエティのコントを書きたいという思いはありますか?
宮藤:あります。辞めたつもりは全然ないので。だけど体力的には厳しいし、それにいま、僕みたいな放送作家はあんまり需要がないと思うんです。昔の放送作家はコントや台本を書くのが仕事だったけど、いまは台本よりも枠組みやルールを提示するのが仕事ですよね。
前に、高田文夫(※)先生から「書かなくなってからが作家だ」って言われたことがあるんですよ。自分で本を書かなくても、演者さんが楽しそうにやってくれる枠組みを決めるのが放送作家の仕事だって。そのときに「俺はまだまだだな、自分で書かなきゃいけないもんな」と思ったんです。コントを書くのは好きですけど「ファミレスの料理全部食べるまで帰れません」みたいな面白い枠組みは、僕には思いつかないですね。
―先ほど、自分が面白がることが創作の推進力だとおっしゃいましたが、『季節のない街』で最初に宮藤さんが面白がったのはどんな部分でしたか?
宮藤:最初はキャスティングですね。「もしもいま『どですかでん』をやるなら、六ちゃんは誰がいいのかな?」って、妄想みたいなキャスティングを言ってるだけでも楽しかった。「島さんを藤井隆さんがやるとは思わなかったでしょ?」(※)みたいに、意外性を突きつけたい気持ちもありましたから。
役者さんのお芝居って、僕にとって本当に大きいんですよ。映画を撮る人としては決定的に偏っていると思いますけど、単純に「一番面白い芝居が欲しい!」って思うし、芝居が始まると、目の前で役者が面白いことをしているのを、一番いいかたちで映像にすることしか考えられなくなるんですよね。そこを面白く演出すること、役者の芝居やアドリブをジャッジすることに自信がある。それ以外は全く自信ないので、スタッフに考えてもらうことも多いですけど、監督として経験を重ねるにつれ、人に任せていい部分もわかってきました。
『季節のない街』
宮藤:映像と違って、演劇は毎日同じことをするものだから「毎回一番面白い」はないんです。毎回面白いのをやれたらいいですけど、ウケたりウケなかったり、うまくいったりいかなかったりする。だけど映画はOKテイクを1個撮れればいいので「一番面白いのを1回だけ」ということに異常に集中するんです。だから、見ていても「ああっ、さっきはできたのに!」とか、救急車の音が入ると「もう! いまの面白かったのに!」って(笑)。監督としてはダメかもしれないですけど、面白いものを見落とさないことが一番楽しいんですよね。
―今回、宮藤さんは10話中5話を監督されて、残りの5話を横浜聡子さんと『あまちゃん』や『いだてん』にも参加した渡辺直樹さんが担当されています。3人体制はいかがでしたか?
宮藤:3人いるぶん、それぞれの特徴がすごく出たと思いますし、自分の特徴も見えやすくなったと思います。こだわりがそれぞれ違うので、俺がすごくこだわってるところを誰も見てなかったりして(笑)。
もともと脚本を全部書いたあと、どの回を自分が撮るか考えたときに、脚本家として7・8話の「がんもどき」は自分で撮らないほうがいいと思ったんです。だから横浜さんにお願いしたし、6話の「プールのある家」も直樹さんが撮るほうがいいと思った。自分で撮りたい気持ちもあったけど、2人が撮るほうが面白いだろうから、俺は1・2・4・5話と最終話を撮ろうかなと。そうは言わなかったんですけどね。「俺、これやりたくない」とは言えないので(笑)。
『季節のない街』
―1962年に発表された小説を脚色するにあたり、現代を舞台にすることは最初から決めていましたか?
宮藤:そうですね、最初から「どうすれば現代に置き換えられるかな?」と考えていました。すでに『どですかでん』があるので、小説をそのまま映像化しようとは思わなかったし、自分がやるなら違うものにしなきゃいけないと思ったんです。そこから「現代劇にするならバラックは仮設住宅だな」とか「池松(壮亮)くんの役は、『ナニ』で家族を失って、この街に流れてきた根無し草みたいな人かな」とか、具体的な部分をひとつずつ固めていきました。
―『どですかでん』は終戦直後の焼け跡を思わせる美術が印象的でしたが、そこを宮藤さんは仮設住宅にされています。かたや戦争、かたや災害という違いは、原作と黒澤版の距離感も意識されたのでしょうか。
宮藤:それはもちろん意識しました。だけど、プレハブって面白いなと思ったのも大きかったんです。それぞれ全く同じかたちの建物なのに、10年も経つと住人たちがそれぞれ勝手に住みやすくしていて、それがすごく現代的だなって。
『どですかでん』は主に江戸川区の埋立地に建てたセットで撮られていると思います。僕たちも同じようにセットをつくりましたけど、この作品であの雰囲気を再現してもしょうがない。これが『どですかでん』のリメイクなら、そうやって再現するという発想も正しいのかもしれないけど、今回はそうじゃないし、いくら自分が好きな映画だからってそのままやるのは違うと思ったんです。
宮藤が現場に持ち込んでいたという原作の文庫本
―宮藤さんの脚色した作品は、どれも原作を深く読み込み、再解釈されている印象です。『季節のない街』では、たとえば塚地武雅さん演じる良太郎のエピソードなどで原作の「その後」を描いていますよね。今回は原作の先に進みたいと思われていたんでしょうか?
宮藤:正直、そこまではあまり考えてなかったんですよね。原作と『どですかでん』は、良太郎が子どもに「父ちゃんと周りの人たち、みんなはどっちを信じるんだ」って言うと、子どもたちが「父ちゃんだ」って答えて、ああ良かったという話で終わる。だけど僕のほうは、その後の現実があり、それを受け止めて……それは原作の先なのかな。先なんだろうな、きっと。
4話の「牧歌調」も同じですけど、連続ドラマはそれぞれの人物にも起承転結が必要なので、その人のエピソードがひとつ終わった後もずっと出てくるなら、そのぶんドラマをつくらなきゃいけない。それぞれのエピソードの先を描かないと、物語の最後まで出てきてもらえないと思ったのが先だったと思います。
―原作や『どですかでん』をご存知の方ほど驚く展開もあると思います。
宮藤:そもそも、最終話は原作にないエピソードですから(笑)。自分では『マグノリア』(1999年)や『ショート・カッツ』(1993年)(※)みたいだと思ってるんです。どっちも人がいっぱい出てきて、いろんなことが起こるけど、最後にカエルが降ってきたり地震が起こったりして、バタバタしてるうちに終わる映画。それまで積み上げてきたものが、一瞬でなくなるような物語に憧れがあったのかもしれません。
宮藤:今回の作品は仮設住宅という期限付きの場所が舞台なので、そこが原作との大きな違いだと思います。原作はバラックの街で、みんなここでずっと暮らしていくんだろうなって雰囲気がありますけど、仮設住宅は出て行かなきゃいけない場所。いずれ終わりが来ることは最初からわかっているんです。
だから最終的に、街がなくなった後はみんな別々に暮らしていて、顔を合わせても挨拶しない、だけどなんとなくつながっているという終わり方にしたいと思いました。ちょっと寂しいけど、それぞれがやるべきことをやった感じで、スッとするかなって。みんな、この街で嫌なこともあったけど、楽しいこともいっぱいあったから。
―宮藤さんは「普通の日常」を描き続けているとしばしば評されます。『木更津キャッツアイ』(2002年)は主人公のぶっさんが死ぬ前の日常を描いているし、『流星の絆』(2008年)では両親を殺された兄妹3人がその後の時間を生きている。
今回の『季節のない街』も災害後の物語で、劇中には「『過去の悲劇を教訓に』とか、そのために生きてるわけじゃない」「『大変だったね』に甘んじていたらいつまで経っても大変ですよ。抜け出さないと始まらないでしょう」という台詞があります。年月を経るなかで、いかに普通に暮らすか、平穏を保つかというテーマへの考え方は変化してきたのでしょうか。
宮藤:変わってきたと思いますね。『木更津』はぶっさんがガンで死ぬという期限が最初に決まっていて、その残り時間をどんなふうに過ごすかというドラマでしたけど、『季節のない街』も同じで、いずれ終わることがわかっている生活を描いている。それでも作品ごとに違いはありますし、むしろ近いからこそ違いがはっきりするというか。
『木更津』を書いたときは、若者がひとり死ぬことがわかっているのに、それでも友達と遊ぶのをやめない、というのが当時の気分でした。それが青春だったんですよね。だけどいまは、「さすがに青春する年齢じゃないけど、年を取った人にもそれなりの青春がある」というのをやりたいんです。『季節のない街』で、半助が最後に「俺も出て行きたくないんだけど」って暴れるのは、たぶん、卒業しなきゃいけないことへの抵抗なんです。
なんとなく、自分が若いときのほうが、人の生死みたいなテーマに向かっていたと思います。『季節のない街』では、亡くなっちゃうのはホームレスの男の子だけ。それが切ないんですけど、もともと「ナニ」で人がいっぱい死んだことから始まる物語ですから。同じことをやってるようで、やっぱり同じじゃないですね。
―宮藤さんの作品には若い男性のグループがよく登場しますが、作品を追うごとに、それぞれの関係性の温度は少しずつ下がっている気がします。『木更津』の暑苦しいほどの関係から、『ゆとりですがなにか』(2016年)の仲良しだけど少し距離もある感じ。『季節のない街』の青年部3人は、それよりもさらに体温が低くなっていますよね。
宮藤:確かにそうかもしれないです。『ゆとり』は、3人の面識がないところから話を始めることが決まっていたんです。お互いに敬語で喋ってたのが、だんだん打ち解けていく話だと。そのためには、キャッチをしているまりぶ(※)に「おっぱいいかがですか!」って騙されて、自分の恥部を晒さなきゃいけない。そしたら、それまではいなかったのに友達ができて、しかも恥部を晒したことで生まれた関係だからずっと続いていくんです。
逆に『木更津』は腐れ縁みたいな関係から始まりますけど、ぶっさんがいなくなったらもう会っていない。たぶん、どっちの関係もあると思うんですよね。僕自身、田舎の友達にずっと会っていたい時期と、もう一生会わないだろうなと思う時期があって、どっちも本当のような気がするので。
『季節のない街』の半助とタツヤとオカベの関係で言えば、タツヤは友達が欲しかったんだと思います。だけどつるむ相手はオカベしかいないし、「オカベって面白いけどなんかズレてんだよな」と思ってたところに半助が来た。だから「青年部だ!」って言い出すけど、自分の家の問題は知られたくない。それでも話さなきゃいけなくなって、少しずつ距離を縮めていく。
半助も何かしてあげたいと思いつつ、まだそこまで仲良くないから「白菜いっぱいあるから食べない?」としか言えない。それで揉めたり話を聞いたりしているうちに、かけがえのない友達になっちゃう。その変化を描けるのが連続ドラマの面白さですよね。
『季節のない街』田中半助役は池松壮亮、与田タツヤ役は仲野太賀、オカベ役は渡辺大知
―本作にも通じますが、特に『監獄のお姫さま』(2017年)以降、宮藤さんの描く女性はよりパワフルに、エネルギッシュになっている印象があります。その一方、中高年の男性はどんどん情けなくなっているような……。
宮藤:たぶん、もともと飽きっぽいからなんですよ。そもそも『監獄』を書いたのは、その前に若い子たちと一緒にドラマをやったので、次はおばちゃんがベラベラ喋ってるだけの作品をやりたいと思ったからで。いまは「50代男性、どうすんだ?」ってことに興味があるんです。僕が50代男性で、自分にとってリアリティがあるからかもしれないですけど、しっかり面白がれる気がするんですよね。なんか情けないし、だけど情けないのが面白いなって。
女性ということで言えば、たぶん役者さんとの出会いが大きいと思います。『監獄』の満島ひかりさんや『ゆとり』の安藤サクラさん、最近だと『離婚しようよ』の仲里依紗さんもすごく面白いから。面白い台詞をズバッと気持ちよく決めてくれる女優さんとの出会いが多いと、自分の作風も自然に変わってきますよね。この人と一緒に何をしようかなとか、この人でこういうのをやったら面白そう、っていうのが毎回のスタートかもしれません。
―最後に、宮藤さんの第二章が始まるいま、一番挑戦してみたいことをお聞かせください。
宮藤:連続ドラマは、やったことのない世界観やジャンルがたくさんあるし、まだやっていない役者さんとの仕事もあるから、今後もまだまだ書けるはず。というか、書かないと第二章は短いですね(笑)。第三章まであるとは思っていないので、まだ手を付けてないことを一通りやってみたいです。
映画の仕事は……僕は映画を観るのがすごく好きなんですけど、自分が撮る映画と、自分が好きな映画が乖離してるんです。「なんでだろう?」ってよく考えるんですけど、もしかすると俺がつくってる映画って、本当に自分がつくりたい映画じゃないのかもしれない(笑)。それに、自分とは全然違うタイプの映画を観ると、「こういうのをやりたいな、俺なら絶対こうならないし」と思うんですよ。だから、次は自分が観たい映画をつくりたいですね。
―舞台はいかがですか?
宮藤:もちろんやりたいです。コロナ禍を経験して、やっぱりお客さんのいる前でやりたいと強く思ったんですよ。お客さんを入れずにやったこともあるし、配信だとかいろんな選択肢が増えたからこそですけど。
最近、姫路に平成中村座を観に行ったら、お客さんが声を出してもいいことになっていて。やっぱり、お客さんが心から開放的な気持ちになっていると全然違うんですよね。去年、『唐茄子屋 不思議国之若旦那』(※1)をやったときも楽しかったですけど、そのときはまだルールがいろいろあったので。このあいだ本多劇場で芝居をやったとき(※2)も、肉体的にはキツいはずなのに、お客さんの笑い声で一日の疲れが消えたのがわかったんです。「ああ、ほんとにウケたいんだな、俺」って思いました。