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冒険家・角幡唯介が犬橇を始めた理由とその目論み 「犬と人間が一致団結するというのはファンタジーに過ぎない」

2023年07月29日 12:01  リアルサウンド

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 探検家であり作家である角幡唯介氏の「裸の大地シリーズ第二部」『犬橇事始』(集英社)が先ごろ刊行された。第一部『狩りと漂泊』では、橇を引き、犬一頭とともに徒歩でグリーンランドの極地へと旅に出た。目標に到達することを至上とする直線的な行動へのアンチテーゼが強く現れている本書は、「漂泊」の旅により角幡氏自身が未知の土地への思考を再定義し、新たな“覚醒”をする。第二部『犬橇事始』は、そんな未知の土地により深く入り込むために角幡氏自身が橇を一から作り、犬たちを訓練し、第一部で入り込めなかった土地へと再び相対することになる。そんな本書を上梓した角幡氏に、極北の“土地”とのかかわり、犬たちとのことなど話を聞いた。(文・取材=すずきたけし)



裸の大地とは

ー最新刊『犬橇事始』のお話の前に、第一部『狩りと漂泊』の冒頭についてお聞きしたいのですが、北海道の日高山脈に地図なしで登り、そこで山々が未知であることに角幡さんは改めて脅威を感じて山々を「裸の山」と表現していました。シリーズを「裸の大地」というタイトルにしたのもこの経験からだと思いますが、この「裸の大地」にはどのような意味が込められているのでしょうか。


角幡:僕らが今見てる世界というのは決して真実ではないのではないか、ということですね。この時代の、近代以降の現代の文化の中で生まれたことによってフォーマットされてしまった思考回路みたいなのがもともとあって、そのフィルターを通して見てる世界にすぎなくて、例えば効率化だとか何かを達成しなきゃいけないといった圧力として現れているような気がするんですよ。そういった思考回路以前の、そのままあるような世界がたぶんあって、それに入り込むことが日高の地図なし登山でできたような気がするんです。


  最初はすごく不快で、ずっと険しいゴルジュ(切り立った岩壁にはさまれた峡谷)が続いて、地図を持ってないからそれらがいつ終わるのか分からない状態だったんです。でも実はそれが真実の世界であって、普段の(地図をもった)山登りは地図という未来を予期できるツールで本当の世界を覆いかぶせて見えなくなっているんじゃないかと感じました。


  狩猟をやった時もそれに近い感覚で、狩りをすることによって自分が生きることができる、生かされているという、初めて土地の中に入り込むことによって見えてくる風景や境遇だったりするわけですよね。その風景に入り込むことができたらすごく生々しい風景や自然環境が、自分にとってすごく切実なものとして立ち上がってくる。それが日高では地図をもたず狩猟をすることで入り込むことができた。


  今見ている僕らの何か到達優先の風景とは切実さの点において全然違うんですよ。なので土地と自分がすごく深く関わり合っているときに見えてくる山だとか、見えてくる極地というのが「裸の大地」というタイトルの意味ですかね。


思考や考え方で見えた「いい土地」、そして漂泊という旅

ーー『狩りと漂泊』ではその到達優先の旅のアンチテーゼとして“漂泊の旅”を示されていました。そのなかで角幡さんは、それまでの風景を漂泊によってご自身の中で一度裸の山にして、再び新しい景色と土地を見出して地図を作るという、新たな思考に辿り着いて“覚醒”したように感じました。このときの旅で「これだ」というような感覚はあったのでしょうか。


角幡:何回かあって、意識的にそうなりたいって思ってた結果だとは思うんですけど、『極夜行』(文春文庫)のときもあったし、日高のときもそうだったし、『狩りと漂泊』で言えばフンボルト氷河のアザラシの猟場ですよね。たくさんといっても、実際に行ったら遠くの黒い点みたいな感じなんだけど、「あそこにいる!あっちにもいる!」みたいな、それが僕にとっては「めちゃくちゃいるな!」って感じるんですよ。このアザラシが獲れたらもっと北に行けるわけじゃないですか。そういう、「めちゃくちゃいいとこだな!」っていう感覚がありましたね。


ーー本書でおっしゃられた「いい土地」のことですね。その「いい土地」は目標到達至上主義で目標に移動してるときは気が付かないですか。


 角幡:アザラシがいるのは気が付くかもしれないですよね。けどそれが自分にとって意味ある存在として立ち上がってくるかどうかっていうと、そうじゃない。「アザラシがいるな」で終わっちゃうかもしれない。その時は僕とその土地だとか、風景との間ですごく深い関わり合いが生じるかといったら生じないわけですよ。自分の思考的な態度っていうか、何を求めてるかっていうのが重要で、外の世界っていうのはただそこにあるだけじゃなくて、こっちが思考することによって向こうが反応して初めて意味ある存在として結晶化するわけじゃないですか。だから、その有機的な関連性の結果だと思うんです。


ーー思考とか考え方が変わったことで、見えるものが全く違うものになるということですね。


角幡:そうですね。『狩りと漂泊』ではすごくそういう風に自分を変えようとしてたっていうのはありますよね。漂泊登山っていうのを考え始めたのが極夜行の前ですから、たぶん2014年か15年ぐらいから考え始めたんですよ。『アグルーカの行方』(19世紀に北極探検中に消息を絶った英国のフランクリン隊の足跡を角幡氏が荻田氏と辿った探検記)を書いた時に荻田君と一緒に長い旅をしたんですけど、あの旅は僕にとってはすごく大きな意味があって、あれをやらなかったら全然違ったと思うんです。


  その時は本当に典型的な計画的な到達行動で、GPSを使って1日あたりのスケジュールを刻んでいくオーソドックスな今の冒険の方法なんですよ。それを経験した時にものすごく違和感があって、「すげえ距離歩いてすごい疲れたけどなんか深いところに全然入れなかったな」っていう感覚がすごく強かったんです。


  当時はGPSを使うことによって風景が見えなくなるっていう風に考えててその結果だと思ったんだけど、旅してる土地と自分がどうしても噛み合わない、距離ができてしまう。そこにいるんだけどただ表面を通過してるだけで、深いところに入っていけないわけですよ。その正体は何だったのかっていうのをこの今に至るまでの問題意識としてはすごくあって、『極夜行』では極夜っていう現象自体を未知のものとして考えた探検で、地理的な目標地点を目指さないことを模索した旅のひとつでしたけど、目的のために今を消化するのではなく、今の出来事に自分をまるごと晒したい、そういう風に自分の思考回路とか行動原理を変えることで何か見えてくるものがあるんじゃないか、その結果として行動原理を変えるしかない。それは到達じゃなく漂泊だ、と考え始めたと思います。漂泊の旅にすると自分と土地との調和感っていうか融合感が全然違いますよね。



裸の大地第二部『犬橇事始』のこと

ーーその漂泊の旅を追求するために犬橇をスタートするのが今回の第二部『犬橇事始』ですが、イヌイットの人が作った橇ではなく、角幡さん自らがすべて作られていて驚きました。道具を一から作ろうと考えた理由はなんですか。


角幡:もともと自分で一人で歩いてる時から小型の橇は作ってはいたんですよ。犬橇も最初から橇は自分で作ろうと思ってたんだけど、先ほどと同じで風景との距離感みたいなのがすごく嫌だったんです。それはいたるところであって、物との距離感みたいなのもあるわけですよ、物に到達できない。自分で作ってない橇だったら、誰かの力だとか誰かのアイデアによって自分は旅することになるわけです。それでは橇に自分は関与できてないんですよ、自分が関与してないもので旅をしても、自分の行為そのものと自分は距離があるわけです。


  その距離がやっぱり虚無感みたいなの生み出していて、犬もそうです。最初はイヌイットの人が育てて調教した犬でまとまったチームをそっくり譲り受けたほうが絶対にうまくいくに決まってるんですよ。だけど、それは自分が育てた犬じゃないし、その犬は自分と何の関係もないわけです。自分の時間も労力も費やされていない犬で旅をしても、その旅は自分の旅なのかと考えたら自分の旅じゃない、旅と自分の間に距離がある。橇を作ろうと思ったのもその距離を消すためには自分で作るしかないわけです。それはさっき言ったような漂泊の概念と同じで、いかにして自分の周りにある距離を消すかということですね。


犬との距離感

——今回の本は角幡さんと犬たちとの物語と言っても過言ではないと思うんですが、当初から第二部では犬と関係にフォーカスさせようと考えていたのですか。


角幡:第一部のときはいろいろと評論っぽい話とルポみたいなのを組み合わせた本を書きたいなと思ってそういう本にしたんですけど、第二部はそれよりもドキュメンタリーの要素を多くしたいなと思いました。そんなに深い意味があったわけじゃなくて第一部でちょっと疲れたから(笑)、第二部はもうちょっと肩の力を抜いて書こうと考えてました。ちょっと面倒くさい話も書いてありますけど。


——現在の日本に住む私たちと犬との関わり方からすると、本書での角幡さんと犬との関係は大きく違っていて、例えばジャック・ロンドンの小説(『野性の呼び声』や『白い牙』など動物小説を中心にリアリズム文学の先駆的作家)のような切実な環境と重なるような、ある部分ではとてもショッキングなところもありました。角幡さんにも「犬はかわいい」という感覚はあると思うんですけど(笑)、犬に怒鳴ったり折檻したりと、そういった犬との距離感がとても新鮮であり興味深かったです。


角幡:犬橇をやれば分かるんですけど(笑)怒鳴らないってのはありえないんですよ。それはもう、考えとか以前の問題で、突然バーっと走り出したりすると「コノヤロー!」となっちゃうんですよ。


——犬橇は人間と犬とが互いに協力して行動するというようなイメージでしたが。


角幡:僕もそう思ってましたよ。けどそれはファンタジー。ファンタジーに過ぎない。僕は犬橇の本では本多有香さんの『犬と、走る』(集英社)ぐらいしか読んだことないんですけど、例えば犬橇りの映像とかだと良いとこしか見せないないわけですよ。それは世間でやっぱり犬と人間の関係ってのは、犬と人間が一致団結してっていうファンタジー化されててね。そういうファンタジーがすでに成立しちゃってますから、そこからはみ出す書き方ってなかなかできない。ジャック・ロンドンだけですよちゃんと書いてるの。あれはちゃんとホントのこと書いてるから。なかなかああいう書き方はできない。でも怒鳴らないってのはない(笑)


——角幡さんが怒鳴ると、やっぱり犬もわかるものなんですか。


角幡:いやまあ、賛否両論あると思いますけど、僕も5年間いろいろなやり方でやってきて、1、2年目はホントに制御できないからどうしても怒鳴っちゃうし、手も出る。3年目、4年目になってくると自分で育てた犬が出てきたりして、怒鳴るとか殴るとかしなかったんですよ。それすると自分もめちゃくちゃ疲れるし。そうするとね、今年わかったのは、やっぱね、優しくすると走んない(笑)


——甘やかしちゃダメですか。


角幡:甘やかすとやっぱ走んない。この2、3年、殴りたくないなっていうのはありますから、なるべく手を出さないようにして怒鳴らないようにしたりして子犬の時から育ててたんですよね、そうすると、やっぱね、走んない。


——犬がサボるという感じですか


角幡:サボる。普段は走るんですよ。体力があって元気な時は走るんだけど。本当に疲れてきて「かったりぃな」って思った時に走んなくなる。頑張れば本当に登れる坂とかも止まっちゃうんですよね。『犬橇事始』で書いた最初の2年目の時のチームは年齢的なものもあって犬たちも精神的に成熟していましたけど、今の犬は1歳2歳が多かったんですよ。それで今年の旅の途中ですごく厳しくし始めたんですよ、「行くぞ!」みたいな感じでわざと煽って。そうするとやっぱ走るんですよ。本当に極限的な状況になったら厳しくした方が走る。


犬は相棒ではない

——『極夜行』から第一部『狩りと漂泊』にはウヤミリックという一頭の犬と旅をされていて、本書の犬橇のチームでも長い付き合いとして角幡さんはこの犬を気にかけていましたが、犬たちは角幡さんにとって相棒とは違いますか。


角幡:相棒というより自分自身ですね。ちゃんと走ってもらうためには教育して、自分たちで一緒にチームとして場数を踏んで修羅場をくぐっていなくちゃいけないんですよ。走れるようになってもらうために僕自身も努力するし、犬に自分の労力、お金、時間を全部注入して生活そのものも犠牲にしてやってるわけですから。走れるようになったらそれはもう嬉しいし、犬が自分の思ってるように動いてくれたらそれは自分の行動そのものなわけです。自分の存在が犬に憑依したような感じで、できるようになったら自分ができるようになったことと同じ意味です。そういう意味では子供に近いかもしれないですね。子供は友達じゃないじゃないですか、相棒でもない、子供は子供なわけで、もう一人の自分なんですよ。それに近いかもしれない。


イヌイットの言葉「ナルホイヤ」の意味とは

——ここではあえて触れませんが、今回の『犬橇事始』は『極夜行』から読んでいた人にとってはかなりショッキングなラストでした。そしてその際に「ナルホイヤ」というイヌイットの言葉が登場します。「裸の大地」シリーズでとても重要なこの言葉がとても強烈に読後に残るのですが、改めてこの「ナルホイヤ」がどのような意味なのか教えていただけますか


角幡:『狩りの思考法』(アサヒグループホールディングス)という本でも書いたんですけれど、「ナルホイヤ」とは“分からない”って意味なんです。イヌイットの彼らの生の哲学みたいな感じですよね。さっき言った「漂泊」と同じ行動原理だと思うんですけど、“分からない”ってのはただ単に適当で、いい加減だっていうことではなくて、自然とか世界ってものは“分からない”という態度で望まないとダメなんだっていう彼らの思想ですよね。それは何か未来のことを考えてそれを前提に計画してしまうと、どうしても人は計画に縛られて計画通りに行きたがるんですよ。


——計画のために無理をしてリスクを増やしてしまうとか。


角幡:必ず人は計画をして、未来を見通した上で今を見てしまうと絶対にその未来に縛られてしまうから、判断を誤る。だから計画そのものがダメなんだ、目の前の出来事に対して謙虚になれっていう思想ですよね。それはいろんなところに現れていて、物を作るときも設計図を基にしちゃダメ。例えば木材がありますよね。木目は木によって違うわけで、その木目を見てどのように作るかを考えなきゃいけない。設計図を基に作ってしまうと生産効率が上がって社会全体の、例えば机の生産量が上がって同じ品質のものができるかもしれない。だけど究極にこの木目を考えて木そのものを活かしたものはできないわけですよ。だから、必ず物を作るときは木目と相談して、例えば橇を作らなきゃいけない。そういうふうに本当に目の前の世界と向き合ったときに最適な答えは、僕の言葉で言ったら、それは計画じゃなくて漂泊だってことです。


——「ナルホイヤ」はこのシリーズで本当に象徴的な言葉だと思います。


角幡:彼らイヌイットは旅をするときも予定を決めないんですよ。どこに行くか分かんないけどとりあえず旅に出るみたいな。「北の方に行く」とか、「アウンナットに行く」とか、アウンナットの先はどうするのと聞くと「そのあとは分からない」。それはそのときの獣の状況次第だから。彼らの旅のスタイルってのは常にそういうふうに漂泊なんですよ。獲物を相手にしたときにじゃあどこに行くのか、いやこの辺に行くけどその後のことは分からん、というような感じですよね。獲物が獲れたら終わりだし。


変化する時間の概念

——「ナルホイヤ」という思想・哲学によって、未来を予期するよりも今、現在を中心に意志決定がされるという世界で角幡さんは長年活動されているわけですが、ご自身の時間の概念は以前とくらべて変わりましたか。


角幡:変わりましたね。めちゃくちゃ変わった。時間の概念っていうか、行動の仕方がすごい変わりました。先ほど言ったように昔は計画的に行動してましたから、目の前の土地だとか、風景との距離感というか、「自分はこの土地を旅してるけど全然入り込めてないな」という感覚がすごく強くあったんだけど、今は無いもん、すげえマッチしてるな(笑)


——例えば二時間かかるA地点に向かっている途中で何か見つけたときに、例えばそこにBっていう地点が見つかったとして、立ち寄りたいけど片道1時間、往復2時間みたいなことを考えてしまう。漂泊ではそれを考えなくてよくなったということですか。


角幡:そうですね。完全に考えてないわけじゃないけど、「まあいいや」って思えるようになった。フンボルト氷河に向かっているときに、昔は別の場所のあそこに行きたいなって思ってもやっぱり通過しちゃうんですよ。この『犬橇事始』の最後の旅でもまだそうだったんです。でも今ではもう獲物探しながら、この先に行くのに何日も遅れちゃうんじゃないのって思っても、まあ別にいいやっていう感じにはなってきました。


——狩りによって食料の制限もなくなったからですね。


角幡:別にいけなくてもいいや、みたいな感じになってきた。それよりもまずここでとりあえず獲物を取る。そのこと自体に意味がある。犬橇はルートがすごく限られていて、雪が硬くてしっかりした土地の条件とかその時々の条件に従っていかないとひどいことになるんですよ。それをうまく使っていくと、無理やり行動してる感じがなくなる。ちゃんと土地を使って移動できてるって感覚があるから調和感がすごくあって、それがすごく嬉しいんですよね。ちゃんと土地の条件を使って移動できた時のよく分からない喜びがあって、土地と自分とがうまく調和できてる、人間の移動の根源的な喜びみたいなのがそこにあるような気がするんです。その喜びの感情が大事なのかなっていう気がします。




角幡氏が描きたいこと

——本書で角幡さんは、その土地の自然にねざしたナチュラルなやり方の旅を「真の旅行力」と呼んで、それを具象化したのが「エスキモーの旅である」と書かれています。かつての「エスキモー」たちにも、そうした移動の根源的な喜びがあったのでしょうか。


角幡:自然とか土地の中に流れみたいなのがあって、そこにうまく入り込んでいくことで自分が成立するっていうかね。自分の移動だとか存在そのものが成り立っているような喜びですよね。今自分がやってることっていうのは、ある意味で文化人類学的なアプローチでありたいなと思ってるんですけど、その従来の文化人類学って参与観察みたいな、一緒に行動するんだけどそれを対象として見てるわけですよね。自分の場合は観察じゃなくて「エスキモー」の行動原理とか視点みたいなものを自分の中に取り込んで、そこから見えてくる世界みたいなのを描きたいなと思っています。文化人類学者は観察するんだけど、僕は観察じゃなくて行為そのものをエスキモー化することで、彼らが見ていた世界っていうのを記述できないかなというのが、ひとつ目論んでいることですね。


旅や冒険を文章で表現するということ

——今の世の中では冒険や体験そのものを動画やSNSで発信して、共有したり伝えたりするのが一般的ではありますが、角幡さんのこれまでの著作では写真などもあまり撮られてないですね


角幡:僕は文章を書く人間ですから、もちろんそれは文章で表現したいからです。僕みたいなフィールドをやってる人間にとっては、表現の受け取り側として動画というのはすごく有効なツールだと思うんです。文章でいくら読まされたってなかなか想像できないしそれはよくわかる。動画見たほうがわかりやすいに決まってるわけですよ。でも、それは受け取り側の問題であって、僕の問題じゃないんです。無責任かもしれないけれども、僕がやりたいのは自分の行動を文章で表現するっていうことなんです。あと書くことによって自分の思考が深まっていくというのもあります。普段はぼーっとしてあんまり思考できない人間なんですけど(笑)


違う価値観をぶつけることは書き手の責任

——この『犬橇事始』に興味を持たれた方にひとことお願いします。


角幡:違う世界を見てほしいなってことですかね。やっぱり狭い世界に閉じこもって価値観を作り上げちゃってると、どうしても自分を相対化できないと思うんですよね。なんで僕が自分の経験だとか、社会的になんの生産性もない、全く意味のない話を書くかっていうと、やっぱりそれは読者に自分の価値観みたいなのを相対化してほしいからです。


  犬の話ひとつとっても日本の愛犬主義とはまったく違うことが書いてあるわけですよ。だけど、犬との付き合い方でも、愛玩的なものではない付き合い方、もっとこう自分の生活、実存そのものが犬に結びついてしまっている文化っていうのがある。そういう文化は、もしかしたら愛玩主義的な考え方からするとちょっと気持ち悪かったり、残酷だったりと信じられないものがあったりするかもしれないけれども、どっちが生き物としての犬の存在から見て正しいのかって考えると分かんなくなるわけですよね。


  むき出しの荒野の中で白クマを追いかけてひたすら橇を引いて野生の本能のまま動く犬が正しいのか、家の中で服を着てドックフードを食べて1日30分ぐらい散歩してもらうことが犬にとって居心地がいいのか、これは分かんないわけですよ。この本を読んだときに、もしかしたら何か自分の考え方が相対化されるかもしれない。冒険だとか探検だとかっていう、ある意味社会的に無意味なことを書くっていうのは、やっぱり時代だとか、社会の常識を揺さぶるっていうのがひとつの役割だと思うので、そういうふうに読者がちょっとザワザワして視点がちょっとでも相対化されたらいいですね。


——この本はだいぶザワザワしますね


角幡:なんかムカつくな、でもいいと思う。誰もが喜ぶような分かりやすい話にしてしまうと書く意味がない。その価値観は本当に正しいのかって、ある種の異議申し立てをすることが必要だと思うんですよ。違う価値観をぶつけるっていうのは書き手の責任だと思うんです。じゃないと同じ方向に染まっていっちゃって、そこからはみ出たものは全部排除してしまうような、今は結構みなそういう感じじゃないですか。それがすごく嫌だっていうのがありますよね。


角幡唯介(かくはたゆうすけ)
1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大卒。探検家・作家。チベット奥地のツアンポー峡谷を単独で二度探検し、2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第八回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第四二回大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞。その後、探検の地を北極に移し、11年、カナダ北極圏1600キロを踏破、13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第三五回講談社ノンフィクション賞。16~17年、太陽が昇らない冬の北極圏を80日間にわたり探検し、18年『極夜行』(文藝春秋)で第一回Yahoo ! ニュース 本屋大賞ノンフィクション本大賞、第四五回大佛次郎賞。ほか受賞歴多数。19年から犬橇での旅を開始、毎年グリーンランド北部で2ヶ月近くの長期狩猟漂泊行を継続している。近著に『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』(集英社)。