2023年07月25日 09:01 弁護士ドットコム
新聞やテレビなどのマスメディア業界を取り巻く状況が一段と厳しさを増す中、新聞記者から私立中高の校長先生に転じた人がいる。記者のセカンドキャリアとしては、ネットメディア記者・編集者や民間企業の広報担当への転職、フリー転身、さらには政治家などが一般的で、極めて異色の存在だ。
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新卒以来、35年間勤めてきた毎日新聞社での定年を翌年に控えながら、芝浦工業大学柏中高(千葉県柏市)の校長を昨春(2022年4月)から務める中根正義さん(60)。事情や背景が全く異なる取材現場から教育現場に身を投じた1年間、どのような奮闘を続けてきたのだろうか。(ジャーナリスト 小西一禎)
「めちゃくちゃ、緊張しましたよ。めちゃくちゃ。だって、そもそも自分がやっていいのかって思うわけですよ」。昨年(2022年)4月、約1500人の生徒を抱える校長として初めて校門をくぐった時の心境を尋ねると、中根さんの声がうわずった。
政治家や警察官、文部科学省の官僚や大学関係者らと渡り合ってきた長年の新聞記者人生。仕事の傍ら、法政大学大学院修士2年生で論文執筆に追われていた2021年秋、中根さんに白羽の矢が立った。
芝浦工業大の評議委員も務めており「校長をやってくれないか」と、同大関係者が打診。最初は断るつもりだったが、恩師にあたる3人の先生に相談したところ、全員がこれまでの経験を教育現場で生かすべきだと後押しし、一世一代の決断に踏み切った。
「サラリーマン人生に区切りをつけるタイミングの直前に、活躍の場を与えてくれました。元々、教員になりたいという夢はあったので、やるしかないと腹をくくりました」
中学生時代から教師を志し、大学は千葉大教育学部の小学校教員養成課程に進んだ。千葉県の教員採用試験にも受かったものの、学生の身分で赴いた教育実習で、子どもたちから「先生」と呼ばれたことへの違和感を払拭できなかった。
受験した毎日新聞から内定を得て、指導教員に進路を相談したところ「新聞記者になってからでも教員になるのは遅くない」とアドバイスされ、マスコミの道へ。その指導教員が35年後、今度は校長就任を強く勧めることとなる。
意を決し、退路を断って、新天地に飛び込んだ以上、就任直後から常に全力で取り組んだ。教育の現場経験が一切ないことに不安と劣等感を抱えながらのスタート。
まず、生徒たちと接点を持てる機会を探し求めた結果、朝の登校時に一人で校門前に立ち始めることにした。「おはよう」、「おはようございます」。ほんの数秒のやり取りでも、生徒たちの表情をうかがい、顔を覚えるよう努めた。連日の早起きに備え、学校近くにマンションを借りた。
私立学校は、頻繁に人が入れ替わる公立とは異なり、長年勤務する教員が目立つ。初めて臨んだ教職員会議では、民間から校長ポストに乗り込んできたとの警戒感を隠さない視線を方々から感じた。
「『何やるんだ、こいつ。ひっちゃかめっちゃかにするんじゃないか』って、不安に感じたと思います。『よろしくお願いします』と言っても、とにかく、よそよそしかったですからね」
記者時代に培ったコミュニケーション力を生かして、教員たちとの壁を取り払い、距離を近付けるための策を試みた。
「自分から行かなきゃ、駄目だと思いました。この学校が持つポテンシャルの高さを指摘し、先生たちのこれまでの努力を評価した上で、『今のやり方を変えようとは考えていない』と、まずもって伝えました」
校長室のドアは、来客時や打ち合わせ時を除くと、常に開けっ放しにして、教員だけでなく生徒にも「入室OK」との意思を表示した。
記者生活35年のうち、20年間は週刊誌「サンデー毎日」の教育担当や教育事業室などを歴任した、生粋の教育専門記者だ。
大阪市などが導入した民間人校長制度は、「『学校現場は悪』との決めつけから始まっていた。となれば、組織を変えるということになる」と分析。反面教師に位置付け、組織にメスを大々的に入れることはしないと伝え、教職員が抱いていた懸念を取り払った。
信頼関係の醸成に着々と努めた結果、校長室をふらりと訪れる教員が一人、二人と次第に増えてくる。「少なくとも、僕に関心を持ってくれているとの実感が得られるようになりました。夏休みぐらいになると、だいぶ打ち解けて、本音で話してくれる先生が出始めてきました」。
教員志望で教育学部出身、教員免許を持ち、記者として教育畑を歩んできた経歴を保護者会などで説明すると、一定の安心感や信頼が得られているとの感触はつかめるという。とは言え、勝手が異なる現場に足を踏み入れ、行事に追われた1年間を振り返ってみると、戸惑いを隠せない時がある。
「今、思えばですが、高みの見物をしていたのだなあと。偉そうに『こうすべきだ、こういう風にやらないといけない』などと、第三者の立場から記事を書いてたわけです。教育現場の大変さは、やっぱり現場に足を運んでみなきゃ分かりません。何も知らずに書いていたのだと思い知らされました」
昨今指摘されている学校教育現場のブラック職場化や教員のなり手不足に代表される働き方改革について、どう考えているのか。
「難しいのは、どこからどこまでが自分の仕事で、その先は趣味でやってるのか、仕事でやってるのか、グレーゾーンが多い点です。それは、記者も同様です。クリエイティブな仕事は、線引きが曖昧ですし、線を引いてしまうと、クリエイティブさが失われます」
「教員は、場合によっては24時間、子どもに寄り添わなきゃいけない時だってあるかもしれません。とは言え、先生にも時短の意識は必要です。頑張りたい先生の意欲や働きがいをなくさないために、どうすべきかという視点で取り組まないと、教育そのものが死んでしまいます」と力を込める。
就任2年目を迎え、多少の余裕がでてきた今年度、徐々に「中根流の改革色」を鮮明にしている。進路部の名称をキャリア開発部に変更。前後期の二学期制であるにもかかわらず、三学期制だった以前の名残で年5回実施していたテストを、前後期2回ずつの4回に減らした。授業のコマ数減も検討している。
今や進学校になっている同校。その過程で、屋上屋を重ねるような改革が度々行われてきた。中根さんは、教員が疲弊しているだけでなく、教員間のコミュニケーション不足が目立っていると指摘する。
1年を通して、身近で見てきた教員の働き方を巡り「仕事のやり方をちょっと変えてほしい、と話しています。『僕はこういう風に思っていて、この学校に足りない点は、恐らくこういうことなんじゃないか』と説得して進めています」。中堅、若手の教員を集め、組織改革に向けたプロジェクトチームも立ち上げた。
今年の春に卒業した生徒を巡り、忘れられない思い出がある。昨年8月、進路で悩み、相談に訪れた生徒の話を聞き、長年の大学取材から得た知見を踏まえ、ある大学の学部を紹介し、パンフレットを読むよう伝えた。
「先生、私がやりたかったこと、まさにこれなんです」と生徒の顔色が明らかに変わったのに驚いた。受験勉強にスイッチが入った生徒は、その志望学部に合格した。
「そういう瞬間に出会えるって、とても楽しいですし、人を育てるのは喜びですし、本当に嬉しいです。子どもって、一つの問いかけで変わる瞬間があるんですよ。その生徒は、大学に通うのが、楽しくて楽しくてしょうがないそうです」
今は3年任期の2年目。年齢を考えると、少なくとも2期は勤め上げて、改革に一定の道筋を付けたいと考えている。決断を見送り、新聞記者を続けていたら、どうなっていたか。
「これからどうなるのか分からないけど、とにかく、やりがいはあります。あのままずっと、竹橋(毎日新聞の本社所在地)にいたら、『あんまり仕事を振るんじゃねえよ』などと言いながら、やりたい仕事だけをやって、日々を過ごしていたロートルだったでしょうね」。
【筆者】小西 一禎(こにし・かずよし):ジャーナリスト。慶應義塾大卒後、共同通信社入社。2005年より政治部で首相官邸や自民党、外務省など担当。17年、妻の米国赴任に伴い、会社の「配偶者海外転勤同行休職制度」を男性で初取得、妻・二児とともに渡米。20年、休職期間満期につき退社。21年、帰国。米コロンビア大東アジア研究所客員研究員を歴任。駐在員の夫「駐夫」として、各メディアへの寄稿多数。「世界に広がる駐夫・主夫友の会」代表。23年、法政大大学院政策創造研究科で修士号取得。執筆分野は、キャリア形成やジェンダー、海外生活・育児、政治、メディアなど。著書に『猪木道――政治家・アントニオ猪木 未来に伝える闘魂の全真実』(河出書房新社)。