2023年07月21日 10:50 弁護士ドットコム
元競走馬に約2メートルの土壁を駆け上がらせる三重県桑名市の「上げ馬神事」について、動物愛護法違反の疑いがあるとして愛護団体が6月、関係者約130人を県警に刑事告発した。
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5月の神事で1頭の馬が脚を骨折し、その後殺処分とされたことなどからSNS上で批判が噴出。奉納先の多度神社や、無形民俗文化財に指定している県などに対しても対応を求める声が高まった。
競馬に詳しい民俗学者の大月隆寛氏は、急坂を登らせる行為は明らかに無理があると指摘。その上で、神事が観光資源となって続いてきた背景に目を向けるべきだという。寄稿してもらった。
果たして「動物虐待」にあたるかどうかの法律的な判断はともかく、ごく素朴な感情として、これを「かわいそう」と思うのは自然でしょう。まして、骨折して「殺処分」という結果となれば、もう世論世情が否定的な方向に収斂していくのもある意味、当然かもしれません。
だから、単なる事故というだけでなく、犬や猫のようなペット動物を基準にした「いきもの」全体に対する気持ちと地続きになりました。「いきもの」を理不尽に「かわいそう」な目にあわせた結果「死なせてしまう」という、ほぼ無条件に「許せない」という感情を一気に喚起させる事案になってしまったようです。
そんな感情を最も端的に引き受けてくれるわかりやすい語彙として「動物虐待」があり、また、何よりもそれは昨今、ポリティカル・コレクトネス的な文脈での「正義」の意味あいもまとっています。
さらに「正義」である分、非難や批判の感情が実際の行動にまでつながりました。昨今は、こうした行動に出るまでのハードルも下がっていると感じます。「犯罪」として「告発」することへのためらいも薄くなり、そんなこんなで、ことさらに「炎上」しやすい事案になってしまいました。
とは言え、馬や牛、鶏などの家畜を、犬や猫などのペット=愛玩動物と同じ「いきもの」とだけ見ることが、一辺倒で押し通してしまえるものなのでしょうか。世間一般の素朴な感情としてはともかく、法律も含めた社会的なたてつけの文脈で考えれば、疑問が残ります。
肉食の是非から動物の「権利」など、一連の大きくも厄介な、いまどきのデリケートな問題群に連動していくことは明らかです。だからこそ、動物愛護団体による告発にまで波及しました。その結果、いまどきのわが国の社会にとっての「正しさ」とはなにかを考えねばならない、大きな問題をはらんだ事案になったようにも見えます。
大きな問題に舞い上がって事態がもみくちゃにされていく前に、まずは現実のできごととして、地元に根ざした「神事」にまつわる事故として、考えることも必要でしょう。「炎上」という事態に眩惑されて、事を解決していく際の補助線として考えておかねばならない小さな問いがいくつか見落とされているように思えます。
まず、馬をしてあの「壁」を駆け上がらせる、苛酷な神事の形態が本当に昔からの「伝統」なのかどうか。現在の形になるまでの経緯や、その背景などはどれくらい明らかにされているのか。「神事」「伝統」であるという意識が、地元の当事者の人たちの間に、果たしてどれくらい共有されているのか。
そもそも、競走馬あがりの馬、つまり腐ってもサラブレッドの軽種馬を使ってあのような壁を駆け上がらせるのは、明らかに無理があります。でも、かつての農耕馬や、普段から仕事に使われていたような駄馬の類を使っていた頃はどうだったのか。同じ神事でも形態が違っていたかもしれません。
馬といういきものを、農耕であれ使役であれ、地元で実際に飼養して日常的に扱っていた経緯はあったのか。わが国の場合、農耕馬であれ何であれ、いきものとしての馬が、普段の暮らしからほぼ姿を消してすでに久しいはずです。そんな中、「伝統」の「神事」として継続されていた、あるいは継続しなければならなかった事情とは、どのようなものだったのでしょうか。
ある程度広く世間に知られるようになっていた、いわば「観光」資源にもなっていたことも浮かんできます。ならば、そのような環境になっていたがゆえに「苛酷」がことさらに加速したところはなかったか。かつては行われていなかったような動きに、歯止めがきかなくなっていったところはないだろうか。
無形民俗文化財に指定され、「観光」資源にもなっていたのなら、行政側もそれなりの支援をしてきているはずです。今回の告発にも三重県知事がコメントせざるを得なくなりました。予算的な措置から人馬双方の安全確保への配慮、地元にある民間の運営組織との連携など、行政は行事の存続や維持にどう関わっていたのでしょうか。
「文化財」であると共に「観光」資源でもある「伝統」「神事」の現在に対する、行政レベルのあるべき関わり方、責任あるコントロールの仕方についても明らかにして、考えておかねばならないことでしょう。
一般的に、このような馬を使う神事やお祭りの類には、昨今JRA(日本中央競馬会)やNAR(地方競馬全国協会)などを経由して補助金や助成金もつくようになっています。これは公営競技としての競馬の利益を社会に還元していく事業の一環でもあります。有名な相馬野馬追やチャグチャグ馬コなど、馬と人とのつながりを反映した伝統的な文化財の維持にこの制度が大きく貢献しているのは確かです。
「神事」も「伝統」も文化財も、わが国の現在、〈いま・ここ〉においては、これらの環境があって初めて存続可能になっているという側面もまた、見落としてはいけないことのはずです。
そもそも最も本質的な問題は、わが国の日常生活から馬が姿をほぼ消してしまって久しいことです。
いきものとしての馬を実際に使おうとすれば、競走馬あがりの軽種馬か、いわゆるポニー種系統の馬しか調達できなくなっている。さらに、暮らしの中で実際に馬に触っていた世代も高齢化し、馬といういきもの自体どういう性質のものなのか、その適切な扱い方が一般常識としてはわからなくなっているところもあります。
もちろん、このような場合、乗馬や競馬関係の人たちが支援して基本的なことをレクチャーするなどの努力もなされています。もともと競馬のためだけに、馴致(じゅんち:ならすこと)調教された馬で、今回のような目的にいきものとしての馬を使う場合には、正直、予期せぬさまざまな「危うさ」も伴ってきます。
たとえば、自分が某県で見た神事も、参詣路のほぼ直線200メートル程度の最後に坂があって、一気に登らせるのが見せ場になっていました。どうやらこのような形式自体、中部地方から西南日本にかけて、ある時期以降に整えられ、定着していった経緯があるようなのですが、これについては別途また、広汎な調査と考察が必要でしょう。
ただ、そこの場合は、上げ馬神事のように「壁」ではなく急坂程度だったので、競走馬あがりの馬たちでも何とか駆け登れるものではありました。地元に馬の扱いのわかる人がいなくなって以降に、文化財に指定されて再興された経緯もあり、「観光」資源としても行政が注力していました。
年に一度の神事のためだけに普段から馬を飼養しておかねばなりません。人手も金銭的にも余力のある家はもう少ないのに、とにかく行事として維持・存続はしなければならないという縛りがかかっています。
一方で、地域として、地元としてまだ活力があるからこそ、こういう神事を維持できているという事情もあります。実際、現役の若い世代も、地元の人だけでなく、神事にあわせて里帰りしてくる都会の人など、世代を越えて積極的に参加できる条件と環境がそろっている地域でないと、このような「伝統」行事は続けられなくなっています。
逆説的な言い方になりますが、そのような活力がまだある地域だからこそ、今回のような問題も起こり得るわけです。なるほど、現地ならではの事情が輻輳(ふくそう)しているなぁ、と、その時もあらためて痛感しました。
そのような意味で、これは今回の多度町だけの問題でもない側面もあり、いずれにせよ、地元ならではのこのような個別具体の事情を十分にくみとった上で、行政も含めたきめ細かなコントロールの必要なところでしょう。
もうひとつ、重要なこととして、「動物虐待」反対を問答無用の「正義」とした非難や告発の類には、どこかで自省と歯止めも必要です。2021年の春、北海道帯広市のばんえい競馬における能力試験で「馬の頭を蹴った」と非難され、一時、問題化された事案がありました。
動物愛護団体らによる市役所へのクレームが殺到したことが、事態をいたずらに全国化させるきっかけになった。「かわいそう」一辺倒、家畜も動物園の動物も競馬場の馬も、全部「いきもの」を一括りにペットと同じように考えてしまう世間の風潮は、「善意の傲慢」「正しさまかせの暴力」を本質的にはらんでいます。
それは、一人一人がいかに善意からの行動であっても、実際にそれらいきものと共に仕事をし、共に生きる現場の、個別具体的な事情をもあらかじめなかったことにして、メディアとの相乗効果で時にとめどなく暴走します。
馬について言えば、こと競馬だけは近年、これまでとは違った人気もまた広がっています。ゲーム「ウマ娘」をきっかけに新たに興味を持った世代が、カメラやグッズ片手に競馬場に押し寄せたり、ネットを介して全国の競馬を同時に視聴したりしています。
時には100円でも馬券を買い、かつて活躍した人気馬の情報などにも自在にアクセスして、いきものとしての実際の馬に触れたり扱ったりした経験はなくても、言わばコンテンツとしての馬を「見る」リテラシーをあげてきています。
日々の暮らしから馬が姿を消しても、世間の意識、人々の想像力の上でのコンテンツとしての馬は、いまのわが国においては、これまでになく確かな形象として定着している面もありそうです。
良くも悪くも、そのような情報環境にわれわれは生きている。いきものとしての馬もまた同じです。そんな中、実際に馬を使う「神事」を、「伝統」として文化財として、また「観光」資源として維持継承していくことを考える場合、果たしてどのように扱うのが最も適切なのか。
そのためには、すでに日常の暮らしからは遠ざかってしまった馬といういきものが、この国この社会においてどのようにわれわれ日本人と共に生きてきて、そして眼前にいるのか。言葉本来の意味での歴史や文化といった文脈からの、そのような間口の広い問いをゆったりと共有した上で初めて、われわれ人間にも馬にも、共に真に幸福なあり方もまた、見つけていけるものだろうと思っています。
【プロフィール】大月隆寛(おおつき・たかひろ) 1959年生まれ。札幌国際大学人文学部教授 (2020年夏に「懲戒解雇」処分を受けて提訴し、一審全面勝訴。現在、控訴審係争中)。早稲田大学法学部卒。東京外国語大学助手、国立歴史民俗博物館助教授などを経て、「懲戒解雇」で現在、再び野良の民俗学者に。著書に『厩舎物語』『うまやもん』『無法松の影』『民俗学という不幸』など多数。
参考)馬の頭を蹴った、から始まること