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ジブリ新作『君たちはどう生きるか』のベースには2冊の名著がある 宮﨑駿監督に影響を与えた物語とは?

2023年07月16日 09:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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  吉野源三郎の小説からタイトルを引き、ジョン・コナリーの児童文学から物語を取り込んで宮崎駿監督の想像力で膨らませ、スタジオジブリの技術力で最高のアニメーションに仕立て上げた。7月14日に公開となった宮崎駿監督の10年ぶりの長編アニメーション『君たちはどう生きるか』はそんな風に、幾つもの要素が重なり合って出来ているハイブリッドな作品だ。


■現代人にも訴求する、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』

 『 君たちはどう生きるか』。宮崎駿監督が『風立ちぬ』(2013年)を作り終えて長編アニメーションからの引退を発表してからしばらくして、引退を撤回して次の作品を作ろうとしていると噂された時に挙がったのが、このタイトルだった。誰もが吉野源三郎による同名の小説『君たちはどう生きるか』を思い浮かべた。前後して羽賀翔一による『漫画 君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)が刊行され、書店に並び始めていたこともあって、これのアニメ化に取り組むものと誰もが思い込んだ。


  1937年に発表され、宮崎駿監督が子供の頃に読んで感銘を受けたという『君たちはどう生きるか』は、コペル君という15歳の少年が見聞きしたことと、それに対するおじさんのコメントを併記していく形式で、ものの見方であったり人の生き方であったりといったある種の哲学を、読む人に与えるものとなっている。時に説教爺さんとも揶揄される宮崎駿監督が、人生の最後に観客へと提示するに相応しい内容と言えた。


  現代人が読んでも、十分に価値のある小説だ。汗水垂らして田んぼや畑で働く人がいて、貧困に喘ぐ人もいる世界で、自分だけを中心に物事を考えて世の中のことを知ろうとしない拙さを問うている。日本だけが独自に発展した訳ではなく、世界中の優れたものを認め取り入れることで日本の文明は高まっていったことも指摘している。格差問題が取りざたされ、国家主義がはびこる現代にこそ必要なメッセージだろう。


  それを世界の宮崎駿監督が、アニメーションという媒体に乗せて老若男女に向けて語ってくれたら、たとえ説教くさくても多くが影響を受けて、歪みをただすきっかけになると思われた。ところが、完成した長編アニメーション『君たちはどう生きるか』には、吉野源三郎が小説を通して繰り広げた人生訓のようなものは、まるで姿を見せなかった。宮崎駿監督にはどうやら初めから、吉野源三郎の小説をそのままアニメ化する考えはなかった。


  宮崎駿監督が公式に長編アニメーションの制作を表明した2017年に刊行された、鈴木敏夫プロデューサーの本『ジブリの文学』(岩波書店)の中に、「宮さんが一冊の本をぼくに提示した。『読んでみて下さい』アイルランド人が書いた児童文学だった」という記述がある。鈴木プロデューサーはこの本や、別に宮崎駿監督が出してきた本を読み比べて、最初の本をやるべきだと答えたという。


■ 物語のベースになったもう一つの本とは?

『ジブリの文学』にその児童文学の名前は書かれておらず、映画が公開された現在もおおっぴらには公表されていない。ただ、映画を観た人にはジョン・コナリー『失われたものたちの本』(田内志文訳、創元推理文庫)が物語のベースにあることは分かっただろう。舞台は第二次世界大戦下の英国で、母親を亡くしたデイヴィッドという名の少年が、父親の再婚相手が暮らす屋敷へと行き、そこで大叔父が神隠しにあったという部屋の存在を知る。


  そしてデイヴィッドは、墜落してきたドイツ軍機の爆発に巻き込まれる形で見知らぬ世界へと飛ばされ、そこで冒険を繰り広げながら元いた世界に戻ろうとする。これを聞けば、牧眞人という少年が、母親を病院の火事で亡くして数年後に父親が再婚したため、母親の妹だったその再婚相手が暮らす屋敷へ行くという展開、大叔父が消えてしまったという設定、そして異世界へと引きずり込まれて冒険を繰り広げる映画ストーリーと、ほとんど重なっていると感じるだろう。


  映画で眞人につきまとうアオサギとは何者なのか。異世界で眞人のピンチを救い叱咤して次の冒険へと送り出したキリコの存在や、冒険の最後に待ち受ける王の存在が意味するところは何なのか。そういった疑問も、先に『失われたものたちの本』を読んでいるとあまり浮かばない。モデルとなったキャラクターを感じとれるからだ。


  キリコに相当するのは『失われたものたちの本』では木こりで、最後に再び眞人を救いに現れるところも共通している。混乱を巻き起こすアオサギにはねじくれ男というある種のトリックスターが当てはまる。王はいずれも大叔父。キリコと別れた眞人を異世界で導くヒミという少女には、デイヴィッドを守って戦う騎士のローランドが当てはまる。


  そうしたキャラクターの配置が先に頭に入っていると、思わぬ展開に戸惑い訳が分からなくなるということは避けられる。映画に出てくる人を食らおうとする擬人化したインコにも、『失われたものたちの本』には獣人というモデルがいる。唐突な登場という感じがしなくなる。


  ただ、『失われたものたちの本』が、「赤ずきん」や「ヘンゼルとグレーテル」といった童話にプラスアルファの教訓を加えた挿話をたくさん含んでいて、それらを読みつつ本編の冒険を楽しむような読み方ができるのに対し、映画にそうした"脱線"はない。どれも興味深い挿話ばかりなので、映画を観た人には本編の理解のためという理由に加え、純粋に多彩な物語を楽しむ目的で『失われたものたちの本』を手に取って欲しい。「ぼくをしあわせにしてくれた本です。出会えてほんとうに良かったと思ってます」という宮崎駿監督のお墨付きだ。面白くないはずがない。


  木こりは言う。「お前は道中で他の者たちと交わりながら、自分の力と勇気で、この世界での自分の役割や、自分自身を理解することができた。最初に出会ったお前はただの子供だったが、今や立派な大人になった」。冒険を経て困難を乗り越え成長していく物語。それは映画も変わらない。亡母への思いに区切りをつけ、叔母であり継母でもあるナツコへのモヤモヤとした気持ちを整理して、新しい生活に向かう眞人も同様に、「立派な大人になった」と言える。


  その意味で、重なるところのとても多い『失われたものたちの本』と『君たちはどう生きるか』との明確な違いは、宮崎駿監督という想像力の怪物が異世界のビジョンを絵にして表し、それを"師匠"として名高い本田雄をはじめとする日本でも最高峰のアニメーターたちが描いて動かしたところにある。キリコの頼もしさやヒミの快活さ、そして鳥から不気味な男へとくるくると姿を変えるアオサギの不気味さは、アニメーションだからこそ感じ取れるものだ。


  困難さにあふれた時代に、吉野源三郎から小説のタイトルを借りてどう生きるべきかを考えさせ、ジョン・コナリーの物語を使ってこう生きるのだと感じさせる。それをアニメーションというエンターテインメントの上で成し遂げてしまっているところに、今回の映画『君たちはどう生きるか』の凄さがある。それらの要素すべてに通じるためにも、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を開き、ジョン・コナリー『失われたものたちの本』を辿り、そして映画『君たちはどう生きるか』の世界に浸るハイブリッドな体験に向かうのだ。