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【前編】ヤマシタトモコ×岩川ありさが語る「物語の力」:『違国日記』のフェアさ、社会と物語の関わり

2023年07月12日 13:10  CINRA.NET

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Text by 羽佐田瑶子
Text by 後藤美波

漫画、小説、映画やドラマ──さまざまな「物語」が私たちの日常を彩り、ときに新たな気づきを与えてくれたり、ときに怒りの原動力となったり、その存在は多くの人にとって欠かせないだろう。

現代日本文学を中心に、クィア批評とトラウマ研究をしている岩川ありささん。2022年に刊行した『物語とトラウマ: クィア・フェミニズム批評の可能性』(青土社)で「トラウマ的な出来事を経験した人びとにとって、文学や文化は生きのびるための表現となりうるのか」という問いから現代小説を丁寧に読み解き、物語の必要性について切実な言葉で語る。

「物語に居場所を見つける」「物語に救われる」という感覚──ヤマシタトモコさんによる漫画『違国日記』(FEEL COMICS swing、祥伝社)でも、物語の力を信じる少女小説家と彼女らから言葉を受け取る少女たちが描かれる。

今回はそんなふたりを迎えて「物語が持つ力」をテーマに対談を実施。前後編にわたってお届けする。前編では6月8日発売の『FEEL YOUNG』7月号で最終回を迎えた『違国日記』を中心に、ふたりが幼少期に感じた物語からの疎外感や、社会と物語の関わりについてたっぷりと語り合っていただいた。(※取材は2023年5月に実施)

─『現代思想』2020年3月臨時増刊号「フェミニズムの現在」(青土社)で岩川さんが聞き手をつとめられていたヤマシタさんのインタビューは、何度も拝読するほど、とても心に残っています。

岩川:ありがとうございます。想像できなかったほどコロナ禍が長引き、ヤマシタさんとお話できるのがそのインタビュー以来なので、今日はとても楽しみにしていました。

ヤマシタ:私もひさしぶりにお話できるのがうれしいです。どうぞよろしくお願いします。

─岩川さんが昨年10月に上梓された『物語とトラウマ: クィア・フェミニズム批評の可能性』は、大江健三郎や多和田葉子、李琴峰といった現代小説家の作品を読み解き、ご自身の記憶や経験と重ねながら「ある人にとって、読書行為は、自らが生存するために必要な言葉を見つけるための切実な手段にほかならない」(P69より)ということを、一冊を通して語られていたのが印象的です。

岩川:博士論文をもとにした本で、10年ほどかけて執筆しました。この本を書くキーワードになったのが「トラウマ」と「物語」。トラウマ的な出来事について語ることは難しく、私自身も性暴力を受けたサバイバーとして、闘うための言葉が必要だと思っていました。そうしたとき、文学や漫画といった物語に居場所を見つけ、言葉や力をもらってきました。

岩川ありさ著『物語とトラウマ: クィア・フェミニズム批評の可能性』(青土社、2022年)(サイトを見る)

岩川:本書では文学作品にしか触れなかったのですが、ヤマシタさんの漫画は私にとっての「居場所」です。毎日、寝る前に2、3冊漫画を読むのですが、すごく好きになると100日ほど毎日同じ漫画を読むことがあります。ヤマシタさんの『MO’SOME STING』(ゼロコミックス、リブレ)と、短編集『ミラーボール・フラッシング・マジック』(FEEL COMICS、祥伝社)におさめられた『blue』はその一つです。

ヤマシタ:そうなんですか!

─どのようなところに惹かれたのでしょうか?

岩川:『MO’SOME STING』は父親の起こしたトラブルを巡って命の危機に陥った主人公・久未十和子を、叔父や彼と関わりが深い法律相談屋らが助けてくれるという物語ですが、心揺さぶられたのが、物語における大事なシーンで十和子が「日本国憲法第14条」を伝える場面です。

─第14条「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と。

岩川:平等や自由を謳った物語はこれまで数多くありましたが、憲法そのものを引き合いに出して、「私の平等さや尊厳は絶対に侵すことができないんだ」、とこれほどまでに切実に鮮烈に訴えてくる物語は初めて読みました。

物語自体も魅力的なのですが、その言葉に私自身もエンパワーされ、喜びを感じたことを覚えています。あとは、「小市民」的な保険屋・射立の思いもよらない行動力が自分と重なり、自分ではない誰かが苦しんでいるのを見たとき、こういうふうに行動することもできるのだなと、その姿に勇気をもらうように読み込みました。

ヤマシタトモコ『MO’SOME STING』(ゼロコミックス、リブレ、2009年)(サイトを見る)

岩川:『blue』は37歳の女性が、遠い親戚の若い「イケメン」と同居するところからはじまる物語なのですが、「女の37ってこうもなめられるものだろうか」というセリフがあるんです。この年になっても舐められるっていう悔しさは私も日々感じていて、その苛立ちがこの言葉には凝縮されている。毎晩「ムカつく」ことを思い浮かべながら読んでいました。

あと、主人公が「彼の年ぐらいだったとき、わたしは彼のように美しくはなかった」と考える場面が印象に残っています。これは私自身にとても響く言葉で。私は高校生の頃、昼夜逆転の生活をしていたり、摂食障害もあり、そのあとにも、合計4年ほどほぼ寝たきりの状態だったことがありました。若い頃の「青春」や「楽しさ」みたいなものをことごとく経験しなかったので、主人公からの彼に対する感情に重なるところもありました。

まぶしいけれど、戻れないとわかっている時間ってありますよね。もう、自分は年齢を重ねて大人になっている。そのことはちゃんとわかっているし、納得している。でも、自分が過ごすことができなかった時間や人生を生きている人を見ていると、後悔ではないのですが、胸が締めつけられる。そういう不思議な瞬間を描いてくれた作品です。

─ヤマシタさんの作品のなかに、岩川さんの居場所があったんですね。ご自身でお持ちのコミックスに付いているたくさんの付箋が、物語っていると感じます。

岩川:そうですね、たくさん救われました。

─物語によって生かされてきた一方で、「物語に疎外感を感じてきた」というエピソードをヤマシタさんは「yoi」などのインタビュー(*1)で、岩川さんも『物語とトラウマ』で語られていました。おふたりが物語に距離を感じていたときの具体的な情景、どんな感情を抱いていたのかお伺いできますか。

ヤマシタ:たとえばディズニー作品や児童文学など、子ども時代に出会う物語の大半が女の子と男の子で役割がはっきり分かれていました。こんな可憐な女の子になりたいけど、こんな勇敢な男の子のように冒険にも出たい──いまはもっと物語のバリエーションが広がっていると思いますが、1981年生まれの私の幼少期にはその中間みたいな、自分がなりたいキャラクターがどこにもいませんでした。ギリギリ『若草物語』ですかね。

そうすると、物語を楽しく読みはするけれど「物語に締め出されている」という感覚になり、すごく寂しかったんです。物語が大好きなのに、存分に楽しめる権利が少なかった。その記憶がものづくりのベースにあります。

─インタビューが始まる前、ちょうど編集さんと「ディズニープリンセスにまったく馴染めなかった」という話をしていました。同じような気持ちの人は、一定数いるのではないかと思います。

ヤマシタ:そうですよね。創作をし始めたときは、私のように「物語に居場所を見つけられない人はいるはずだ」という気持ちが強かったです。描いていくうちに、次第にその寂しさから抜け出せたと思います。

岩川:私も1980年生まれでヤマシタさんと世代が近いのですが、おっしゃるように子どもの頃に触れた物語は男の子/女の子という性別役割が強かったですし、女の子に向けられた物語の多くがキラキラとした恋愛ものでした。私は「魔法が使えたらな」みたいな気持ちで悪い魔法使いとかに感情移入するタイプだったのですが、多様なキャラクターが登場する物語はとても少なかったですよね。

『違国日記』1巻(FEEL COMICS swing、祥伝社)表紙

岩川:小さな頃を思い返して、ヤマシタさんが物語を描こうとしたときの「原風景」のようなものは記憶にありますか?

ヤマシタ:どうだろう……私は人間としてのかたちが定まるまで、本当に長い時間がかかったんです。社会の仕組みを理解するのも、外のつながりを見つけ出すのも難しかった。20代半ばくらいまで自我を形成するのに時間がかかったので、小さな頃から空想をしたりお話のようなものを描いたりするのは好きでしたが、それもあまり定まっていなくて。でも自分はまったく覚えてないのですが、母親がとっておいてくれた子どもの頃の作品を見たことがあります。

岩川:どんな作品だったのですか?

ヤマシタ:7、8歳のときに書いた小説みたいなもので、シリーズものなのか全10篇ありました。全部ものすごく絶望的な話で、始まりも戦争で家も家族もなくなったとか、生まれつき不自由だとか生きることが苦しい人が出てきて、最後の一文が必ず「そして眠りについた……」で終わるんです。手塚治虫さんの作品が好きだったので、そのせいなのかなとも思いますけど、母親は子どもの作品を読んでいて心配だったのではないかと思います(笑)。

岩川:『さんかく窓の外側は夜』(クロフネコミックス、リブレ)などヤマシタさんの作品には「運命」が強く描かれていて、どんどん絶望的な方向に向かうけれど、「希望」みたいなものがそっと見えてくる物語がありますよね。そうした作品の原風景が、7、8歳のときの作品に凝縮されていたのかもしれませんね。

ヤマシタ:読者のみなさんからは否定されるのですが、私自身はいままでの作品で「ハッピーエンドしか描いたことがない」って主張し続けているんですけどね。

岩川:そこでどうしても聞きたくなるのが、『違国日記』についてです(※取材は2023年5月に実施)。すでに原稿は書き終えて、Twitterでは「毎日『ゼルダの伝説』をしている」とつぶやかれていましたが、書き終えたいま、どのようなお気持ちでいらっしゃいますか?

ヤマシタ:私は自分の作品やキャラクターを愛しているけれども、かわいいとは思わないんです。わりとキャラクターの存在を冷静に見ていて、描きたかったことを描き切れているかどうか、という方向に気持ちが向いていたと思います。

『違国日記』は想像以上に大切に読んでくださる方が多い作品になったので、その方たちを失望させずに最後を迎えられるか、というプレッシャーのようなものは多少なりともありました。ですが、あまりそこに左右されず楽しみながら描き切って、着地したかったところに着地できて、やり残した気持ちはありません。

2017年から『FEEL YOUNG』(祥伝社)で連載された『違国日記』は、少女小説家の高代槙生(35)が疎遠だった姉の葬式で遺児の田汲朝(15)を勢いで引き取ることになったことから始まる、二人の同居物語(サイトを見る)

岩川:個人的な『違国日記』との話をすると、私は生まれたときに割り当てられたジェンダーとは異なるジェンダーで生活しているので、ジェンダーやセクシュアリティに関して自分の物語が少ないという疎外感をずっと感じてきました。

『違国日記』は、誰かを特別視したり、強調するのではなく「当然いるよね」というスタンスで描いている。「あらゆる属性の人が必ず隣にいる」という描き方をしてくださったことで、疎外されてきた自分にとっては「居場所を見つけられる」「私はいてもいいんだな」と思える物語と出会えたと感じました。

ヤマシタ:どんな人も私たちの暮らしのなかに当たり前にいる、ということは意識していました。ただ、キャラクターの特徴を物語のために使っているのではないか、当事者ではない書き手としてフェアなのか、頭を抱えた場面もたくさんあるので、そういうふうに読んでくださって光栄です。

岩川:槙生の「わたしは人といるととても疲れる」というセリフにも、とても共感しました。私も人といるのが得意ではなく、一緒に仕事はできても生活ができない。槙生の感じが痛いほどわかります。

だからこそ、先ほどヤマシタさんが「フェアさ」とおっしゃってましたが、槙生が同居するなかで朝に対して「自他の境界線を守る姿」に魅力を感じました。もちろんその境界は揺らいだり、侵しそうになったりするけれど、相手の寂しさを「理解した」という態度をとらない。「子どもであっても他者として当然に尊重される」ということを思春期の読者に教えてくれる漫画だなと思いました。そこも意識されていましたか?

『違国日記』3巻より

ヤマシタ:私はこの作品で「人と人は絶対にわかりあえない」ことを大切に描きたいと思っていました。現実的に人間はわかりあえないし、それを大前提にしたうえで「わかりあえない、それでも……」ともがきながら関係をつくっていく行為こそ尊いし、そこに物語が生まれるだろうと。説教臭い漫画にはしたくなかったのですが、そのような考えを伝える物語になったのかなと思います。

岩川:ヤマシタさんは他の作品でも「人と人は絶対にわかりあえない」ことを描かれていますよね。

ヤマシタ:そうですね。『違国日記』は、そのテーマをより強く出した作品だと思います。

岩川:私自身、自他の境界をめちゃくちゃにされる経験をものすごい回数重ねてきた気がします。何度も絶望を感じて、次第に感覚が鈍っていき、「これくらいならいいか」と自分も他人も雑に扱うようになってしまったこともあって。でも、「私は他者から当然に尊重される存在だ」ということを確認させてくれる漫画があることは本当に大事だなと『違国日記』を読むたびに思います。

ヤマシタ:小うるさい話になりましたね。小うるさい話を11巻も描きました(笑)。

─子どもの頃から生きづらさを抱えていた槙生は物語の世界に居場所を見出し、自身も少女小説家として物語を生み出す立場になります。なぜ、槙生を「少女小説家」という職業にされたのでしょうか?

ヤマシタ:まず、あまり外に出ない陰気なタイプにしたかったことと、いろんなことに対して言葉を尽くすことのできる人にしたかったんです。

ぼんやり人物設定を思い描いていたとき、何年も前に出会った知人の少女小説家のことを思い出しました。彼女は真剣に若い世代を想い、「自分が思うままに生きていい、ということを伝えたい」と言っていました。その願いをどうにか商業作家という枠組みのなかで実現しようと努力している姿勢に感銘を受けた記憶が、槙生につながったんです。

『違国日記』4巻より

─槙生のような物語の力を信じる大人が、朝やその親友のえみりといった若い人たちに物語を手渡す姿も素晴らしかったです。

岩川:槙生がえみりに1991年の映画『フライド・グリーン・トマト』(※)を勧める場面がありますよね。自分だけみんなと違うように感じているえみりに槙生がこの作品を貸します。えみりについて何かを決めつけてしまったり、直接的に説明するのではなく、同じ状況の人たちが過去にどのように生きてきたのかを示す物語をさりげなく手渡すんですよね。そうやって物語の「バリエーション」を知ることで、私たちは生き延びられるのだと思います。

さらに、そのバリエーションと社会制度がズレていたり、追いついていなかったりすることに気づいたときに、変化を求める原動力にも物語はなるのではないでしょうか。物語と社会が関わっている、という感覚はヤマシタさんのなかにもあるのでしょうか?

『違国日記』5巻より

ヤマシタ:たとえ社会に無関心であっても、社会を無視して物語をつくることは難しいのではないかと思います。

私にも社会に対してまったく関心を持てていなかった時期がありますが、その時期に描いたものを読み返すと、社会に対する無関心な態度が作品に反映されていて、結局無関係ではいられないんだなと。だんだんと社会への関心が高まってきて、意識するほど間口の広い物語をつくれるようになったと実感しています。いち受け手としても、つくり手が届けたいメッセージを感じられたときは嬉しいし、エンパワーされますよね。

岩川:先ほどヤマシタさんが「説教臭い漫画にはしたくない」とおっしゃっていましたが、いまでもやはり、物語と社会の関係性が色濃く出ると、読者がページを閉じてしまう可能性もあり、それはつくり手としては怖いことでもありますよね。

ですが、『違国日記』では社会科の先生が朝に基本的人権について話す場面が、彼女の自己肯定感を支える言葉としてスーッと入ってくる。『MO'SOME STING』の憲法を引用する場面もそうです。それまでは、テストに出る言葉とか法律の言葉のように思っていたのに、自分を支えてくれる生きた言葉になるんだと気づくような転換が起きているように感じて、驚きました。読者の反応はいかがでしたか?

ヤマシタ:『違国日記』のあのシーンは、だいぶ怖がりながら描いたんです。「出た、説教くさい!」みたいなリアクションが来るんじゃないかと思って。入れるとしたらどう使うのか、かなり考えて描きました。

そうしたら、読者の方から「あのシーンがよかった」と前向きな反応をたくさんいただいて、単行本のデザイナーさんも開口一番「あのシーンで泣きました」と言ってくれたんです。そんなにすんなり受け入れてもらえる話ではないと勝手に思っていたので、私が読者の方々を見くびっていたのかもしれないと反省しました。

─ヤマシタさんが前述の「yoi」のインタビューで、同性カップルのえみりとしょうこについて「現実社会の婚姻制度が変わらない限り(後日談は)絶対描きません」とおっしゃっていたことに、ハッとさせられました。社会の仕組みが変わらないと描けない物語があるという、作家としての意識についてもう少し詳しく伺ってもよいでしょうか?

『違国日記』8巻より

ヤマシタ:たとえばBLを読んでいて、自分の好きなカップリングがあったとき、うっかりなんの考えもなしに「わー、結婚してほしいー」と言ってしまうことがあります。萌えの発露として。ですが、言ってしまったあとに「できないんだよ……」と気づいて、無自覚な加害と現実の苦しさにとても落ち込んだりしたことがあって。現実社会で同性カップルの婚姻が認められていないなか、なんて暴力的な発言をしたのだろうと思いました。

最近はBLやGLで同性同士であることに悩むというトピックを物語に盛り込むのは古いのではないか、というトレンドもあったりします。でも、現実社会でこれだけ障壁があって、デモも起こっているのに政治は変わらなくて、とても苦しい状況にあるわけですよね。さらに細分化して見ていくと、もっとたくさんのマイノリティの方々が存在していて、それぞれに葛藤を抱えています。

漫画なので身構えず、多くの人に読んでもらいたいと思うけれど、だからといって軽くは描けない。現実の苦しさを物語にどれくらい取り入れるのか、取り入れないのか、という選択は書き手として非常に悩ましいです。

岩川:過渡期にあるなかで、制度に対する考えや社会の風潮も変わっていきますしね。

ヤマシタ:そうですね。えみりとしょうこのエピソードに関しては、物語のなかで示せなかったのは力量不足でしたが、この話に限らず現実社会の制度によって描けない話、というのは山のようにあると思います。(後編につづく)