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80年の歴史を持つストリップの変化と魅力。踊り子・宇佐美なつのインタビューから現在地を探る

2023年07月12日 13:10  CINRA.NET

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Text by 島貫泰介
Text by 小林真梨子
Text by 生田綾

「ストリップ」と聞いてどんなイメージを持つだろう? 踊り子と呼ばれるストリッパーが舞台上で踊り、徐々に服を脱いで裸になっていくダンス。それをぐるりと囲むように観客が座り、その多くは男性。そういったすべてが昭和的な遺物で、現在の社会通念からすれば認め難いもの。その認識はある意味では正しい。ただその認識の外側、あるいは内側を知る機会があったなら、ストリップに抱くイメージは変わるかもしれない。

約80年の歴史を持つ芸能であるストリップが、その人気をじわじわと広げている。近年は女性ファンも増え、性別・年代を超えて多様な人々の心を撃ち抜いている。

観客を経由して踊り子の世界に飛び込む者も増えているのが今日のストリップの大きな変化だ。まもなくデビュー5年目を迎える踊り子・宇佐美なつもその一人だが、観る側から、踊る(=観られる)側に立ち位置を変えた彼女にとってストリップとは、どのような表現、社会、そして文化なのだろうか? 宇佐美へのインタビューとストリップ文化を紹介するテキストを通して、その現在地を見定めようというのが、この記事の主旨だ。

とはいえストリップは性風俗産業だ。観客の主流はいまだに男性で、性搾取の危うさを感じさせる場面もたびたびある。本稿ではその特殊性や歴史の一部について触れており、それを踏まえてこの記事を読み進めるか判断していただければ嬉しい。

宇佐美さん提供写真

客席の中央に向けて突き出した舞台の上では、ほとんど裸の女性が踊り、舞台を囲むように配置された客席からは大勢の観客が熱のこもった視線を向けている。観客の多くは中高年の男性だが、女性客の姿も見えるし、性別不詳な人もいる。

流行のハイブランドのスポーツウェアにアクセサリーじゃらじゃらのオラついた人もいれば、公務員か弁護士かというシュッとしたスーツ姿もいるし、筆者のようにオタクな文化系人間もいる。杖を頼りによろよろと歩くおじいちゃんは客席では寝落ちしてるようにしか見えず心配になるけれど、しかるべきタイミングで拍手や手拍子を的確にこなしていて、しっかり元気だ。

いっぽう舞台上で続くショーはクライマックスを迎えつつある。ゆっくりと回転する盆の上で、踊りの進行とともに徐々に露出の度合いを強めていく女性が片足を天に向けて直立させたり、背中を大きく反らした体勢から、祈るように組んだ両手を頭上に掲げるたび、客席からは大きな拍手が起こる。場内の熱狂は最高潮を迎え、やがて女性は舞台奥へと歩み去り、この時間の終わりを告げるように美しいポーズを決める。そして暗転。観客から贈られる万雷の拍手の向こうで「ありがとうございました」という女性の小さな声が漏れ聴こえてくる……。

これは、「ストリップ劇場」と呼ばれる場所で日々繰り返されているショーの一幕だ。

近年、ストリップの人気が高まっている。約80年の歴史のなかで幾度もの大きなブームを起こしてきたが、今回の人気がいささか異なるのは女性ファンの増加と存在感だ。その理由は、女性人気の高いAV女優の踊り子デビューによるとも、あるいはボーイズラブを題材にした「BLストリップ」と呼ばれるショーのブームが影響したとも聞く。正確な理由はわからないが、いずれにせよ客席に女性が増加し、またダンスや芝居をともなったショーとしての完成度や多様性を高めているのが、現在進行形のストリップと言えるだろう。

ファンの増加と多様化に合わせて、もとは観客だった人が自分の意思で踊り子になるケースも増えている。渋谷道頓堀劇場に所属する宇佐美なつもそんな一人だ。

宇佐美:ストリップとの出会いは、本当にノリだったんですよ。「渋谷にこんな場所があるんだ!」と驚いたんですけど、ホームページを見てみたら女性料金が設定されていて、つまり女性が行っちゃいけない場所ではないんだな、と。それで友だちを誘って、深い考えもなく足を運びました。

そこで見たステージが本当にすごくて、勝手に自分がストリップに抱いていた感じとはまったく違うものでした。表現すること、踊ることに本気で打ち込んでいる人たちが、ここ(劇場)にはいる。その姿をまた見たくなって通い詰めるようになりました。学校ではダンス部や演劇部に所属していて、小さな頃から人前に立って目立ちたいという欲望が自分にあったとも思います。それもあって、「自分が踊り子だったらこんな振付をしたい」とか「この曲で踊りたい」と妄想してましたね(笑)。

とはいえ、一般企業に勤める会社員だった宇佐美がストリップの世界にいきなり飛び込んだかといえば、もちろんそんなことはない。

宇佐美:とくに好きな踊り子のお姐さんがいて、その人のお客さんでいることが、自分の理想とするストとの関わり方でした。でも、そのお姐さんが引退されたときに「お客さんであり続けるよりも、踊る側に自分が立って、ストリップと関係を持っていくのがいちばん理想じゃないか」と考えたんです。それで踊り子になる決心をしました。

ただ、そう思いつつも、会社員生活と両立できたら……という、あわよくば、な気持ちもあったんですよ。でも、劇場に「踊り子になりたいんです」と電話したら、あっさり「いいよ! で、いつ仕事辞めるの?」と返されて(笑)。前の仕事も嫌いじゃなかったんですけど、絶対に続けたいほどでもなかった。それでもう「やめちゃうかー!」と。

最盛期には全国に300館以上あったとも言われるストリップ劇場は、現在わずか18館が残るのみである。そのうち埼玉・蕨市にあった1館は休館中のため、稼働状態にあるのは17館。

関東エリアにそのうちのほぼ半数が集中し、海外観光客も多く足を運ぶ「浅草ロック座」やその系列劇場のほかに、宇佐美が所属する「渋谷道頓堀劇場」など9館が営業している。そして関西には、京都と大阪に計3館。そのほかに、熱海、愛媛の道後温泉、福井のあわら温泉には、昔ながらの温泉地スタイルで営業する計3館。そして岐阜と北九州に計2館。

1999年の風俗営業法の改正・施行で新たな劇場をつくったり、既存の劇場を増改築することも困難なため、今後ストリップの人気がいかに高まったとしてもパフォーマンスの場が増えることはないはずだ。脱衣を伴わないバーレスクや、踊り子自ら主催することもある多彩な外部企画も楽しいが、ストリップらしいストリップは、いつか消失する芸能なのかもしれない。

宇佐美:デビューのタイミングが私は本当に幸運で、2021年に閉館した「広島第一劇場」にも閉館前に何度か乗ることができました。毎回「これが最後なのかな」と思って踊ってましたし、広島の社長も「また次あるかわからんけど、次あったらよろしくな」と毎回おっしゃってました。

劇場がなくなると、通っていた常連さんたちのコミュニティ、劇場を中心にできていた人と人とのつながりが、いったんなくなってしまうんですよね。それが劇場が閉館するってことなんだな、という実感がすごくありました。

広島第一劇場

昔ながらのスナックや食堂、あるいは個人経営の本屋や映画館が、自宅や学校・職場とは異なるコミュニティになっていく「サードプレイス」の性質を、ストリップ劇場も有している。

おおむね60人も入れば満席の小さな空間では、踊り子と観客の距離も近いが、観客同士の距離も近い。10年以上通っている常連同士は「ひさしぶり」「〇〇さん最近見ないけど、どうしてるんだろう?」といった会話で互いを案じ合うし、はじめて劇場に来てローカルルールなどに困惑している人にもそれとなく声をかけたり、気づかったりする。そういった客席に漂う居心地のよさも、ストリップの魅力だ。

もちろん、きれいごとで済まされない側面もストリップにはある。ヘテロセクシュアル(異性愛)の男性客を主な対象として始まった歴史を持つ産業である以上、セックスワーカーとしての踊り子=女性への加虐性や搾取的性質がゼロとは言えない。実際、ストリップを初めて観た人にとっての心理的なハードルもおそらくこれで、「搾取や差別に自分も加担しているのではないか?」という疑念と後ろめたさは、劇場から足を遠のかせる理由として十分なものだ。

歴史を遡れば、ヤクザの影響力が強かった1970年代には、東南アジアや中南米から入国して在留資格を失った外国人の踊り子への労働搾取、舞台上で観客との性行為が行なわれた違法な売買春など、ストリップが無法地帯の様相を呈した時代もあった(参考:八木澤高明『ストリップの帝王』角川書店刊)。

それから約四半世紀を経た現在は上記したような営業は行なわれていないものの、昔ながらの盛り場のノリで踊り子や観客に絡むタチの悪い観客も稀に目にする。宇佐美も、観客だった頃の経験をこう振り返る。

宇佐美:混んでいるわけでもないのに、なぜかすごく近くに座ってくるおじさんがいたんですよ。何かしてくるわけじゃないけれど、無言で席を変えるとそのおじさんも移動して着いてくる。「もう今日は帰ろうか……」と考えていたら、ちょっと顔を知っているぐらいの常連さんが「大丈夫ですか? 僕の隣が空いているので座ってください。何か言ってきたら『(宇佐美は)友だちですけど?』って答えますから」と言って、助けてくれたんです。

こういった女性客へのハラスメント問題にSNSで憤る踊り子や、劇場で直接観客に注意する踊り子もいる。社会の縮図としてのこの小さな劇場では、踊り子は一方的にサービスを提供するだけの存在でもなければ、庇護されるだけの存在でもない。また、踊り子の自己決定とパフォーマンスを尊重し、劇場を多くの人にとって過ごしやすい場所にしたいと望む観客も、劇場の自治的精神の一助になっている。

宇佐美:完璧な空間ではないからこそ、みんなでバランスを取ろうみたいな意識が各人にあることが、私にとってのストリップ劇場の居心地の良さになっているのかもしれません。

たとえば普通に街を歩いてたり電車に乗っていて、他人から何らかの悪意を向けられたり攻撃されたりすることがありますよね。そういったときに、劇場にいるときのほうが声を上げようっていう気分にさせてくれる。「男女関係なく、みんなが楽しく心地よい空間にしよう」という意識を、劇場の中ではより強く感じられる。もちろんそれは、お姐さんたちの気づかい、従業員さんやお客さんの振る舞いからも感じます。

そういった観客としての経験を通して「性」との関わり方を教えてくれたのがストリップだと宇佐美は言う。

宇佐美:いまの世の中には性的なコンテンツがたくさん溢れていて、スマホでも簡単に見れてしまう。そしてその大半は、男尊女卑的で かつ家父長制的な価値観に基づいて生まれ、消費されてきたもので、私たちはそれに慣れきって麻痺しちゃっている。でも、劇場に行ってストを見てると「もっと健全な性のコンテンツって、ここにあった!」と思うんですね。

性って、自分と相手とのあいだに力関係がすごく生まれやすいから、どれだけフェアになろうとしても扱いがすごく難しい。とても大事に扱わないとすごく怖いものにもなってしまう。それに対して、ストリップは一方的・暴力的に性や欲望をコンテンツ化するのではなくて、あるフィルターを通して性との向き合い方を教えてくれる気がします。

踊り子である私は、主体的にステージを作る側・見せる側で。いっぽうお客さんはそれを主体的に消費する側にいる。この主体と客体のバランス感みたいなものを、その都度みんなそれぞれ捉え直しているんじゃないでしょうか。

そういったストリップの清濁を観客としても経験してきた宇佐美の演目には、ニコニコ動画から生まれた「踊ってみた」カルチャーを経由したスポーティなダンス性と同時に、ストリップ文化を客観視する批評性を感じさせる作品も多い。

結婚をめぐる自己決定の気高さと困難さ、心理的な矛盾を扱った『w-e(n)dding』や、観客と踊り子の観る/観られるの関係を「食」に置き換え、そこからさらに反転させる『ワンダーテイスト』はその代表的な例だ。

『w-e(n)dding』

宇佐美:観客としての3年間の蓄積があるので、デビュー時点でストリップを俯瞰する視点は自分なりにあったと思います。ストリップ、もしくは道劇(渋谷道頓堀劇場)らしい新人像というのがなんとなくあって、お客さんの期待に応える、自分が思う理想の新人「宇佐美なつ」を1年目は演出したつもりです。

道劇の新人さんのデビュー作ってかなり型が決まっているんですよ。ショー全体を4曲程度で構成するとしたら1曲目はダンス。2曲目から4曲目は寝そべって踊る、いわゆるベッドのシーン。衣装はワンピースと頭飾りに白いレースの手袋で、ベッドに入ってからは薄手のベッド着に素足。そこから外れたとしても怒られるわけではないですけど、アイドルっぽい初々しさを期待するお客さんは多いので。

でも、そこに意外性を加えたくてデビュー半年目につくったのが『黒煙』。1年目ではあまり着ることのない黒と赤のパンキッシュな衣装で、アダルトな雰囲気。じつはデビュー時点でこれらの曲や構成はほぼ決めていて、いったん新人らしい「宇佐美なつ」像をつくってから、そのイメージを壊してやろう! みたいな小賢しいことを考えてました(笑)。

『黒煙』

客観性に基づいた構成の巧みさが宇佐美のステージの見どころだが、2000年代以降の音楽シーンを思い起こさせる選曲のマニアックさも楽しい。

宇佐美:音楽の楽しさは大事にしています。「この曲のココ、めっちゃ気持ちいいよね!」という気分をお客さんと共有したくて振付もつくっている。ストの世界では、踊り子同士で作品を見る「お勉強」という習慣があって、あるお姐さんが私のステージを見てくださったことがあるんです。そのとき「音楽を可視化したみたいな振付だね」とおっしゃっていて、「たしかに!」と思いました。

私にとって音楽は、踊るためのBGMというだけではないんです。自分が音楽とかカルチャーにどっぷり浸かってきた人間なので、オタク的になってしまうところがあるんですよね。だから、自分なりにいろいろ考えて理屈や理論を演目に詰め込んでしまう(笑)。

でも、踊っていると結局はそういうことは全部どうでもよくなって、輝きみたいなものに飲み込まれて自分が塵になって消えてしまいそうな気分になる。それが最高に気持ちいいんです。これは、ストリップに限らず私の人生すべてに共通するテーマだと思っている「刹那性」につながることなんですけどね。

『ワンダーテイスト』

宇佐美はこう続ける。

宇佐美:その日、その瞬間、その場が楽しければそれでいい!みたいな。いまの社会では、刹那的な生き方ってよほど意識しないと叶えられないことだと思うんですよ。私自身、いきなり会社員を辞めてしまって10年後20年後はどうしているんだろうって、時々考えます。たとえ10日間だけだったとしても、社会からちょっと冷たい目を向けられるような経歴が残って、いつかそれに足を取られるようなことがあったらどうしよう……とか。

でも、いったんそれは考えないことにして、自分がしたいこと、自分が楽しいと感じていることに身を投じてみる。その背徳感と興奮をずっと追い求めてきたからこそ、私はいまこの仕事をやっているんです。最高のコンディションで踊れたときは、「このステージが終わった瞬間、世界が終われば幸せだ」と本気で思っちゃいます。お客さんに「楽しすぎたから、もう今日このまま家で死のうかな!」とか冗談っぽく言ったりするんですけど、じつはかなりマジで言っている。刹那性に身をうずめる快感みたいなものを、ストリップから感じているお客さんも絶対にいると思うから。

この世界にさまざまな種類のダンスが存在するなかで、何故ストリップが裸になる/裸である必要があるのかについて筆者はたびたび考える。「性風俗産業だから 」と言われればその通りなのかもしれないが、古代の儀礼やコンテンポラリーダンスの領域でも裸体は多く扱われてきた。しかし、それとも異なる感触がストリップにはある。それは神秘性や芸術性とも異なる、「強さ」のようなものだ。

裸とは、人間の傷つきやすさがとくに際立つ状態でもあり、性的な眼差しを向けられることもあれば、容姿にまつわるコンプレックスなどから自分を守るための武装を失った状態とも言える。しかし、次第に裸になっていく踊り子に抱く印象はそれとは真逆で、むしろ裸になることによって獲得される強度を直観することがある。

そこには、しばしば社会から押し付けられもする、女性、男性、妻、夫、若さ、老い、美醜、貧富……といった属性で編まれたアイデンティティを自分自身の意志と力で解きほぐし、純粋な「身体」あるいは「踊り」へと収斂していく変身・遷移のプロセスがある。そのプロセスは、さかのぼることが不可能で刹那的だからこそ輝くのではないか?

宇佐美:ストリップを観るってことは、踊り子がつくった世界にお客さんとして一緒に没入すること。そして、その演目=世界の終わりとともに放り出されるという感覚があります。これは演劇やライブ、そのほかのいろんなエンタメで体験できることかもしれないけれど、私にとってはストリップほど胸が高鳴るものはないんです。

大学時代にネットに自作のマンガをあげていたぐらい自己表現に飢えているタイプの人間でしたけど、クリエイティブなことで食っていける才能が自分にないのも冷静に考えればわかるじゃないですか。でも、自分に与えられた約17分のショーの時間は完全にセルフプロデュースが可能で、ここでなら自分がやりたいと思っていたこと、あきらめていたことが叶うかもしれないって思えたんですよね。

ここまで紹介してきたことはストリップ文化のごく一部だ。ショーの後には、鑑賞の記念に踊り子の写真を撮影できるポラタイムなどの特殊な習慣があり、劇場ごとに異なるローカルなルールもある。オススメしたい素晴らしい踊り子もたくさんいる。

もしも興味を持ったなら、女性ファンが中心になって発行しているZINE『イルミナ』や、ストリップに関する漫画連載も手がけるたなかときみの自主制作本『ストリップをよろしく 初心者・女性にやさしいストリップ劇場入門』が入門書としておすすめだ。

さて。インタビューの最後、宇佐美に「これから来る観客にストリップをどんなふうに見てほしいか?」と尋ねた。

宇佐美:こういうふうに見てほしい、というのはあまりないです。表現の性質上、好きになれない人がいるのは当然だから。お客さん時代に私も友だちを何人も連れていって、面白かったって言ってくれる子もいれば、ちょっと苦手な空間だったっていう声もありました。

だから、自分なりの観点で「楽しいな」と思った人が来続けてくれたら、それがいちばんです。性別も年齢も国籍も関係なく、刹那を一緒に味わいたいっていう人たちが、ただ集まる場所であればいい。