Text by 生田綾
Text by 久保豊
映画監督の是枝裕和、脚本家・坂元裕二が手がけた映画『怪物』。少年2人の親密な関係性と周囲を取り巻く人々を描いた本作は『第76回カンヌ国際映画祭』でクィア・パルム賞を日本映画として初めて受賞し、審査員長のジョン・キャメロン・ミッチェル(『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』など)は「この美しく構成された物語は、クィアの人々、馴染むことができない人々、あるいは世界に拒まれているすべての人々に力強い慰めを与え、そして命を救うことになる」と評した。
日本映画史、クィア映画史を専門とする久保豊は、「痛み」と「美しさ」が共在する本作の巧みな描写は、むしろ少年たちに痛みを生じさせる構造的な問題の所在を見えづらくさせると指摘する。本作は性的マイノリティの子どもたちをどう描いたのか。
2020年に早稲田大学坪内博士記念演劇博物館で開催した企画展『Inside/Out──映像文化とLGBTQ+』をキュレーションした際、性的マイノリティの若さや老いについて考えるために、さまざまな年齢層の性的マイノリティが登場する日本映画の選出を目指した。企画展の図録を振り返ると、2020年代前半の時点において、10代の性的マイノリティが登場する日本映画の数は記憶していたよりも少なかったことにあらためて驚く。特に、シネコンで上映される大規模予算の商業映画において、小学生の性的マイノリティが登場する日本映画は皆無であった。
そんななかで登場したのが、『第76回カンヌ国際映画祭』でクィア・パルム賞と脚本賞を受賞した『怪物』(監督:是枝裕和、脚本:坂元裕二)である。第3幕の主要登場人物である麦野湊を演じた黒川相矢は配役に関するインタビューで「男の子同士が好きになる」役であったと言及し、星川依里を演じた柊木陽太は「LGBTQのことは、台本を読んだ時はあまり知りませんでした」と答えており(*1、2)、その発言から二人が演じた小学生の少年たちは性的マイノリティの役柄として—少なくとも現代日本社会においていまだに「正常」や「普通」とされる規範的なセクシュアリティからは逸脱すると考えられてしまう者たちとして—キャスティングの際から設定されていたことがわかる。
一方で、映画祭の会期中に是枝が『怪物』について、「LGBTQに特化した作品ではなく」と応答したことが話題となった(*3)。異性愛・シスジェンダー中心主義に傾倒する日本映画産業において、子どもの性的マイノリティが登場する映画はまだまだ少ないが故に、是枝映画における精巧な子ども表象に少なからず惹かれてきた私は、この発言に寂しさと残念さを覚えた。なぜなら、是枝であれば性的マイノリティの子どもの経験を真摯なかたちで描いてくれるのではないかという長年の期待があったからだ。
『怪物』による少年たちの描写には痛みと美しさが共在する。その組み合わせがつねに「間に合わない」(too late)メロドラマ的な慣習を通じて観客に涙を流させ、その涙を通じて観客に「気づき」を与える。製作者たちが用いるそのような物語的技巧は、少年たちに痛みを生じさせる構造的な問題自体は映画物語内で不問にし、抑圧を再生産・強化させる問題の所在を見えづらくさせているのではないか。
そこで本稿では、『怪物』における少年たちの経験について、「普通」の呪縛と食の観点から分析することで、『怪物』が性的マイノリティの子どもたちを描くうえで見せる巧さによって最終的にかき消される湊の言葉と欲望について着目する。それにより、性的マイノリティの子どもたちが「将来」に向けて生きたいと勇気づける力を現代日本映画がどのようにもたらしうるかについて思考したい。
柊木陽太演じる星川依里(左)と、黒川相矢が演じた麦野湊(右) / ©2023「怪物」製作委員会
別稿「映画『怪物』はなぜ性的マイノリティを描きながら不可視化したのか。映画製作の構造的な問題を考える」(『Tokyo Art Beat』)で論じた通り、『怪物』の結末において少年たちに何が起こるのかは観客によって解釈が異なるだろう。
複数ある解釈の一つは、眩しいほどに晴れた世界を「ビッグランチ」(依里は宇宙の終焉を指す「ビッグクランチ」という言葉をこう呼ぶ)以前と同じ状態のまま—つまり生まれ変わりは幻想であり、二人が「もとのまま」であることを「祝福」されている—で楽しそうに駆ける少年たちは、土砂崩れに巻き込まれた廃列車のなかで死んでしまったのだろうというものだ。
早稲田大学で2023年6月10日に開催された「マスターズ・オブ・シネマ」において、坂元は「[少年たち]はこのまま生きていくとしか思えない」と述べ、是枝もまた「脚本の段階で共通認識として、彼らが自分たちの生を肯定して終わろうというのがありました」と振り返った(*4)。
少年たちの生が物語の終わりも継続していくと製作陣が主張するにもかかわらず、『怪物』の結末から死のイメージを読み取る行為を指し、性的マイノリティの登場人物の映画的表象に悲劇性を帯びさせようとするのは、一部の(クィアな)観客/批評家の「悪い」癖だという意見もあるだろう。例えば、是枝が「映画を観られる方の多様な読みを否定するつもりはないですし、そういう悲劇を見たいという方もいるでしょうし、[結末]で光に満ちていることがどこか現実離れして見えるというのもわからなくはないです」と続けるのは、上述のような指摘に一考の余地があるからかもしれない。
ただし、カメラワーク・編集・音響・照明・色彩などに関する緻密な分析によりそのような解釈を導くわたしたちが、虚構世界の表象の一つとして単純に消費するのではなく、性的マイノリティの少年たちが『怪物』の物語空間を通じて受ける痛みに敏感にならざるを得ない状況には理由がある。
それは、現実世界で実際に命を落としている、あるいは自ら命を絶とうと考えたことのある10代の性的マイノリティの割合は、異性愛者やシスジェンダーの若者のそれよりも随分と高いことがわかっているからだ(*5)。性的マイノリティの子どもたちが映画館の外で日常的に耐える痛みを虚構世界のなかでも受け、そして最後に死んでしまうとも解釈できるのだとすれば、はたしてその映画に性的マイノリティの子どもを勇気づける力はあるのか。
『怪物』は性的マイノリティの若者の多くが日々経験している痛みの描写に長けており、古傷や瘡蓋(かさぶた)になったばかりの傷を抉られるような想いをした観客もいるかもしれない。
その例の一つが「普通」の呪縛である。湊の母親が車のなかで発する「どこにでもある普通の家族でいい。湊が家族っていう、一番の宝物を手に入れるまで」という言葉や、組み立て体操に挑む湊に対する保利先生の「おいおい、それでも男か」という言葉など、大人たちから子どもたちへ投げかけられる言葉の随所に異性愛や男らしさへの期待が「当たり前」のように顔を覗かせる。湊が父の仏壇に向けて「何で生まれたの」とこぼすとき、その「当たり前」に不安と葛藤を覚え、逃げ場所もなく、がんじがらめにされている状況がわかる。それは、カメラが湊の口元へ近づかなければ聞こえないほど、小さく弱い叫びである。
©2023「怪物」製作委員会
母親や保利先生が「普通」や「当たり前」と捉える性規範は、大人たちもまた自身らが成長する過程で社会から数え切れないほど浴びせられ、内面化してきたものである。だからこそ、自然にぽろっと口から出してしまう。『怪物』が目指したのは、その「ぽろっとさ」こそが厄介であること、また、その小さな積み重ねがときに命を奪いかねない結果を導くことに観客が気づき、映画館を出たあとも日常生活における自らの言動に照らし合わせながら考え続ける効果だろう(註)。
しかし、その効果がどれくらいの力を発揮し、持続するかについては長期的な視野で観察を続けなければならない。
『怪物』で得た「気づき」を通じて、映画観客はどのように性的マイノリティやほかの社会的マイノリティが息をしやすい社会へと変化させていくことができるのか。『怪物』の宣伝・配給に携わるGAGAや東宝は、6月のプライド月間の期間中に何も発信しないという姿勢を露呈したが、その模範を示すべきは日本映画産業そのものだという点は強調しておかなければならない。
なぜなら、映画産業は、19世紀末からさまざまな映画表現、ジャンル、宣伝を使って性をめぐる抑圧的な社会構造を観客に内面化させてきたからだ。日本映画産業も例外ではない。他国の映像産業が多様性や包括性の観点から課題を認識し、着実な改善を目指しているように、日本の映像文化の代表的な位置にある映画産業もまた世界に置き去りにされないように学び、実践していく必要がある。日本映画産業が『怪物』を通じて変化を目指し、産業が内側から改善することにつながっていくと信じたい。
©2023「怪物」製作委員会
『怪物』においてこのような社会構造を暴力的なかたちで表出する顕著な例が、依里の父親(中村獅童演じる星川清高)である。自身が強烈に内面化した異性愛規範と、映画では多くは語られないが男としての失敗の累積、その組み合わせが父親に依里を「豚の脳」が入った「化け物」と言わしめる。父親の暴力は言葉だけではない。彼は自らをも苦しめる「普通」の呪縛を依里の身体に物理的な暴力をもって刻み、また、風呂で水責めすることで依里をその「普通」に浸す。台風の朝に湊が依里を救出する場面において、「普通」の暴力に溺れる依里の身体はいまにもほつれそうなほどに弱々しく、痛みに満たされている。
その姿はまるで「かいぶつ、だーれだ」の遊びで湊が掲げるカードに描かれたナマケモノのようだ。二人は秘密基地にしていた廃列車で、額にあてたカードを見せ合い、どんな生き物が描かれているかを当てる遊びを行なう。依里が湊のカードを見て「君は敵に襲われると、体中の力を全部抜いて諦めます」「痛みを感じないように」と体をゆっくりと右に倒しながら表現するとき、湊は「僕は星川依里くんですか?」と返す。
ナマケモノとして振る舞うことは、日常的な暴力のなかで依里が身につけた静かな生存方法である。湊からの切り返しショットのなかで、「普通」の呪縛からの暴力に耐えてきた依里が苦笑いを浮かべる姿に自らの過去や現在を重ねた観客もいたであろう。
この「かいぶつ、だーれだ」の遊びが始まる直前、『怪物』は廃列車のボックス席で向き合ってピーナッツバターを塗った食パンを食べる少年たちを映す。坂元の脚本によれば、それらは給食に出たものを持ち帰ったものだ(*6)。少年たちは、湊が丁寧にピーナッツバターを塗った食パンを美味しそうに食べる。この場面が捉えるのは、いつもの学校の給食では到底満たされることのない、二人だけが味わうことのできる共食の喜びである。
本作において、同じ味を共有することは少年たちにとって何を意味しうるのか。
『怪物』の第3幕、湊と依里が音楽準備室で二人きりになる場面において、初めて両者のあいだで食べ物が共有される。依里が学校へ隠し持ってきていたベビースターラーメンだ。この場面が二人の関係性にとって重要となるのは、秘密の味を共有する行為が、本作で少年たちに付与されるクィア性の口触りを表現するきっかけになるからだ。
ベビースターラーメンを湊の手に振り出す際、食べても良いか悩む湊に対して、依里は「直接は触ってないから汚くないよ」と言う。「豚の脳」が入っていると父親から刷り込まれてきた依里は、自分は「病気」を持っていると表現し(『怪物』は「病気」について決してその名を口にしない)、それが「うつるかもって思って」と軽く続ける。カメラは二人を前景(湊)と後景(依里)に配置することで、同じ空間にいながらも遠い距離を感じさせるが、「汚いとか思ってないよ」とその距離を埋めるのは湊の方だ。湊は、お菓子を学校に持ってくることへの戸惑いを隠せないものの、咀嚼し舌の上で硬さを失い、喉へ通っていくベビースターラーメンを美味しいと感じているように見える。
湊の手から床に散らばったベビースターラーメンは、依里との秘密の味の共有を通じてこぼれ落ちた湊のクィア性である。学校でお菓子を食べていた証拠を残さないようにベビースターラーメンを拾い集める様子は、依里との秘密の共有によって音楽準備室の空間に滲み出てしまった自分のクィア性の痕跡を残さないように払う注意深さとして読み解くことができるだろう。
また、秘密/お菓子の共有は、互いに触れてみたい欲望を掻き立てる。是枝も認めるように、湊の癖っ毛を依里が触るとき、湊を演じる黒川が一瞬指を止め、ベビースターラーメンの破片を握る演技は、依里に触られる戸惑いと好奇心の後味を巧みに表現している(*7)。
少年たちは友愛を深めるなかで食べ物(とそれに関する話)を共有していく。ベビースターラーメンから自販機のあったかいコーラの話に続き、廃列車のなかで何度かお菓子を一緒に食べる。同じ味を堪能し、また同じ味を咀嚼していく時間を共有することで、かけがえのない存在として互いに親密さを重ねていく過程は微笑ましく映る。
少年たちが一緒に集める食べ物のなかで、唯一(まだ)食べることができないのがクルミだ。「ビッグランチ」に向けた準備の過程でもぎ取るクルミはまだ青く、柔らかい表面を光らせている。このクルミの未熟さは何を示すのか。
クルミ集めの最中、依里に怪我をさせてしまった湊は、依里が遠くへ引っ越す可能性を知り、依里へわざと冷たく接してしまう。湊はすぐにその冷たさを埋めるように「いなくなったらやだよ」と依里の肩にしがみつく。しばしの沈黙の後、依里が湊の身体に腕を回して抱きつく。ひぐらしの鳴き声が響く廃列車のなかで、初めて「湊」と呼ぶ依里の声がはっきりと聞こえる。頬が触れてしまいそうなほどに少年たちの距離が近くなったとき、「待って。待って。どいて。どいて!」と湊は依里から距離を置き、下半身に目をやる。「大丈夫なんだよ。僕も、たまにそうなる」と近づく依里を突き飛ばして廃列車に残し、湊は自転車まで逃げていく。
まだ食べることのできないクルミ集めは、少年たちの身体接触とそれに付随する湊の勃起を生起させる。少年たちの柔らかい身体の触れ合いによって、湊の身体に硬さをもたらす。依里もまた、湊を焦らせる身体反応を経験してきたのだろう。だからこそ「大丈夫」だと声をかける。
一方で、青いクルミは、まだ食べられない、あるいは食べてはいけないものだと湊が抑えてきたはずの欲望を象徴する。それは異性愛規範的な社会から切り離されたユートピア的空間(廃列車)に身を置くことで初めて実感した欲望の認識である。その欲望の芽生えに怯えるからこそ、その場を離れ異性愛規範的な社会へと戻っていくことで、湊は食べてはいけない(と考えさせられてきた)欲望を拒絶する。
近年盛んになりつつあるクィアと食の先行研究に照らせば(*8)、『怪物』は性的マイノリティの子どもたちが友愛を築き、欲望に葛藤するために必要な栄養の源泉として食のイメージをうまく活用した作品だと言える。その巧さは、ほかにも湊を演じた黒川が小学校のベランダで麦茶がギリギリ溢れない角度でコップを傾け、嘘をつき続けてきた湊の心情を見事に表す演技によっても達成されている(*9)。
©2023「怪物」製作委員会
かつてベビースターラーメンを拾い集めた音楽準備室を背後に、湊は好きな子がいることに触れ、「人に言えないから嘘ついてる。幸せになれないって、バレるから」と、抱えている気持ちを初めて大人(伏見校長)にこぼす。「誰にも言えないことはね」と、田中裕子演じる校長は、湊にトロンボーンのマウスピースに息を吹き込むように促す。湊のトロンボーンと校長のホルン。秘密を抱えた二人が言葉ではなく、楽器を通じた咆哮を学校中へ響かせる。
湊の告白に対して校長は、「そんなの、しょうもない。誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。しょうもない、しょうもない。誰でも手に入るものを幸せって言うの」と湊に諭す。
しかし、「しょうもない」と簡単に言えるほど、「普通」の呪縛は簡単に解けるものだろうか。幼い頃から異性愛・シスジェンダー中心主義的な映像文化や周囲の人々の言葉に触れることで内面化された呪縛は、強大なものではないか。「しょうもない」の一言で片付くなら、現実世界に暮らす性的マイノリティたち(のなかでもさらに弱い立場にいる人たち)は、日々踏みつけられるような思いをしなくても済むはずじゃないか。そうスクリーンに叫びたくなった。
「誰でも手に入るものを幸せって言う」という言葉は綺麗事だとわかっていても、わたしたちはときに綺麗事へ依存することで生きる活路を見出していくことがある。湊が校長の言葉を真に咀嚼できたかどうかはわからない。ただ、この場面に続くショットに映る彼は嬉しそうだ。いつか手が届くかもしれない「幸せ」への期待すら感じさせる。それは校長の言葉は、少なくとも湊にとっての(一時的な)救いとして機能しているからだ。
けれども、わたしたちは彼が言いたかった言葉を本当に聞けただろうか。トロンボーンが奏でる低音の咆哮に託した湊の「誰にも言えないこと」を、『怪物』の虚構世界にいる人たちも、わたしたち観客も誰一人聞くことはできなかった。音響も一つの言語表現であることに間違いはない。だからこそ、「誰にも言えないこと」を物語空間へ、そして映画館へと轟く音響として表現する技巧は、トロンボーンの咆哮の方が直接的な言葉へ時間を費やすよりも、観客にその「誰にも言えないこと」を想像させる上でより効果的な選択であったのかもしれない。
だがその選択肢は、湊と依里が生き残る先を描いてのみ有効なのではないか。彼らがもっと食事をともに交わし、腹を満たし、栄養を得て成長していく先に、「普通」の呪縛を乗り越えて「幸せ」を手にする「将来」が約束される終わりがあってこそ、それはもっと力強い意味を持ち得たのではないか。観客の「気づき」による実生活での行動に委ねるのではなく、湊や依里が自らの言葉で欲望や喜びを具体的に表現できる時空間の広がりを映画の物語のなかでしっかりと紡ぎ出すことでこそ成し得た生の祝福と肯定があったのではないか。
現代に暮らす性的マイノリティの子どもたちは、自らの性的指向やジェンダー・アイデンティティのあり方について明確な言葉を獲得していく過程において、これまでの世代が経験してきた以上に多くの情報のなかから望ましいものを精査していかなければならない状況にある。
例えば、性的マイノリティの支援には到底つながらないかたちになったLGBT理解増進法が火種となり、YouTubeやTikTok、その他のSNSには差別発言を含む動画が大量に溢れる状況が生まれている。もし『怪物』の湊や依里くらいの年齢の子どもたちがそれらの動画をクリックしたとすれば、アルゴリズムによって次々と差別的な動画が子どもたちを襲う可能性は非常に高い。
生きる希望につながるような情報へとたどり着こうとする過程において、逆に、性的マイノリティの子どもたちはそういった映像に晒され続けてしまうリスクがある。それにより、自分たちの性的指向やジェンダー・アイデンティティを「幸せになれない」ものだとし、将来に対する大きな不安を抱き、最悪の場合、自死を選んでしまうかもしれない。
そのような状況において、映画産業や映画製作者たちに期待されることは、性的マイノリティの子どもたちが勇気づけられ、自らの生を肯定しうる作品を一本でも増やすことである。
性的マイノリティ(だと読める人物)が登場する物語を描いてきた映画製作者たちは映画をつくることで、また、観客はそうした映画を見て語ることを通じて、異性愛規範に少しずつでも抗ってきた。映画には異性愛規範を再生産・強化する側面を有してきたと同時に、製作・上映・鑑賞・批評を通じた抵抗を可能にする希望がつねにあったからだ。
「普通」の呪縛を緩めることができる、そのような希望を性的マイノリティの子どもの観客へと広く届けることが、いまこそ求められているのではないか。
例えば、テレビで流れる映画の物語のなかで自分たちと同じような子どもたちの姿が登場したら、どんな気持ちになるだろう。映画の子どもたちがお腹いっぱい食べて、よく遊び、ぐっすりと眠る。日常生活を捉える小さな描写の一つ一つから、自分たちと同じような子どもたちが世界に生きていることを実感することができるかもしれない。それが映画の力であり、映画がいまこそカメラで捉えるべき救いの光であるはずだ。