Text by 後藤美波
Text by セメントTHING
『第74回カンヌ国際映画祭』ある視点部門審査員賞を受賞した、セバスティアン・マイゼ監督の映画『大いなる自由』は、第二次世界大戦後のドイツで、男性同性愛を禁じた刑法175条の下、自身の性的指向を理由に繰り返し投獄された男の20余年におよぶ物語を描く。
終戦後の1945年、恋人と共に投獄された1957年、刑法改正が報じられた1968年の3つの時代を行き来しながら描かれるのは、愛を諦めない男の姿と刑務所内での男たちとの関係性。鮮烈な印象を残す音楽には、北欧ジャズを代表するトランペッター、ニルス・ペッター・モルヴェルとともに、先日死去したサックス奏者ペーター・ブロッツマンも参加している。
不条理な迫害の歴史のなかで「自由」を求めた男の物語が、現代の私たちに問いかけるものはなにか。そして男が求めつづけた「自由」とは。セメントTHINGが綴る。
※本記事には映画『大いなる自由』本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承ください。
セバスティアン・マイゼ監督の歴史映画『大いなる自由』は、戦後西ドイツ社会における男性間の同性愛行為への弾圧を題材としている。ナチ政権がユダヤ人だけでなく特に男性の同性愛者を迫害していた(*1)のはよく知られているが、その根拠法となった「刑法175条」(*2)を引き継いだ西ドイツ(*3)では、戦後20年以上も同性愛行為に対する厳しい取り締まりが行なわれたのである。
この映画は、そんな時代を生きたゲイ男性、ハンスの人生を描いた作品だ。彼は戦争が終わったあとも解放されることはなく、同性と性行為をしたとして何度も逮捕・投獄されてしまう。そんな理不尽な状況のなかで、彼はそれでも自分を曲げずに戦い続ける。
抑圧されてきた人々の声をすくい上げ、その尊厳を描き出す。この映画はまずそんな魅力的な歴史ドラマであるといえる。ナチス時代と比べると相対的に知名度の低い、戦後西ドイツにおける迫害の歴史をフィクションで真正面から取り扱った意義は大きい。
ただ、優れた歴史作品の多くがそうであるように、この映画は過去を描きながらも、同時に特定の時代のみに限定されない普遍的な主題を表現している。特にこの映画における「自由」をめぐる描写は、現代を生きる観客にも強く訴えかけるものがあるだろう。本稿ではこの映画が「自由」をめぐる主題をどのように提示し、それをどう展開させているのかを追っていく。
『大いなる自由』 ©2021FreibeuterFilm•Rohfilm Productions
冒頭のシーンをみてみよう。公衆トイレで密かに互いを求め合う男たち。四角く切り取られた穴から、警察のカメラがその様子を隠し撮りしている。やがてそのうちの一人、ハンスがカメラを見つめ返す。
同性愛行為への弾圧と迫害の歴史を描いたこの映画が、この場面から始まるのはいかにもふさわしい。なぜなら同性を求める男性にとって、公衆トイレは長らく抑圧的な社会からの「避難所」として機能してきたからだ。
そもそも世界的に幅広く同性愛が合法化されていくのは、1960年代後半からのことである(*4)。それまで同性愛者として公然と生きるというのは、ほとんど不可能な話であった。そのため匿名性を保ったまま同じく同性を求める人とつながることのできる場所が、ゲイカルチャーにおいては重要となったのだ。
『大いなる自由』 ©2021FreibeuterFilm•Rohfilm Productions
同性愛行為が多くの国々で合法化され、インターネットが普及したいまでも、公衆トイレが出会いの場のひとつとして利用されることは珍しくはない(*5,6)。たとえ違法ではなくなったとしても、社会からホモフォビアが消え去ったわけではないからだ。道徳や規範による圧力は厳しく、性的指向を隠して生きる人はいまだに多い。
「性」という私的な領域へ介入し、それをさまざまな手法を通し管理しようとする権力。そこから束の間の自由を求め「避難」する人々。こうしてみると、公衆トイレという場所は、過去と現在において変わらない我々の社会のあり方を、端的に体現した場所だともいえる。
この現実の前に、「自由」とはどのようなものでありうるのだろう。この映画は、現代を生きる我々にとっても無視できない問いかけを開始早々に突きつける。
その問いはハンスが投獄され、物理的な自由を奪われることでより突き詰められることとなる。この作品がほぼ刑務所内を舞台としていることに注目したい。20年以上にわたるハンスの人生を追うなかで、観客が目にする彼は大半が拘禁された状態にある。
この舞台設定は、どの時代にも通じる普遍的な寓話としての性質をこの映画に与えている。監督自身が本作のオフィシャルインタビューで語っているように、中央の通路が吹き抜けになっており、囚人全体を容易に監視できるよう設計された刑務所の構造は、社会や権力の抑圧的な側面を象徴しているからだ。「刑務所」という舞台設定が、一種の暗喩として機能しているのである。
そのなかで監視や管理に逆らい愛を希求するハンスの姿は、「自由」の意味を鋭く追求するものがある。理不尽な法律によって不当に拘束され、他の囚人からはゲイであることで偏見の目を向けられ、その存在を何度も根本から否定される。それでも、ハンスは愚直なまでに自身を貫き続けるのだ。彼は物理的に拘束されてはいるが、権力による支配を受け入れることはない。
たとえ限界まで追い詰められたとしても、人は誰にも侵犯されない領域を自身の内に保ち続けることができる。映画は彼の不屈の精神を通し、「自由」とは自身の尊厳を譲らないことではないかと訴えかける。
『大いなる自由』 ©2021FreibeuterFilm•Rohfilm Productions
そして、映画はさらに、権力が唯一ハンスから奪うことのできないもの──「愛」の描写を際立たせることで、そのテーマをさらに展開させていく。ハンスは、獄中にありながらもさまざまな相手とのつながりを得ることになるが、その描写ははっとするほど官能的である。それにはもちろん直接的な性愛の描写も含まれるが、それ以上に印象に残るのは間接的な表現のほうだ。
肌を穿つ鋭いタトゥーの針、愛の言葉に姿を変える聖句、親密さの証明としてのタバコ、欲望の視線が通り抜ける覗き穴……禁欲的な暗闇が覆う監獄が、ジャン・ジュネ『愛の唄』(*7)を彷彿とさせる男同士の静かな官能に満たされていく。冒頭の警察のフィルムカメラによる隠し撮りが、中盤のあるフィルム映像との対比関係にあることも見逃せない。この一連のシーンでは、権力からの窃視という暴力的な目線が、同性間の情愛に満ちた視線によって塗り替えられている。
苛烈な抑圧のなかにあっても、愛はその輝きを失うことはなく、弱々しく光を放ち続ける。ハンスは苦しみながら愛のほうへと向かう。それによって彼は、真に「自由」な領域を見出すことに成功するのだ。
『大いなる自由』 ©2021FreibeuterFilm•Rohfilm Productions
また、ハンスという人物のあり方を伝えるうえで、主演のフランツ・ロゴフスキの存在が大きな役割を果たしていることも指摘しておきたい。『ハッピーエンド』(ミヒャエル・ハネケ監督)、『希望の灯り』(トーマス・ステューバー監督)などへの出演でドイツを代表する俳優となった彼だが、この作品においてもまた素晴らしい演技を披露している。
この映画は戦後25年の流れを主に3つの時代に分けて語っているのだが、それぞれのパートでのロゴフスキの佇まいは、驚くほどに異なっている。
すぐに気づくのは、いかにハンスの身体が時代によって違って見えるかということだ。痛々しく痩せ細った姿から、活力に満ち成熟した姿まで、彼はさまざまな容姿で画面のなかに現れる。これは強制収容所が崩壊した終戦直後、そして比較的安定した戦後社会という、背景の違いを役者の身体に直接的に反映させたものだ(*同上)。
『大いなる自由』 ©2021FreibeuterFilm•Rohfilm Productions
だがそのような表面上の変化よりも雄弁なのが、ハンスの精神的な変遷を表現した演技である。眼差しや喋り方、他者との距離感、そして権力に相対する態度まで、それぞれの時代で彼はまるで別人のようにその場に存在しているのだ。そこには彼が歩んできた時の重みが、はっきりと刻印されている。ロゴフスキはそのようにして、抑圧下に尊厳を持って生きようとする人間のあり方を、生々しくも見事に体現している。
この映画を観たとき、観客はハンスの苦悩や欲望を、くっきりと感じ取ることになるだろう。そのとき、これがある時代の人々の体験を誠実に表象すると同時に、それを通しあらゆる抑圧下にいる人の尊厳をも謳い上げた作品だということも、おのずと了解できるはずだ。
ハンスという人物の半生を通し、抑圧下の人間の肖像を粛然と立ち上げる『大いなる自由』。この作品は、まずはある歴史上の困難な時代を生きた男性同性愛者たちについての大変優れた省察である。そしてまた、現代を生きる私たちも、そこから自由と権利についての深い示唆を受け取ることができるだろう。ここには時代や場所を超えた普遍的な尊厳のあり方もまた提示されているからだ。
もちろんここで描かれたような同性愛行為の違法化が、多くの国で遠い過去となったのは事実だ。どんな極端な立場を取る人物であれ、大っぴらに同性愛者を逮捕せよとまで主張する人はもはやほとんどいないだろう。
だが、広く世界に目を向ければ同性愛者を迫害する法を擁する国は依然として存在し、なかには違反者を死刑に処する国もある。折しも今年の5月には、ウガンダで世界的に最も厳格と言われる反同性愛法が成立したばかりだ(*8)。
また、合法化したといっても安心できるわけではない。現在アメリカではLGBTQの権利に対するバックラッシュが激化しており、米国最大規模の人権団体HRC(ヒューマン・ライツ・キャンペーン)が「非常事態宣言」を出すまでに事態は悪化してしまっている(*9)。日本においてもいわゆる「LGBT理解増進法」が成立したばかりだが、その内容をめぐって当事者団体から懸念が表明されるなど、予断を許さない状況が続いていることは否定できない(*10)。
『大いなる自由』 ©2021FreibeuterFilm•Rohfilm Productions
どのような権利であれ、なにかのきっかけで潮目が変われば、再びこの映画で描かれたような形で権力が介入してくる可能性もある。私たちの生は、つねにそんな緊張状態におかれているのだ。この作品が他人事といえるような状況は、まだ到来してはいない。
はたして私たちは、ハンスと比べてより「自由」であると確信をもっていえるのだろうか。映画はそれに対し、明確な答えを用意しているわけではない。しかし、ハンスのいくつかの選択を通して、一つの結論を提示しているとはいえる。
人はどのような状況下であれ、自分のあり方を決めることができる。手段や結果がどうであれ、尊厳をもって選ぶことはできるのだ。
映画を観終わったあと、『大いなる自由』というタイトルは、ひときわ重みをもって感じられることだろう。この作品は、社会のなかで生きるあらゆる人々に、強く訴えかける。