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手塚治虫『新寳島』初版本が720万円で落札、大英博物館も注目する「お宝漫画」は日本の重要文化財に指定すべき?

2023年07月09日 11:40  リアルサウンド

リアルサウンド

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■漫画の重要文化財はまだゼロ


  今年3月27日、文化庁の一部の機能が京都に移転し、5月15日から本格的に業務を開始した。メディアでは移転に伴う混乱が報じられているが、例年であれば春の時期に行われてきた美術工芸品の重要文化財の指定答申が今年はまだ行われていない。建造物の分野では6月23日に通潤橋の国宝指定と、真宗本廟東本願寺内事などの重要文化財指定が答申されたが、例年より約1ヶ月遅れとなった。


(参考:【写真】楽しみすぎる! 今年10月に開催が決定した「手塚治虫ブラック・ジャック展」と「ミッドナイト」の未掲載作品が試し読み


  原因は不明だが、移転作業の慌ただしさゆえに手続きが遅れたり、指定を答申する文化審議会も思うように開催できなかったせいかもしれない。


  さて、記者は毎年発表される文化財について追跡しているが、常に気にしているのは「いつ漫画の分野から重要文化財が出るのか」という点である。国宝に指定されている「鳥獣戯画」や中世の絵巻物などはしばしば漫画のルーツといわれるが、記者が指す漫画とは、戦後の日本文化を席巻したストーリー漫画である。


  漫画が日本の文化であることに異論を唱える人は、今やほとんどいないだろう。漫画の影響はアニメ、音楽、ドラマ、ゲームなど幅広い分野に拡大し、我が国のコンテンツ産業を支える存在になっている。その影響力は世界規模であり、世界中に日本の漫画が翻訳され、読者を獲得している。これほど世界から支持されている日本文化は稀有だろう。にもかかわらず、まだ重要文化財に指定された漫画は存在しないのだ。


■『新寳島』は日本漫画史の記念碑的作品


  日本のストーリー漫画の開拓者といえば、“漫画の神様”手塚治虫である。手塚の業績については、朝日新聞が1989年2月10日の社説で「日本人はなぜこんなに漫画が好きなのか、外国人の目には異様にうつるらしい。なぜ外国の人はこれほどまでに漫画を読まずにいたのだろうか。答えの一つは、彼らの国に手塚治虫がいなかったからだ」と語ったほどである。事実、手塚がいなければ日本の漫画がここまで拡大することはなかっただろう。


  全国の漫画ファンに手塚の名を轟かせたのが、1947年に出版された『新寳島』だ。終戦直後の物資不足の影響で短編がほとんどだった漫画界において、200ページを超える描き下ろしで出版された手塚の出世作である。そして、冒頭の車が波止場に向かって疾走するシーンは迫力満点で、「まるで車が動いている!」と、当時の子どもたちを驚かせた。


 『新寳島』がその後の漫画界に与えた影響は計り知れない。藤子不二雄の2人、石ノ森章太郎、ちばてつや、楳図かずお、さいとう・たかを、宮崎駿は『新寳島』を読んで漫画家やアニメーターを志したと語っている。


  近年の研究によれば、手塚が用いた映画的手法は戦前に実践していた漫画家はいたようだし、先駆けて斬新なコマ割りの漫画を描いた漫画家は存在するという。しかし、手塚の『新寳島』を超える巨大な影響力をもった漫画は他にないし、おそらく今後も生まれることはないと思われる。


■漫画界のお宝に大英博物館が注目


  そんな『新寳島』は極めて高価な漫画単行本として有名だ。2022年、中野ブロードウェイに本店をおく「まんだらけ」のオークションで、初版本が720万円で落札された。当時約40万部を印刷したといわれるが、初版本の現存数は極めて少ないことや、藤子不二雄(A)の『まんが道』に描かれて知名度が高いなどの要因が重なって、ヴィンテージコミックの王者として君臨している。


  まんだらけでは、この『新寳島』のデッドストックを所有しているという。文字通り一度も読まれた形跡がない、出版当時の姿を留めたものだ。この噂を聞きつけて、イギリスの大英博物館がまんだらけに初版本を売って欲しいと持ち掛けてきたという。まんだらけは断ったが、他国の文化についても強い関心を寄せるあたり、さすがは大英博物館である。


  大英博物館では2019年に「The Citi Exhibition Manga」展と称した、日本の漫画の大規模な展示会が行われた。このことからも、内部に相当漫画に詳しい学芸員がいることがわかる。ところが、日本の美術館や博物館からはまんだらけにいまだ1件も問い合わせがないと言う。記者はこれを聞いて残念に思った。


■ 手塚が亡くなったとき、作家の星新一がこう語った。


 「今の日本文化を見て下さい。劇画雑誌が何千万部も売れているのは、だれのおかげですか。文学や映像への影響だって計り知れない。こういう人はめったに出ませんよ。その彼に何の報酬があったでしょうか。文化勲章も出なかったし、芸術院会員にもならなかった。日本って国は文化の価値を見極める力がないんです」


  星のコメントが発表されてから長い年月が経ったが、まだまだ日本では自国の文化の価値を正当に評価できていないようである。


■『新寳島』は重要文化財に指定すべきだ


  記者の提案としては、ぜひともこのまんだらけ所有の『新寳島』を重要文化財に指定し、日本の博物館などが買い上げて永久に保存して欲しいと願う。国会議員の赤松健が漫画を使った外交に取り組んでおり、政府もクール・ジャパン(既に死語かもしれないが)と称してコンテンツの発信を図ろうとしているが、まずは国内で漫画の評価を固めることから始めるべきではないか。


  文化財の指定対象といえば、仏像や日本画、刀剣などの古美術品のイメージが強いが、近年は意外な分野も多彩になっている。例えば映画のフィルムは3本、重要文化財に指定されている。指定が進めば、黒澤明のフィルムなども対象になるのは間違いない。建築にいたっては戦後の指定物件も増えてきたし、百貨店やトンネル、現役の吊り橋なども指定対象になってきた。ほかにも現在の銀座線を走っていた地下鉄の電車や、バスの車両、写真、船など、新しいジャンルの重要文化財が増えている。


  問題は漫画が印刷物のため、この世に同じものが複数存在する点だ。つまり、ある漫画本を指定した後により状態が良いものが出てきた場合、指定し直すのか、という問題が生じる。あれほど海外で評価が高い葛飾北斎や歌川広重の浮世絵がほとんど文化財にならないのも、そのためという説がある。


  以前に浮世絵を扱う美術館の学芸員に聞いたところ、「ある作品を重要文化財に指定したら後でもっと保存状態が優れる一枚が発見されたため、文化庁が指定を躊躇するようになった」という話を聞いたこともある。対して、他の学芸員は「浮世絵が評価されるようになったのは戦後、しかもずっと後で、まだ研究と評価が十分になされていないため」とも言っていた。


  どちらが真相なのかはわからないが、「後から状態が良いものが出てくる可能性」と「評価が十分になされていない」のは漫画にも共通する問題であろう。そのうえ漫画の文化財指定は前例がないこともあって、当面難しいという見方もある。しかしここは、赤松や日本漫画家協会などが中心となって世論を盛り上げて欲しいと願うのだが。


■漫画家の地位向上にもつながるはず


  文化庁のウェブサイトには、こう書かれている。「建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡、典籍、古文書、考古資料、歴史資料などの有形の文化的所産で、我が国にとって歴史上、芸術上、学術上価値の高いものを総称して有形文化財と呼んでいます。国は有形文化財のうち重要なものを重要文化財に指定し、さらに世界文化の見地から特に価値の高いものを国宝に指定して保護しています」とある。


  日本の文化史、美術史は、漫画抜きには語れない。まんだらけ前社長の辻中雄二郎は、「21世紀の日本で、漫画、アニメ、ゲームは日本の文化の土台になっています。その始まりがこの本(『新寳島』)だったのです」と語っているが、その通りだろう。しかも、重要文化財の中から「世界文化の見地から特に価値の高いもの」が国宝になるのだとすれば、『新寳島』は国宝になってもおかしくない存在だろう。


  漫画から重要文化財が輩出されることで、ゆくゆくは漫画家やアニメーターの地位向上にもつながるだろう。創作物が芸術作品のひとつとして認められる道が開かれる、意義深い事業だ。その第一歩として、手塚治虫の『新寳島』の重要文化財指定は、大きな意味があると考える。なんらかの運動の輪が広がって欲しいと思う。


(文=山内貴範)