2023年07月08日 09:11 弁護士ドットコム
初めて市販の咳止め薬ブロンに手を出したのは、10代のころだ。つらいことから逃げたい一心で、意識朦朧となるまで使い続けた。徐々に効かなくなるため、どんどん量が増えていく。自らの力でやめられなくなり「死んだほうがマシ」だと思った。
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薬物依存症の回復支援施設として知られる「群馬ダルク(群馬県高崎市)」の代表・平山晶一さん(54歳)には、このような過去がある。市販薬のOD(オーバードーズ:過剰摂取)を繰り返す若者の報道をみるたびに「たぶん、苦しいんだろうなあ」と思いを馳せる。
施設長の福島ショーンさん(53歳)も未成年のころからブロンにハマった。覚醒剤も使うようになったが「市販薬をやめるほうがつらかった」。
2人はどのような道を歩み、薬物を使う子どもたちに何を思うのか。話を聞いた。
福島さんは「市販薬を使うのは手を出しやすく、捕まらないからかもしれません。ただ、覚醒剤を使う子どももいるので、10代もさまざま」と説明する。
市販薬のODをする10代の中には、過去の福島さんや平山さんがそうだったように、やめられずに自責の念に駆られている子どもたちもいるかもしれない。
「違法か合法か、やめられないのがアルコール、ギャンブル、覚醒剤、市販薬なのか、は一切関係ない。みんな仲間だと思っています。やり続けて迎える結末も同じです。最後には、ひとりぼっちになってしまう」(福島さん)
薬をやめ続けて15年。福島さんの回復を分かち合うイベントには、約100人の仲間が集まった。「孤独だった人間のまわりに、これだけの人間が集まるのはすごいこと」(平山さん)
平山さんは「自分自身もダルクがあると知っていても、やめられると思えなかった」としつつ、10代の子どもたちに「同じような経験をした人が幸せになって、笑顔で生きていることを知ってほしい」と願っている。
福島さんは、10代でブロン、20代からは覚醒剤にハマった。30代でダルクにつながった後もやめられず、2回の服役経験がある。「覚醒剤よりもブロンをやめるほうがつらかった。身近にあるし、すぐに手に入るから。何回も失敗した」と語る。まわりから人が去っていき、さらなる孤独が押し寄せた。
薬を手に入れることしか頭になくなり、薬局で万引きしたこともあるという。
平山さんも「捕まるという発想もなかった。身近で手に入りやすかったから最初は市販薬を使っていた」と振り返る。大麻や覚醒剤にいかなかったのは、たまたま「入手方法を知らなかったため」だ。
「体に入れられれば、液体でも錠剤でもなんでもよかったんです。気持ち悪くなっても、意識朦朧とするまで使い続けました。耐性がついて効かなくなるから量が増えていく」
平山さんが初めてダルクにつながったのは、21歳のとき。精神科病院にも3回入院した。どこに行っても薬をやめられず、32歳になり、一度は離れたダルクに再び足を運んだ。
「自分とは違う」と思っていた依存症の仲間の話を聞き、平山さんは「俺も一緒だ」と共感したという(Rawpixel / PIXTA)
薬物依存症の回復には、最悪の状態を経験する「底つき体験」が必要といわれることもある。平山さんは「最悪の状態にならずに回復する人もいれば、大変な目に遭ってもまだ使おうとする人もいる。もうダメだ。変わるしかない、と自分で気づけるかだと思う」と話す。
薬物を使う人すべてが依存症とは限らない。しかし、福島さんは、さまざまな困難を抱えていても「自分は病気ではない」と否認する人をたくさん見てきた。
「最初から『僕は病気です。依存症です。市販薬に依存しています』と自認している人に出会ったことはほとんどありません。何回も刑務所に行っているのに『自分は違う』『ギャンブルは依存じゃない』などと否認する。肝硬変を起こしても、飲酒運転しても『好きで飲んでいるからアルコール依存症ではない』と言い続ける。僕もそうでした」(福島さん)
平山さんと福島さんは、薬物を「やめた」のではなく「やめ続けている」と強調する。
「クリーン(薬物を使わないこと)になるのは簡単。続けることが大変なんです」
2度の服役を経ても、福島さんが生き続け、回復の道を歩み始めることができたのは居場所があったからだという。
「また薬物を使っても戻ってこられる場所、帰ってくる場所、受け入れられる場所がある。それがダルクだったんですよね」
平山さんも順調に回復の道を歩んだわけではない。しかし、仲間と体験を分かち合ううちに、気づけば薬は止まっていたという。
「やめ続けている人が笑っている。楽しそう。そっちに行きたい。そう思ってもらえれば」