Text by 鈴木渉
Text by 栄藤徹平
現在、日本映画界では財源問題や若手支援、ハラスメント、労働環境など、さまざまな課題が表面化してきている。
こうした状況について話し合い、持続可能な映画業界の未来をつくるため2022年6月に立ち上がったのが「action4cinema / 日本版CNC設立を求める会」だ。同団体には是枝裕和監督や諏訪敦彦監督など、かねてからの「映画監督有志の会」のメンバーに加え、映画『佐々木、イン、マイマイン』などで活躍する若手の内山拓也監督も参加している。
自発的に参加を希望したという内山監督。その動機はいったいどこからくるものなのだろうか。彼が映画制作の世界に入った経緯まで遡り、業界に対する思いの根源を探った。
─内山監督の初長編映画『佐々木、イン、マイマイン』(2020年)の爆発力は凄まじいもので、そのエネルギーの強さと幾度も格闘しながら制作されたとうかがっています。そこから、勝手に内山さんの力強さや問題から逃げない姿勢を感じていたので、映画業界のよりよい未来のために動かれている姿もわりとすんなり納得しました。
内山:そうでしたか。
─監督はもともとスタイリストを目指して文化服装学院に通われていたそうですが、どのようなきっかけから映画業界を志すようになったんですか?
内山:もともとファッションが好きで文化服装学院に通っていたんですが、学校と課題とアシスタントとアルバイトだけで2年間を終えてしまったらほかの生徒と同じになってしまうと思い、毎日1本の映画を観ることにしたんです。そしたらどんどんハマってしまって、映画ノートに好きな監督の作品情報をまとめたり、映画ブログを書いたり……結局1年で1200本くらい観ていましたね。
学校で、自由にテーマを決めてスタイリングするという授業があったんですが、ほかの人がロンドンやアメリカのファッションカルチャーなどをテーマにしているなか、僕は映画『シンドラーのリスト』をテーマに発表したりして。学校でも「映画のことは内山に聞こう」みたいなムードができあがっていましたし、異質だったと思います。
そうやって映画を浴び続けるなかで漠然と映画業界に携わりたいと思うようになり、結果的に何の将来設計もないまま新宿武蔵野館という映画館でアルバイトをするようになりました。
内山 拓也(うちやま たくや)
1992年生まれ、新潟県出身。文化服装学院在学時よりスタイリストとして活動するが、その経験過程で映画の撮影現場に触れ、映画の道を志す。2016年、初監督作『ヴァニタス』を自主制作。同作品で初の映像作品にして、PFFアワード2016観客賞、香港国際映画祭出品、批評家連盟賞ノミネートなど、海外でも評価を受ける。'20年、『佐々木、イン、マイマイン』にて劇場長編映画デビュー。同作で新藤兼人賞、ヨコハマ映画祭、日本映画批評家大賞などで新人監督賞を総なめにした。また、King GnuやSixTONESのMV、短編や広告などさまざまな映像を手がけて話題を集め続け、「2021年ニッポンを変える100人」に選出される。
─内山監督が当時感じていた「映画の魅力」について教えてください。
内山:映画には魔物のような力があると思っています。たった1本の映画で人生が変わってしまうこともある。僕もそうです。映画の仕事がしたい一心で、結果的にスタイリストをやめて、フリーターになっていますから。
そうさせたのは「映画の魅力」だけではなく、「映画制作の魅力」もあるかもしれません。学業と並行してスタイリストをしていたとき、雑誌やミュージックビデオなどの撮影現場にたくさん呼んでいただいたんですが、そのなかで大規模な映画撮影の現場に関わらせていただいたことがありました。
僕は現場の隅っこで延々とアイロンがけをしていただけですが、その場にいる全員が生き生きしていて、1カットを全身全霊で撮っている姿を見て、圧倒的に感情を揺さぶられましたね。
─新宿武蔵野館ではどのようなお仕事をされていたんですか?
内山:いろんな仕事を教えてもらって、最終的には作品選定以外ほとんどすべての業務をやっていました。それこそチケットのもぎりや映写もしていましたし、集客状況をまとめたり、配給さんや宣伝担当者との打ち合わせにお茶出しをしたり。僕の場合、キャリアがそこから始まっているので、作品をつくればあとはすべて宣伝部の仕事だとかっていう考えがないんです。毎日、お客さんがどういう顔でチケットを買いにきて、どういう顔で帰っていくのかを見ていたので。
そんな感じで2年ほどアルバイトを続けていたんですが、あるとき武蔵野館の人のつながりで声をかけてもらい、映画制作の現場に参加させていただくことになったんです。そのときは演出部や制作部、美術部など、あらゆる部所の雑用をやりました。それ以降、現場の応援みたいなかたちで呼ばれることが何度かありました。
─助監督もされていたんですか?
内山:いえ、ほぼしてないですね。一度だけ、中野量太監督の『湯を沸かすほどの熱い愛』(2016年)で助監督として参加させていただいたくらいです。
─そういえば、映画『チチを撮りに』(2012年)に感銘を受けて、中野監督に直接履歴書を渡しにいったというエピソードを聞いたことがあります。
内山:そうなんです(笑)。そのときは何も起きませんでしたが、その後、中野監督があるバーの一日店長を務めることを知って、そこに乗り込んだんです。そこからつながりが生まれて、映画のつくり方をいろいろ質問しながら、『湯を沸かすほど~』が脚本としてかたちになるまでの約1年、ずっと横にいさせてもらいました。
それまで僕は、漠然と「映画制作に携わりたい」と思っていましたが、どの職業をやりたいのかが自分でもわかっていなくて。初めて助監督として参加して、「自分がやるべきことは監督なんだ」と明確になりました。
人によってはそこから助監督としてキャリアを積み上げていくこともあると思いますが、僕の場合はビジョンがはっきりしていたので、また武蔵野館のアルバイト生活に戻って、自分で作品を撮ることにしました。頑張ってお金を貯めて、初めて撮ったのが『ヴァニタス』(2016年)です。
─映画業界は実力主義的な側面も大きいかと思いますが、実際に映画制作に関わるようになってどう感じますか?
内山:それはあると思います。つくりたい人は一緒に手をつないで頑張りましょうという世界ではないので。強烈な実力主義ですし、運やタイミング次第という側面もあります。努力すれば報われるわけでもありません。でもそのこと自体は、優れた作品を生み出し続けるためには必要なことだと思っています。問題は、そうした活動を下支えするための経済面や精神面の「豊かさの基盤」が整っていないということなのかなと。
映画は、多くの人にとって「楽しむもの」じゃないですか。デートで行く場所であったり、新しい価値観に触れたり、好きな俳優を観られる場所だったり。だからこそ、華やかではない部分が顕在化したときのショックが大きいんだと思います。いま映画界で起こっている諸問題は、カルチャー全般で起きていることですし、日本経済全体の問題でもあると思うんです。
もちろん、だからといって映画界における問題から目を背けてはいけない。「action4cinema」の立ち上げに参加したのも、そうした現実を少しでも変えていきたいと思ったからです。
─持続可能な映画業界の未来をつくるための団体「action4cinema / 日本版CNC設立を求める会」には、自発的に参加されたとうかがいました。どのような動機からだったのでしょうか?
内山:2020年に公開した『佐々木、イン、マイマイン』は自分のやりたい表現を追求して、がむしゃらにつくった映画でした。結果、ありがたい評価をいただきましたが、一方で期待されることも変わってきたという感覚がありました。使命感に近いかもしれませんが、自分が好きな映画のために、やらなければいけないことがより明確になったんです。
─具体的には、どんな問題意識があったんですか?
内山:教育や映画づくりの環境などいくつも課題はありますが、なかでも「企画開発の仕組み」には強い問題意識を持っていました。ここ最近の日本の映画制作は、低予算で数をつくろうとするばかりで、企画開発に重きが置かれていない傾向にあります。企画こそ映画の多様さを生む根源だし、大切にされる文化であるべきだと思うんです。
たとえばアメリカの映画会社「サーチライト・ピクチャーズ」では、小さな企画を強くしていき、そこにクリエイターが集まっていくようなつくり方をしています。企画開発を大切にしているんです。ほかにもここ数年で特に名を知られるようになった「A24」やドラマ制作の「スタジオドラゴン」など各国ユニークな会社ができています。世界の有望なクリエイターを発掘し、支援をすることで、よりオリジナリティのある作品を発表しています。
僕もここ数年、企画開発が起点になるようなレーベル構想をずっと考えていました。それで、実現化のために各国の事情や映画業界の仕組みをずっと調べていたんですけど……途方もないなと思えてきて。日本で実現するには構造そのものを変えなければいけないんですよね。
内山:そんなとき、「action4cinema」の前身である「映画監督有志の会」の対談記事を読んで、「こんな会話ができるんだ」と可能性を感じたんです。それで、会のメンバーである岨手監督に連絡をとって、みなさんと直接お話しする機会をもらいました。20代の僕の考えは間違っているかもしれないし正しくても夢物語だと片付けられちゃうかもしれないんですけど、という前置きをしたうえで自分の考えを正直に伝えました。
─そこから、活動に参加されるようになったんですね。
内山:はい。かなりの頻度でディスカッションに参加させていただくようになって、週1回か、多いときは2、3日に1回くらいのペースで話をしていたと思います。その最中、ハラスメントに関する報道が大きくなり、僕たちも声明文を出すことになったんです。
当初はハラスメント撲滅団体と誤解されることもありましたが、厳密には違います。最近だと、ただ行政に頼ろうとしていると誤解されたりもしていますが、それも違います。「action4cinema」はハラスメントも含めた映画業界の労働環境や実態そのものの改革のための働きかけを行なう団体なんです。
─「映画監督有志の会」にぶつけた内山さんの考えというのは、先程お話しいただいた企画開発についてですか?
内山:というよりも、その環境をつくるために整備すべきこと、ですかね。さまざまな整備が必要ですが、クリエイター目線でいうと、ひとつに権利の問題があります。いまの日本では、映画の権利はお金を出した人のみにあり、企画を考えた監督にも脚本家にもプロデューサーにも権利がないことがほとんどです。
現実的に、監督個人が数千万から数億円の制作費を出すことは難しいので出資者の存在は必要不可欠ですが、とはいえ「映画はお金を投資している出資者だけのもの」なんだろうか、と。自分は、出資者とクリエイターはパートナーであるべきだと思っています。監督は「アイデアを出資」しているわけですから。アイデアにも権利があるべきだと思いますし、企画開発に重きを置く認識ができてこないと、本当に面白い映画がつくれなくなって、僕たちが好きだった映画が観られなくなってしまうんじゃないかと危惧しているんです。
─出資者と企画者のパワーバランスに問題があると。
内山:一方的にならないように注意を払うべきです。ものづくりにおいては、出資者、プロデューサー、監督、それぞれ立場と責任が違うなかで、人によって考えが違ったりその都度正解が違ったりすると思います。僕の場合は、クリエイティビティを高めることと商業性を保つこと、両方が大切だと思っています。これは、単純にお金がほしいという話ではありません。「お金がほしいならお金を出せ」という考え方だけだと続かなくなると思うんです。生まれるはずのアイデアも生まれないし、優れた才能を持つクリエイターも離れていってしまう。
長く未来に残るような映画をつくるためには、一個人を守ることが絶対に必要で、それが映画業界の未来につながっていくと思っています。そういう意味では、著作権だけではなく、労働環境の整備なども必要ですし……改善点はつきないですよね。
─なるほど。あらためて映画業界の未来について強い思いを持っていらっしゃるんだなと感じました。
内山:映画が好きですし、新しい才能がもっと生まれてほしい。僕らはもっと未来を良くしていけるはずですし、映画業界に限らず文化産業全般が同じ状況なので、変化のきっかけになれたらいいなと思っています。
─「action4cinema」では具体的にどのような活動をされているんですか?
内山:課題ごとに分科会をつくっているんですが、数が多すぎて……現時点で10個ほどあります。それをみんなかけ持ちして、準備や撮影の合間に推進しています。
大きくは、仕組みを整備する活動と、業界全体を巻き込む活動なんですが、僕は主に後者を担当しています。スタッフやキャストへのヒアリングやメディアでの発信など。
韓国では、映画業界が一丸となって運動や働きかけをして、ルール変更を勝ち取った歴史があります。大昔ではなく、最近の話です。ですが、日本はボトムアップではなくトップダウンの力が強い国なので、同じような動き方は現実的ではありません。持続的な業界をつくるために、どうすれば一枚岩になれるのか、日々試行錯誤をしています。
─多岐にわたる問題と、障害の大きさを考えると途方もなさを感じますね。
内山:過去にも、日本版CNCのような組織をつくろうとした人たちがいたんですが、結局その途方もなさに諦めざるを得なかったそうです。「action4cinema」の違うところは、ただひたすらに諦めたくないという思いがあること。頓挫しそうになっても、あらゆる選択肢や方法論を考えて、多岐にわたる対話をしています。
─ここまで映画業界に対する考えを聞いてきましたが、内山監督が抱える強い問題意識は、一体どこからきているんでしょうか?
内山:そうですね……映画監督としての経験というよりも、幼いときの経験からきているのかもしれません。僕は、バブル経済の恩恵を受けられなくなった直後の92年に新潟で生まれました。いわゆる「ゆとり世代」です。世の中が豊かで幸福である社会を経験したことも、見たこともありませんし、幼い頃から不景気が当たり前でした。なんというか、節目節目が辛い出来事ばかりだったんです。個人的にも家庭環境が複雑だったので、息が出来ないくらい、ずっと悩んだり苦しんだりして、とにかく大人になるまでの20年が僕にとっては長すぎた。
だから僕には「何かを変えなければ」というモチベーションしかないんです。本当は普通に生きたかったけど、普通が何かもわからなかった。安定して普通に生きられる未来像がどうしても浮かばなかったんです。
─なるほど。監督になるまでの時間すべてが、いまの活動につながっているんですね。
内山:20代も同じように長すぎました。でも20代後半になってみて、少しずつ未来の輪郭が見えてきたんです。なんというか……見えづらいけれど確かに存在している、人の感情や営みっていうんですかね。そういう「世の中に表出していない感情をすくい上げる」というのが、僕の作品づくりのテーマなんだと思います。スタイリストで表現していたときもそうでしたし、『佐々木、イン、マイマイン』でもそうです。それによって、小さな変化が生まれるかもしれない。映画にはその可能性があると思っています。実際、僕は映画のおかげで人生をやめずに生きてこられました。
若手と呼ばれる自分が、いま日本映画界で活動しているのは、過去の思いや感覚が薄れる前に行動したいと思うからなんです。
─強い思いを持っているうちに、ということですか。
内山:苦しかった記憶やつらかった経験のディティールがぼやけてきて、衰えや自分の弱さに負けてシステムの構造に飲み込まれたり、その一員になってしまったりするんじゃないかという恐怖があるんですよね。だからこそ、いまが大切なんです。
僕はやっぱり映画が好きなので、「日本の映画がつまらなくなった」って言われるのはやっぱりつらいんです。だから、どのような映画を自分は残せるかを考えながら作品をつくりますし、自分にできることは多くはないですけど、少しでも変えていきたい。
もちろんそれは大変で挫けそうになるときもありますが、そのたびに昨日までの自分を思い出して、「過去の自分に、やめるって言えるか?」と自問しています。そうすると、やっぱりやめられないです。