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ディズニーは『リトル・マーメイド』実写版で何を成し遂げたのか。アニメ版との違いから探る

2023年06月24日 10:10  CINRA.NET

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Text by 生田綾
Text by 中村香住

ロブ・マーシャルが監督を務めた現在公開中の映画『リトル・マーメイド』(2023)は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンによるおとぎ話『人魚姫』とディズニーのアニメーション映画『リトル・マーメイド』(1989)をベースに、実写映画へと「reimagining(再創造、再構築)」したものである。

ディズニーはいままでにも数多くのアニメーション作品の実写リメイク版を制作してきたが、本作はそのなかでも特に、『リトル・マーメイド』という物語を現代に甦らせるうえで必要な変更や補足がほとんど全部きちんと行なわれている印象があり、ディズニーアニメーションの実写化の金字塔になるのではないだろうか。本稿では、物語が貫いた「異世界との調和」というテーマやアニメ版から変化したアリエルとエリックのキャラクター像、フェミニズム的な視点から、ディズニーが何を成し遂げようとしたのか考察する。

※本記事には映画『リトル・マーメイド』本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承ください。

本作をめぐっては、黒人歌手のハリー・ベイリーがアリエルに起用されたことに関して一部では違和感を唱える声があり、そのことをめぐってさまざまな意見が特にインターネット上で散見された。このキャスティングに関しては、“Part of Your World”を聴いた時の衝撃がすべてだろう。単に「歌が上手い」だけでなく、ハリー自身がこの曲の歌詞やアリエルの心情と深いところでつながって、完璧に「ストーリーテリング」をしている歌声だった。ディズニーはストーリーテリングを礎とする企業ということをふまえると、ハリーの採用は非常にディズニーらしい。

実写版のために制作された新曲は、作曲はアニメ版から引き続きアラン・メンケンが務め、作詞はハワード・アシュマン亡き後を、『ハミルトン』でミュージカルにラップを持ち込んだリン=マニュエル・ミランダが担当している。

アランとリンの楽曲制作プロセスは「互いの領域を行ったり来たりしながらの作業」(映画『リトル・マーメイド』パンフレットより)だったそうで、二人の持ち味の化学反応が十二分に発揮された楽曲群となっている。

特にカニ(セバスチャン)とカツオドリ(スカットル)がラップする“The Scuttlebutt”は、アランが作ったカリプソ風の曲に、リンらしいリズミカルなラップ詞が乗っており、個人的には一番印象に残った楽曲である。

本作を貫くテーマは「異世界との調和」であると思われる。

冒頭で 「人間は(海などほかの世界との)調和を考えていない」と言うトリトン王に、 「あなたも同じでしょ」とアリエルが返すシーンがある。さらに、アリエルの母が人間によって殺されたことを理由に「人間は凶暴だ」と言って憚らないトリトンに対して、アリエルは「私たちはみんな同じではないのだから、人間だってそうでしょう?」と主張する。

このように映画の端々で「調和」というテーマを提示しつつ、最後のシーンでアリエルとエリックがともに船出する際には、エリックの母が「(あなたたちが)世界を変えるのよ」「これは新しい世界の始まりよ」と二人に呼びかける。この台詞には、アリエルとエリックが手を取り合って、人間と人魚、陸の世界と海の世界が調和する新たな世界へと主体的に「変えていく」ことへの期待が見てとれる。

ただ、別の世界との調和はそんなにうまくいくのだろうかという疑問も残る。例えば、アリエルが歌う“For the First Time”という新曲にも<Are we only food for slaughter / Is this life on land?(海に住む私たちは殺されて食べられるだけの存在なの? これが陸での生活なの?)>という歌詞があるように、結局人間は魚など海の生物を殺して食べ続けてしまう(食べ続けざるをえない)気もする。

© 2023 Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.

アニメ版と比較した際の本作の一番大きな変更点は、アリエルとエリックが「仲良くなる」過程がよりリアルに描かれたことであろう。

アニメ版ではアリエルがエリックに惹かれた理由は、人間であること以外には見た目が「ハンサム」だということしか示されず、いつの間に恋愛的な仲になったのかも判然としない不自然さがある。

しかし本作では、二人の共通点として、冒険が好きな点や知的好奇心が旺盛である点がたっぷりと描かれている。アリエルは海の世界にいながら人間の世界の物品をコレクションするほどで、もともと好奇心が強いキャラクターだと言えるが、本作ではその側面がさらに強調されている。さらに、エリックのコレクション部屋では、エリックが旅で集めた化石を割って中から宝石を取り出したり、法螺貝を吹いてみせたりすることで、海の世界で暮らしてきた自分なりの知識や教養も示している。

© 2023 Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.

もともとディズニー・ルネサンスとよばれる時期の作品(『リトル・マーメイド』、『美女と野獣』(1991)、『アラジン』(1992)など)では、『白雪姫』(1937)、『シンデレラ』(1950)、『眠れる森の美女』(1959)といった初期のプリンセス作品と比較すると、より自分の意思を強く持つ(当時としては)新たなプリンセス像が描かれている。ディズニーは実写映画化の際に、そうした女性の主体性を現代の観点からより違和感なく描こうとしてきた。

例えば、実写リメイク版『美女と野獣』(2017)のベルは、読書好きで知的な女性だったことにより当時の田舎町では風変わりに思われて孤立していたという点をアニメ版よりも強調して描いている。今回のアリエルの描き方の変化も、その延長線上にあると言えるだろう。

© 2023 Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.

フェミニズムへの目配せは、ほかにも本作の随所で見られる。アリエルが初めて人間の世界での生活を体験した際に歌う“For the First Time”には、<Squeeze in the shoes and the corset, it's tight / And the seams are busting / Some women choose this, I guess it's alright / Are my dreams adjusting?(靴とコルセットの中に押し込まれて、窮屈だし、縫い目がほつれてくる。これを選ぶ女性もいるらしい、それはまあいいと思うけど、私の夢も順応できるのかな?)>という歌詞が登場する。

この歌は、アリエルが実際に王宮の世話人にコルセットを着せられ、ハイヒールを履かされるシーンで歌われる。「コルセット」はフェミニズムにおいて、家父長制的な観点から女性を一元的な美の基準に押し込めるものとして、象徴的に批判されてきた。このシーンでは、そのコルセットが画面にも歌詞にも登場することで、アリエルが初めて感じた人間の女性の「窮屈さ」をよく示している。

さらに“Kiss the Girl”のシーンでは、アニメ版ではセバスチャンが「何も言わずに」アリエルにキスしてとエリックに唆すが、本作では<Use your words, boy, and ask her(言葉を使って彼女に尋ねるんだ)>と、言葉を使って明確に「性的同意」を得ることを促す歌詞に変更されている。しかも、さすが韻を踏む天才リンの作詞だけあって、元の歌詞とも韻が揃っており、とても自然に聞くことができた。

しかし本作で最もフェミニズム的に重要なのは、最後のトリトンとアリエルの和解シーンだろう。トリトンが「いままで声を上げることができなくて辛かっただろう。これからはいつでも聞くよ」という旨をアリエルに告げ(遅すぎる気もするが…)、アリエルが「私の声を聞いてくれてありがとう」と応えるこの場面には、父が娘の声を聞かなかったことのみならず、家父長たる男性たちが女性たちの声や言葉を聞いてこなかったことに対する反省の念が表れている。

ただ、本作には限界もある。特に、実写化に際して要素を足した部分に関しては、おそらく尺の問題もあり、具体的な様子が見えてこない部分が多々あった。

例えば、エリック王子が属する「国」については、人口構成など含めどのような国なのかが最後までよくわからない。また本作ではアニメ版とは異なりエリックの母が登場するが、父は相変わらず登場せず、父代わりの世話人として描かれるのは宰相のグリムズビーであるため、エリックの生育歴も気になるところだ。

また、アースラの目的が「トリトン王からの権力奪取」であることはアニメ版よりも強調されており、アースラがアリエルの「叔母」であることも明確にされているが、結局アースラとトリトンの間で具体的に何があったのかについては描かれていない。

さらに、アリエルとエリックがどのような過程を経て恋仲になるのかについては納得感のある描写があるものの、そもそも船から落ちて溺れそうになったのを助けただけで「運命の相手」だと思い込むあたりはやはりロマンティック・ラブの枠組みだなと感じさせられる。ただ、ロマンティック・ラブからの離れ難さがあるのはディズニーアニメ版以来の『リトル・マーメイド』という作品自体が持つ性質なので、この作品のリメイクである以上どうしようもない部分もある。むしろロマンティック・ラブにどうしても拘束されてしまうこの作品のなかでできる限りの試みを行なった意欲作だと評価することもできるだろう。