Text by 吉田薫
Text by 生田綾
6月2日に公開された是枝裕和監督最新作『怪物』。5月に開催された『第76回カンヌ国際映画祭』でクィアパルム賞を受賞した本作は三部構成となっており、三部では物語の中心人物である湊(黒川想矢)の視点から、湊と依里(柊木陽太)の同性愛的な関係性が描かれる。
「性的マイノリティの子どもたちを描く」ということに是枝監督はどう向き合ったのか、ラストに込めた考えなどについて、インタビューで聞いた。
※インタビューは5月22日(月)に実施。本記事は、作品のラストについて言及しています。
―5月18日の『第76回カンヌ国際映画祭』の会見で記者からLGBTQのテーマについて質問があった際に、監督は「そのことに特化した作品だと自分としてはとらえていない」と答えていました。ただ本作を見て、私としては、この作品は性的マイノリティの子どもたちの物語だと思いました。彼らの葛藤や感情の揺らぎの根幹にはアイデンティティがあると感じたからです。あらためて監督の考えを聞きたいのと、性的マイノリティの子どもたちが本作のひとつのテーマだとしたら、このテーマについてどのように考えているか、どう向き合ってきたかをお聞きしたいです。
是枝:これは非常に丁寧な説明が必要なので、ちゃんと説明しますね。
まずプロットの段階で、主人公の少年ふたりが抱える葛藤についてはとても慎重に扱わないといけない題材だというのは、認識として持ちました。プロデューサーと相談しながら、性的アイデンティティに悩みを抱えるLGBTQの子どもたちの支援をしている団体のRebitの藥師実芳さんに出会いまして、台本を読んでいただいて、描写として気になるところはないか、また子どもたちにこの役を演じてもらううえでどういうアプローチが安全かということなどを相談させていただきました。
ちょっと言い方が難しくなりますが、もちろん本作は性的マイノリティの子どもたちを扱った映画だと思っています。ただ、いろいろとレクチャーをしてもらうために来ていただいた際に、「湊や依里が自分のことをゲイだと認識しているのかどうかで描写は変わってくるのでそこは決めたほうが良い」というアドバイスをいただきました。僕としては、ゲイの少年の物語だとするとこういう描写はないとか、リアリティに欠けるのではないかとか、そういうアドバイスをもらおうと思っていたのだけれども、お話を伺って、彼らが自分自身をまだ名付けられていない。だからこそ「怪物」だと思い込んでしまうという設定が今回はふさわしいのではないかと考えるに至りました。
『怪物』©︎2023「怪物」製作委員会
是枝:撮影にあたってスタッフも集まって2回に分けて3時間くらいの勉強会を開いて、子役の2人にも、男の子が男の子を好きであることは決して不自然なことではないんだということを伝えていきました。湊と依里の心のなかで何が起きてるのか、はっきりとは描写しませんでしたが、身体的な変化も含めてどういうことが起きうるのかを事前にレクチャーをして、ふたりにも理解してもらったうえで撮影に臨み、現場にはインティマシー・コーディネーターに入っていただいて、極力心の安全を図りながら撮っていきました。
いつもは役づくりのうえで役者の個性に乗っかったかたちでキャラクター描写をしていくことが多いんですけれども、今回はそれをやると危険だなと思ったので、湊と依里という存在を自分の外側に一緒につくっていきましょうという方法で、子役たちと役づくりを行なっていきました。
―作中には父親が依里を「矯正」しようとするなどすごくつらくておぞましいシーンもあります。直接的な差別も描かれるし、「男らしさ」のような無意識的な加害性みたいなものも描かれていて、これは現実に起きていることだと思いました。是枝監督は、当事者の人たちがいまの社会で置かれている状況をどういうふうに考えているかもお伺いしてもいいですか?
是枝:この作品で描かれている少年たちのような状況に置かれている子どもたちも多くいるんじゃないでしょうか。依里の父親の行為というのはもちろん全否定されるべきだと思いますけれども、そうでなくても、湊の母親の「お父さんみたいに」「普通の家族」という言い方だったり、学校の担任の先生が使う「男らしく」という言葉が、彼らに対して存在を否定するぐらい抑圧的に働いてしまうという状況が、この映画のなかにも描かれています。むしろ早織や保利先生の口にする「善意」や「励まし」として口にされる言葉が、映画を観ていくとその意味が変わっていくという構成が大切だと思いました。
早織や保利のほうが、観客のスタンスには近いんじゃないかと思っています。だから、自分のなかに気づかずにしてしまっている言動があの少年たちを追い詰めていくという目線と価値観のある種の抑圧が、少年たちを自分自身を「怪物」だと思わせてしまうということがこの物語が描いている一番の本質だと思います。
坂元さんも製作陣もそうだと思うけれど、少年たちが置かれている現実の状況がそういうものだという認識のもとに、それでも彼らが自分たちなりの幸せを手にしていいのだということ、気持ちを表明していいのだということを、そうできた子どもたちを祝福したいという思いが僕らのなかにはあったから、ああいった結末として描き、そして最後の坂本龍一さんの“Aqua”につながっていくというイメージをしていました。
『怪物』©︎2023「怪物」製作委員会
是枝:自分たちがじつは加害した側だったのだということに、母親と担任の先生が最後に気づきますけど、もちろん気づいたことや追いかけたこと自体は正しいと思うけれども、でも届かない。少年たちが大人たちの手をすり抜けてふたりの幸せを手にしたということのほうが、むしろ大事なのかなと思うんです。その部分は脚本を練るなかで、僕も坂元さんもずっと変わりませんでした。その着地点が現実的にどういうものなのかはともかくとして、坂元さんと僕は、ふたりが大人の手をすり抜けて笑い合っているっていうことだけは、見失わないようにしようと思っていました。
だから、何だろうな、難しいんだけど、生まれ変わらない世界が彼らに置き去りにされる結末にしようということですね。僕らがちゃんと生まれ変われるのかどうか、ということが問われている。だから、「当事者」でないつくり手たちが作品をつくるうえで、僕らがどのように気づくべきなのかということを、ちゃんと描かないといけないと思いました。それこそが、「当事者」でない人間が当事者としてむしろやるべきことだと思ったんです。
なかなかこういった話をするのは難しくて、作品を見た方が右往左往しながら誰が怪物なのかと探した挙句、自分だったのだと気づかないと、つくった側の思惑や意図が伝わりにくいと思っていて。逆にいうとその気づきを奪ってしまいかねないなと思って、僕も中途半端な口幅ったい言い方をしてしまい、反省もしているんですが、できるだけあまり作り手の前情報を入れずに見てほしいというのがありました。
すごく僕らとしても考えた末につくった映画ではあるので、もちろん批判も含めて、こういうところが足りないとか、あらゆる意見を真摯に受けとめたいと思っています。