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「ライバルは三次元」。『劇場版アイドリッシュセブン』はいかに「虹(二次)を超える」のか?

2023年06月16日 12:10  CINRA.NET

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Text by 後藤美波
Text by 上岡磨奈

人気アプリゲーム発のコンテンツ『アイドリッシュセブン』(通称『アイナナ』)初となる映画、『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD』が5月20日から公開されている。

現在までに興行収入8億円を突破している本作は、ストーリー部分を排して、作中に登場するアイドル4組によるライブ映像のみで構成される「劇場ライブ」という形式をとる。観客はアプリで展開されたシナリオ第6部と地続きの時間軸のなか、「レインボーアリーナ」という会場でライブを行なうアイドルの姿を目撃する。メンバーカラーのペンライトを振ったり、アイドルに声援を送ったりすることのできる「応援上映」も連日行なわれている。

昨年7周年を迎えた『アイナナ』は、これまでも二次元コンテンツ発のアイドルが「実際に存在している」世界観づくりを重視してきた。立ち上げ時に「ライバルは三次元」を掲げていたこの作品は、その一つの集大成ともいえる『劇場版』で観客にどんな「ライブ体験」を生み出したのか? 生身の身体は持たずとも、ファンにとってはたしかに「アイドル」として存在する彼ら。それを成り立たせているものはなんなのか?

「ライブ」や「アイドル」というパフォーマンスの本質を問いかける、『劇場版アイドリッシュセブン』の「虹(二次)を超える」試みを考える。

近年、日々の生活において「アイドル」の姿を目にしない日はない。アイドルと呼ばれる芸能に特段の関心を持たずとも、テレビからスマートフォン、街中の看板、ポスター、大通りを通過する大型トラックの側面とありとあらゆる画面、メディアを通じて、アイドルの存在がそこかしこを埋め尽くしている。

群雄割拠するアイドルたちは歌いながら踊るなどのゆるやかな共通項を持ちつつも、ジェンダーもビジュアルもコンセプトもさまざまでいまや活動の場も限定しない。漫画やアニメ、ゲームのなかに描かれるアイドルも物語の世界との連続性を保ちながら、我々の日々に存在している。

アイドルに関連する内容に限らないが、二次元、三次元というジャンル分けは現在もエンターテインメントコンテンツにおいて有効であるものの、メディアなどの技術の発展に伴って、その境界は時にとても薄く感じられる。もともと「三次元」の世界に生まれたアイドルというパフォーマンスは、「二次元」の形式であっても、「三次元」の世界線に肉薄しているともいえるだろう。

アイドルというエンターテインメントが果たす役割、固有の魅力を見直すとき、その表現形式は次元を問わず多様であることを許されるように思う。「二次元」のアイドルが「三次元」に迫るとしたら、それはどういった手法で可能になるのだろうか。

2023年5月20日、『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD』が全国の映画館で公開された。本「公演」はアプリゲーム発のコンテンツ『アイドリッシュセブン』初の「劇場ライブ」である。

2015年8月にバンダイナムコオンラインよりリリースされた同作にとって、昨年からの1年間はタイトルおよび作中に描かれる7人組アイドルグループ「IDOLiSH7」(以下、グループとしての表記はIDOLiSH7、コンテンツとしての表記は『アイドリッシュセブン』)に因んで7周年を祝う特別な期間であった。7周年の、そしてここまでの約8年の歩みの集大成とでもいうべき位置付けにあるのがこの「劇場ライブ」だろう。

『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD』はセットリストの一部が異なる、<DAY1>、<DAY2>が公開されている

IDOLiSH7に加えてTRIGGER、Re:vale、ŹOOĻと『アイドリッシュセブン』に登場するすべてのアイドルが一堂に会する合同ライブという趣向で、映画館のスクリーンいっぱいに彼らのパフォーマンスが展開される。MCや転換、アンコールを含む約90分のステージには、この「ライブ」に関わるすべての人の並々ならぬこだわりを随所に感じる。

それは『アイドリッシュセブン』のリリース当初、IP(知的財産、Intellectual property)統括プロデューサーであった下岡聡吉(現エグゼクティブプロデューサー)がライバルは「三次元かもしれない」と語ったように、本作が兼ねてより突き詰めてきた「三次元」に迫る部分なのだろう。

また下岡は、「劇場ライブ」の制作について「今回創ったのは『ライブである』」という点が通常のストーリーアニメとの違いと語っている(*1)。『アイドリッシュセブン』というコンテンツの一部でありながら、ライブエンターテインメントとして独立して成立する、一つの音楽ライブの制作にも近いだろうか。そこでは「『観客の前でいまこの瞬間を感じる』というパフォーマンス」が重視されている。

観客にとってライブとは何か。

ライブにおいて我々は、ある種の没入体験を得られるともいえる。本作においてもパフォーマーであるアイドルをまなざしながら、音楽の流れる時間をほかの観客とともに過ごすという感覚はライブ的で、身体的に味わうその空間には、まさに三次元的な奥行きを感じる。セリフや演出、ステージ装置の造り込みなどによって、アイドルたちの存在を実感しつつ、劇場で実際に空間も時間も体験も共有する人々によってその感覚をよりはっきりと得る、というところだろうか。応援上映や高音質の劇場上映は、もちろんそのライブ感を強める。

本来、「二次元」作品が有する特徴は複製可能性であり、複製技術の登場、発展について「いま・ここ」という一回性が剥ぎ取られている様を指摘したのが20世紀の哲学者ヴァルター・ベンヤミンである(*2)。しかし、観客にとっての「いま・ここ」をリアルタイムに共有しているかのような「劇場ライブ」の見せ方は、現代において、次元の境界を限りなく薄く感じさせるのかもしれない。

下岡は「活き活きとしていること、そこに実在を感じることを重点的にしながら各ステージ演出が最も映えるようにと思って制作されています」と続ける(同上)。ベンヤミンは「いま」、「ここに」いるという一回性について人間との切り離せなさを述べたが、体験する観客にとってその時間が複製不可能であるとするならばこうしたイマーシブな体験は、「二次元」であっても一度限りのライブという一回性を獲得するだろう。

『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD』よりIDOLiSH7

さらに、香月孝史は「アイドルの自意識、より広く表現すればアイドルのパーソナリティが享受対象となること」が今日的なアイドルの「共通項」であると提言したが(*3)、それに先んじて岡島紳士・岡田康宏は『グループアイドル進化論 ~「アイドル戦国時代」がやってきた!~』(毎日コミュニケーションズ)で、「アイドルは最終的に人に価値があるのが強みであり、それはライブやコミュニケーションの体験と同様に現代の技術では複製ができない」と指摘している。

「二次元」のアイドルについて、パーソナリティーを論じるのは無粋かもしれないが、物語を通じて紡がれてきたアイドルの存在感について検討するならば、それは唯一無二と言っても差し支えはないのではないか。そういった意味では、物語をベースにした「二次元」の存在は、アイドルという芸能と相性がいいともいえる。

『アイドリッシュセブン』は、アイドルの存在を実感できるような仕掛けをこれまで数多く打ち出してきた。

2017年に開催された『アイドリッシュセブン VISUAL BOARD TOUR 2017』では、日本全国7都市においてご当地バージョンの「撮り下ろし」ポスター、ローカルCMが公開され、IDOLiSH7のメンバーが各地の名所や飲食店を訪れる様子も見ることができた。

公式SNSには「オフショット」もアップされ、メンバーたちが実在する飲食店で食事を楽しみ、サインを残していく姿を見たファンは、各店舗をめぐって実際にサイン色紙を見たり、彼らの座った座席で同じメニューを楽しんだりすることができた(なお、いまも営業中の店舗については現在も「聖地巡り」が可能である)。

また2018、2019年には、株式会社ジェイアール東海ツアーズが展開するキャンペーン「OFF/旅キャンペーン」の広告タレントにIDOLiSH7が起用され、特製の旅行パンフレットを片手に、同じく彼らの旅先での道程を辿ることができた。

しかし、ライブという観点では2018年にVR ZONE SHINJUKUで開催された『IDOLiSH7 PRISM NIGHT』がその一歩であっただろうか。同イベントは、二次元キャラクターに「会える」ことをコンセプトに行なわれたVRライブイベント『CG STAR LIVE』の第一弾であった。

プレイガイドで「ライブ」のチケットを購入し、集合時間に整理番号順に呼ばれて列をつくり、開場の時を待つ。会場の入り口にはメンバー宛のファンレターボックスが用意されている。会場内に入ると同時にステージ前の柵を目掛けて先頭の客から小走りに進み、お目当ての場所を陣取る。そこにあるのは、ライブゴーアー、アイドルファンにとってはお馴染みの、まさに「いつも」のライブの風景であった。

開演時間が近付き、「メンバー」による場内アナウンスが流れる。撮影禁止などの耳慣れた注意事項。そしてフロアの客電が落ち、IDOLiSH7のメンバーがデビュー曲“MONSTER GENERATiON”とともにステージに姿を現す。

その場に彼らが「居る」という手応えは、決して二次元の存在である彼らが、ということではなく、憧れの存在でどこか実在しないように思えていたアイドルが目の前に現れたというライブの感覚そのものである。アンコールまで含めて約50分ほど、観客は『アイナナ』世界の住人として、彼らはそこに存在するアイドルとして、同じ時間を過ごすことができた。

このイベントが試金石であったかは定かではないが、その後も彼らのパフォーマンスを体感する機会がさまざまなフェーズで提供された。

2018年から続くアニメシリーズ内での数々のライブシーン、2019年からスタートした「ナナライ」と呼ばれる声優によるパフォーマンスライブなど、「劇場ライブ」につながっていくライブの要素は、視聴者を観客を、『アイドリッシュセブン』のつくりだすライブ空間へと誘うものであった。

2021年にはVR第二弾としてTRIGGERが出演する『TRIGGER PRECIOUS NIGHT』が開催。2022年8月の7周年イベント『アイドリッシュセブン 7th Anniversary Event “ONLY ONCE, ONLY 7TH.”』では、冒頭にアイドル4組それぞれによるパフォーマンスが各1曲披露され、このパフォーマンスは、2023年5月の展示イベント『アイナナEXPO』でも再披露された。

アイドルの存在を実感できる、これはライブの一つの醍醐味であろう。そして、そこにともに在る自分の存在を認めることでその体験はより立体的なものとなる。

「劇場ライブ」の演出では、映画館で鑑賞する観客は、このライブが行なわれているレインボーアリーナにいるようでも、ライブビューイングやストリーミング配信でライブを観ているようでも、はたまた「神の視点」でライブの進行を俯瞰で眺めているようでもある。VRや「ナナライ」、『EXPO』のように自分が唯一無二の観客の一人であることを実感できるような構成ではないのだが、レインボーアリーナを埋め尽くす観客に自分を重ね合わせることで、このライブの鑑賞体験のリアルタイム性を獲得できるともいえる。

ネットジャーゴンとして、メディアのなかに熱心なファンや観客の姿、いってしまえばオタク的な記号として描かれる何かが登場するとその姿を「俺たち」と呼ぶことがある。画面の向こうの「俺たち」の姿や声は、単に「劇場ライブ」をリアルに見せる演出ではなく、画面のこちら側とリンクさせる役割を持つ。

『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD』よりTRIGGER

『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD』よりRe:vale

そしてアイドルたちのパーソナリティーに直に触れることができるのも、アイドルのライブに特徴的な魅力だとすれば、歌やダンス、トークなどのパフォーマンスから感じられる彼らの体温はライブに欠かせない。

『アイドリッシュセブン』のこれまでの「次元を超える」数々の試みにおいても、アイドル本人のパーソナリティーはつねに優先して表現されてきたように思う。声優によるライブである「ナナライ」でも、多くの場面で各出演者がアイドルの人となりを尊重したパフォーマンスを見せてきた。1st LIVE『Road To Infinity』のMCパートでIDOLiSH7のメンバー・和泉三月役の代永翼が衣装を見せるにあたり、三月の気持ちを代弁するように「三月はかっこいいって言われたいんだ」とポロッと言葉をこぼしながら、可愛さよりもかっこよさを表現しようと立ち回る姿は印象的だった。

しかし、この場面にも象徴的であるようにアイドルのパーソナリティーを直に見せることができるのは、アイドルその人のみなのである。もちろん俳優としての声優は、アイドルの人生や心情の表現者である。しかしアイドルのパーソナリティーそのものは当然アイドル本人に結びついている。

「劇場ライブ」では、アイドルたちによるMCも行なわれたが、そこではアプリやアニメ、これまでのライブイベントでは見る機会の少なかった「観客の前でのアイドルたちのおしゃべり」、その一端を示すような時間がつくられていた。

もちろん限られた時間のなかで「おしゃべり」というには十分でない内容、どちらかといえば台本に沿ったタイプのMCともいえる部分も少なくなかったが、その台本についても観客はアプリ内で公開されたライブの前日譚を描く特別ストーリーなどを通じてこのライブの制作秘話に触れることができるため、いずれもアイドルたちの言葉がベースになっていることを認識できる。アイドル同士の関係性がお互いの目配せや、相槌、小さな声掛けなどからも窺い知れるのも、ライブらしい側面だ。

アイドルは時にハイコンテクストなカルチャーであってパフォーマーの人となりや、アーティストの背景などの前提となる「物語」を知らなければ楽しむことができない、とされる。もちろん音楽やコンサートなどの作品自体を単体で味わうことも可能だが、誤解を恐れずにいえば、いろんな視点で深掘りすることのできるコンテンツであることは確かであり、その点でファン以外を遠ざけるきらいはあるのかもしれない。

じつは「劇場ライブ」では、ライブ中、「出演者」16人それぞれの自己紹介の時間がほぼない(スクリーンにデザイン的にうっすら描かれているのみ)。そういった意味で確かに前提知識を必要とする点もアイドルのライブらしいとこじつけよう。

『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD』よりŹOOĻ

唯一無二のアイドルと過ごす時間、それはどのような形式であっても観る人に刺激や活力を与えるという点で、「次元」を問わず、人々を惹きつける。もちろん『アイドリッシュセブン』に限らず、数多くの「アイドル」とそのさまざまな次元を超える試みに同様の議論が可能だ。

ライブによってもたらされる現在進行形の感情は、自分自身の身体を伴うリアルさによって、決して触れることのできないアイドルの身体との時間と空間の共有を生み出す。そのライブ性によって紡がれる観客一人ひとりの感覚は、次元を超えるといえるかもしれない。

『BEYOND THE PERiOD』、「終わりの向こう側」とIDOLiSH7のメンバー・六弥ナギによって命名されたステージには、さまざまな「向こう側」が託されている。画面の向こうに存在するアイドルたちが、生身の身体こそ持たないものの、確かにそこに存在すると体感する、その見せ方の一つひとつは、観客にライブやアイドルというパフォーマンスの本質を問いかける。

公演の前日譚「満天の星にかかる虹」のなかで、同じくIDOLiSH7のメンバーである七瀬陸は「早くライブの日が来てほしい! でもまだまだ準備したりない! いつも、そう思う! それがまた楽しくて、カレンダーを見ながら、ずっと、わくわくしてる」と公演当日を待ち遠しく思う気持ちを語っていた。「きっと、ファンのみなさんも、同じ気持ちですよ。カレンダーを眺めて、同じ日を待っている」と返すメンバーの和泉一織。同じ時間を共有する多幸感、そのかけがえのなさを実感する時間の旅こそが「アイドル」の醍醐味かもしれない。