Text by 山元翔一
Text by 岩井莉子(LAUSBUB)
Text by ピエール瀧
いまから45年前、1978年にデビューしたYellow Magic Orchestra(YMO)は、翌1979年にアメリカの大手レーベル「A&M Records」から1stアルバムをリリースした。このUS版1stアルバムには、国内版1stアルバム(1978年)とは異なるミックスが施されたことに加え、独自の、非常に象徴的なアートワークも作成された。
扇子を手に、顔の半分を覆うほど大きなサングラスをかけ、頭からはメデューサを想起させるカラフルなケーブルが伸びた芸者……ジャケットに描かれた鮮烈なモチーフ「エレクトロニック・ファン・ガール」(通称・電線芸者)とともに、YMOは世界に広まっていくことになる。
そのエレクトロニック・ファン・ガールがあしらわれた金屏風が今年3月、音楽レーベル「U/M/A/A Inc.」の設立20周年プロジェクト『TechnoByobu』の第1弾プロダクト「Electronic Fan Girl (TB-01) 」としてお披露目された。
なぜYMOのアートワークが金屏風に? そこに見出せる意味とは? そんな根本的な疑問に向き合うため、本稿ではDOMMUNE宇川直宏へのインタビューを実施(※)。加えて、ピエール瀧(電気グルーヴ)と岩井莉子(LAUSBUB)にYMOのサウンドやビジュアルイメージについて、それぞれの視点で寄稿してもらった。
【編集部より】
2023年1月、そして4月、Yellow Magic Orchestraのメンバーである高橋幸宏さんと坂本龍一さん(※)の訃報が立て続けに世界中を駆けめぐりました。本稿は当初より両氏の追悼記事として企画していませんでしたが、今回参加いただいた3名はそれぞれさまざまな思いを抱えていると想像します。僭越ながら、ここに代表して両氏への哀悼の意を表します。
テキスト:ピエール瀧(電気グルーヴ)
自分が最初にYMOにハマったのは1979年、小学6年生の頃だった。
ラジオで聴いた“TECHNOPOLIS”や“RYDEEN”に「えも言えぬ」衝撃を受けた自分は、親がプールしてくれていたお年玉の一部を速攻で銀行からおろし、2ndアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を買ってきて、とにかく聴きまくった。
ピエール瀧(ぴえーる たき)
1967年4月8日生まれ、静岡県静岡市出身。AB型。1989年に石野卓球らと電気グルーヴを結成。電気グルーヴでのパートはVocal / Taki。音楽活動のほか、プロデュース業やタレント業、漫画原作、ゲームや映像制作など、ジャンルを問わず幅広く活躍。俳優・声優としての活動も多く、さまざまなドラマ・映画に出演。
その後、当然の如くKraftwerkとも出会った自分は、電子楽器が奏でる呪術的な音楽によって脳の中心を貫かれるという強烈なイニシエーションを経験し、現在までその状態は続いている。どちらのバンドも思春期の自分を形成するうえで重要なバンドであることは間違いないが、自分のなかでの両者の違いは明白にある。
YMOにあってKraftwerkにないモノ、それはアジア感。Kraftwerkのレコードを聴きながら心に描いていた風景はヨーロッパのそれだった。ドイツの滑らかで清潔な高速道路だったり、馴染みのない牽引車が導く鉄道の車窓だったり、数字とコマンドが徹底管理する帝国だったり……。無機質な抽象画のように、洗練された限りある音数が繰り返されるラインは緑色のワイヤーフレームのCGのようにそれらを形づくっていた。
対してYMOのそれは、極彩色の漢字ネオン瞬く雑多な巨大ビル群だったり、コードが剥き出しの見たこともない端末を操る路地裏の少年だったり、水溜りと水蒸気を纏ったエスニックな空気の湿り具合のイメージだったりした。それらのイメージが、情緒的且つ有機的な旋律と、俯瞰で見た混沌アジアのポップなビジュアルでトータルに表現されていた。
当時の自分は、電子音楽やコンピューターがもたらす未来感やインテリジェントな市民感は、欧米が主役の話だと勝手に決めつけていた。しかし、「極東アジアにもテクノロジーによる近未来の福音はもたらされる」とアナウンスしてくれたのはYMOだった。
さらにそのイメージを、「外側から見たアジア」という観測点を絶妙に用いて、アイロニカルを先回りしたような足場からポップアートにまで昇華させて提示してくれたのだ。そんな特異なアプローチを喰らったために、当時田舎でティーンエイジャーだった素朴な自分なんかはあっさりと秒殺&即死状態だったのである。
結局YMOはいまでも聴いている。40年以上の時を経て、なお聴き続けることになるバンドだとは当時気づいていなかった。そんな時代を代表するバンドに、思春期にリアルタイムで遭遇できたことをとても幸運に思っている。
テキスト:岩井莉子(LAUSBUB)
私のYMOとの出会いは、中学生の頃にたまたまYouTubeで見た“RYDEEN“のミュージックビデオでした。生まれて初めて意識して聴いた、アナログシンセサイザーによるソリッドでツルツルとした音色が全面に押し出された楽曲に衝撃を受けました。その体験は、私がYMOをはじめとする電子音楽にのめり込み、アナログシンセサイザーを使って曲をつくりはじめるきっかけになりました。
岩井莉子(いわい りこ)
2003年生まれ、北海道出身。ニューウェーブテクノポップバンドLAUSBUBの作曲、アレンジ担当(写真向かって左)。2020年3月、北海道札幌市の同じ高校の軽音楽部に所属していた髙橋芽以とLAUSBUBを結成。2021年1月18日、Twitter投稿を機に爆発的に話題を集め、SoundCloudで全世界ウィークリーチャート1位を記録。2022年11月、初のフィジカル作品『M.I.D. The First Annual Report of LAUSBUB』をリリースした。
今回『TechnoByobu』として生まれ変わったUS版1stアルバムのジャケットを初めて見たときは、当時ワールドツアーの映像を何度も繰り返し見ていたせいか、メインの肖像である「エレクトロニック・ファン・ガール」が、ステージ上で飛び跳ねながらシンセサイザーを弾き、歌う矢野顕子さんと重なりました(US版で“Yellow Magic (Tong Poo)”に加えられたボーカルは吉田美奈子さんによるものですが……)。
中古レコード屋で初めて実物のLPを手にとった際には、前景に堂々と佇むアイコニックな電脳芸者、「エレクトロニック・ファン・ガール」のモチーフと、彼女の頭部を起点に12インチをはみ出すようにのびのびと図像左右に広がったケーブルから、それまでスマートフォンなどの小さな画面で見ていた同一のジャケット画像とは明らかに異なる迫力を感じ、驚きました。
レコードで見る「エレクトロニック・ファン・ガール」はパースの狂ったサングラスと、まるで彼女が実在しているかのように感じる血色のいい芸者の写真、何本ものケーブルによるスケールの違いが生み出す妙なバランスのせいか、50mほどの巨大な存在が縮小されて手元にあるように感じました。
また、日本版オリジナルジャケットの小型ゲーム機や煙草、ソファなどの「モノ」と彫刻的な背景によって構成されたシュルレアリスム的表現とは打って変わって、US版では欧米から見た東洋のイメージとコンピューターとの邂逅、その近未来的な音像が的確なビジュアライゼーションを経て、一人の「ヒト」に平面的に集約され、作品やバンドのアイコン、または偶像として世界中のリスナーに提示されています。あえて当時のステレオタイプな日本のイメージを、自ら堂々と打ち出すことで達成された世界共通のわかりやすさに、US版として改めてパッケージングされた意義があったのではないかと思いました。
『TechnoByobu』に起用されたYellow Magic OrchestraのUS版1stアルバム『Yellow Magic Orchestra』のアートワーク(ALFA MUSIC,INC./ Sony Music Labels Inc.)
私は、これまで自分のシングルジャケットのアートワークにおいて、あらかじめひとつの具体的なテーマを定めて楽曲と歌詞を制作し、そのテーマをメインの要素として写真やグラフィックに取り入れることがほとんどでした。しかし、前作のEPでは全体の音像からのイメージをジャケットに反映させたため、抽象的な仕上がりになりました。
過去のシングルジャケットと比べて、私たちを知らない人に手にとってもらったり、再生してもらったりするきっかけや決定打の不足を自分のアートワークに感じ、「エレクトロニック・ファン・ガール」のように自分たちにとってメインとなる像やアイコン、テーマの存在の重要さに気づきました。
作品を聴いてくれる人とのファーストインプレッションのコントロールを可能にするジャケットアートワークにおいて、私もいつか、YMOのようにキャッチーさとクールさを兼ね備えた、音楽とまるでかるたのように一致するビジュアルアプローチを同世代のアーティストやデザイナーにも協力してもらい、実現させたいです。
45年前にYMOが提示した未来(テクノ)と「エレクトロニック・ファン・ガール」のイメージを改めて客観的に見つめなおしたとき、私は、ついに来なかった近未来と東洋の融合に関する、現代が抜け落ちた理想像が一貫して表現されていると思いました。
それは日本の過去と、45年が経ってもまだ訪れないずっと先の未来のイメージを内包したまま、音楽やグラフィックをはじめ、映画『ブレードランナー』(1982年)の巨大なビル広告に登場する芸者やアニメ『攻殻機動隊』の電脳芸者、『serial experiments lain』(1998年)などの、数えきれないほど多くの東洋・日本と近未来のモチーフが登場する作品やサイバーパンクなどのジャンルに影響を与え、その理想像は未来を追う現代の表現において、いまこの瞬間も国内外、年齢を問わず伝染し続けていると思います。
「エレクトロニック・ファン・ガール」の頭部から飛び出したカラフルなケーブルは1979年以降、世界中の人と音楽、文化を巻き込んで絡まり、広がり続けたケーブルの先の電極はきっと私にも接続されているのでしょう。
ーまず、宇川さんがYMOと出会った当時のことを教えてください。
宇川:最初の出会いは『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』(1979年9月25日発売)でした。『テクノポリス』(1979年10月25日発売)が出たときから、YMOは小学校の放送部でかかってて。というか、かけてたのは自分なんですけど(笑)。
宇川直宏(うかわ なおひろ)
1968年香川県生まれ。現”在”美術家。映像作家、グラフィックデザイナー、VJ、文筆家、大学教授など、80年代末より、さまざまな領域で多岐にわたる活動を行なう。2010年、日本初のライブストリーミングスタジオ兼チャンネル「DOMMUNE」を個人で開局。宇川はDOMMUNEスタジオで日々産み出される番組の、撮影行為、配信行為、記録行為を、自らの「現在美術作品」と位置づける。10年間に渡って配信した番組は約5000番組/約12,000時間/200テラを越え、トータル視聴者数1億人を超える。2019年、リニューアルした渋谷PARCO 9Fにスタジオを移転。「SUPER DOMMUNE」に進化し、5G以降の最前衛テクノロジーとともに未来を見据えたアップデートを図る。2021年、『第71回芸術選奨文部科学大臣賞』を受賞した。
宇川:YMOは1980年に『増殖』(1980年6月5日発売)で当時の小学生のあいだでもかなりバズったのですが、ここにスネークマンショー(※)が参加していたことが時代背景的には超重要ですよね。
スネークマンショーはウルフマン・ジャックに対抗したラジオコメディですけど、当時ブーム化した漫才が『THE MANZAI』(1980年~1982年にかけてフジテレビ系列で放送されていたバラエティ番組)とアルファベットに読み替えられて、お笑いがニューウェイビーになっていった時代だったんですよね。そこに重なってテクノポップ・ブームは小学生のあいだでものすごく広まっていった。
宇川:そして1980年の『ライディーン』(1980年6月21日発売)の大ヒットが決定打となり、あの3人は国民的アイドルになるのですよね。国民的アイドルってどういうことかというと、列島全域の老若男女の人気を得たって意味ですね。当時、ボーカルを主体としない電子音楽が普通にオリコン1位(*1)になったのは歌謡史的な事件でもありました。
―田中雄二さんの大著『シン・YMO』では、YMOが出演する富士フイルムのCM(1980年3月~)で“TECHNOPOLIS”が起用されたことも小学生のあいだで爆発的なYMO人気が巻き起こった要因のひとつとして記述されています(*2)。
宇川:そのとおりです。1979年にウォークマンが発売されたその翌年ですから。1979、80年ってあらゆるパラダイムが塗り替えられた時代で。たとえば77年に台頭したパンクは78年に先行きを見失い、79年にはもうポストパンクのトレンドが広がっていったんですよね。
僕、テクノポップはポストパンクの一環として見てたんですけど、当時を振り返ると、1980年に小6にあがったタイミングで自分の通っていた古高松小学校は12クラスを超えちゃって、古高松南小学校っていう分校ができたんですよ。つまり完全に新設で最新設備を搭載した小学校に転入したということです。
これが僕にとって人生の完全な分岐点で、本質的な意味でのテクノロジーとの出会いでした。そう、最新のビデオテクノロジーが小学校に導入されたわけです。校内にケーブルテレビネットワークが張り巡らされ、放送室から校内テレビ放送が毎日できるようになった。やばいでしょ。編入したから最初から小6で、そのうえ放送部の部長だったから、もうビデオデッキ使い放題、ターンテーブルでレコードをかけて校内放送し放題。
―いま宇川さんがやってることと変わらない(笑)。
宇川:そうそう、全然変わらないですよね。振り返ってみたら小6のあの放送部がDOMMUNEの原点なんですよ。いとこのアキラ兄ちゃんに教え込まれて、ポストパンクを知っちゃってる小学生だったんで、YMOだったり、プラスチックスだったり、もしくはPILだったり、そんなもん昼からかけてました。
宇川:ただ厳密にいうとポストパンクって言葉は当時なくて、「ニューウェーブ」というワードを通じて1980年の古高松南小学校でも広まっていました。テクノポップ、『THE MANZAI』、あとはデジタルウォッチ、LSIゲームもニューウェーブでしたね。
―その1980年当時の「ニューウェーブの感覚」というのは「来たる未来の感覚」みたいなものだったりするんでしょうか?
宇川:フューチャリズムを語るなら、まずSFブームが先にありました。アーサー・C・クラーク(『2001年宇宙の旅』ほか)やフィリップ・K・ディック(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ほか)が読まれ、70年代の公害問題や、石油シヨックの裏で、冨田勲先生がシンセサイザーを駆使して制作したアルバム『月の光』を出したのが1974年。
1977年に『スター・ウォーズ』(※)が公開され、シンセサイザーはその文脈と連なりのなかで注目されていました。それ以前に大阪万博が1970年に開催されましたが、その時代の電子音楽はシンセ以前でした。そんななか、1978年に新しい波が到来した。その筆頭が、YMOというニューウェーブだったんです。
宇川:「第4のYMO」と言われた松武秀樹さんがもともと冨田勲先生のお弟子さんで。
細野晴臣さんは『月の光』を聴いて大きなヒントを得て(*3)、『COCHIN MOON (コチンの月)』(1978年9月21日発売)をつくり、そしてマーティン・デニーがやっていたエキゾティックミュージックとジョルジョオ・モロダー、Kraftwerk譲りの電子音楽をかけあわせる、という構想からYMOの1stアルバム(日本盤は1978年11月25日発売)が生まれていった(※)。なので、一方には確実にSFブーム以降の冨田世界とクラウトロック、そしてディスコのコンテクストが走ってるんですね。
―宇川さんって、電気グルーヴの2人と同い年なんでしたっけ?
宇川:卓球さんと瀧さんが1学年先輩ですね。
―ピエール瀧さんが、当時『ビックリハウス』や『宝島』を読んで感じた東京のイメージにYMOがハマったとおっしゃっていたり、石野卓球さんがそんな瀧さんに対して「憧れの都会の象徴って感じでしょ。だって呉服町(編注:静岡の繁華街)でもう“TECHNOPOLIS”流れてたでしょ、頭のなかで。『TOKIO』っつってんのに」とやりとりしてる動画がありまして。
宇川:面白すぎる!(笑) 当時は、広告やコピーラティングすらもニューウェーブだったってこともあって、まさに当時渋谷区のタウン誌として刊行されていた『ビックリハウス』、そして『宝島』がつくった東京のイメージは確実に地方に住む者たちを翻弄していました(笑)。ただやっぱり静岡って本州だし、東京と地続きだからまだまだ都会だし、呉服町から直通でテクノポリスへの憧れを持てたんだと思うんですよね(笑)。
宇川:だけど僕らは香川県高松市で、当時はインターネットどころか、瀬戸大橋でさえ開通されていなかったから、連絡線に乗らないと本州へすらたどり着けない(笑)。なのでヨーロッパやアメリカと同じように本州は完全に異国だった。だからもう東京もロンドンもニューヨークも、ベルリン、パリ、サンフランシスコも同じように並列にエキゾ目線で眺めていた勢いで(笑)。
YMOもニューウェーブトレンドのなかの東京のシーンっていう見え方でした。僕らは当時の高松市を「情報流刑地」って呼んでたんですけど(笑)、そうやって隔離された場所にいたから、情報こそが正義で、それを貪欲に求さすらい拡散することで地元のシーンを育み「個もメディアになれる」ってことを幼少期から自覚したところもあるんですよね。細野晴臣さん以前に、遣唐師であった空海先輩を師と崇める感覚というか(笑)。
―当時、瀬戸内海による隔たりはそれほど大きかったんですね。世界各地のニューウェーブと比較するなかで、YMOはどう見えていましたか?
宇川:やっぱり冨田勲先生の空気を継承していることは大きかったですね。YMOに続く「テクノ御三家」のP-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスってDEVOの遺伝子が組み込まれているのでロックでしたよね。
でもYMOはロックだとは思わなかった。やっぱりプログレッシブ、ディスコ、現代音楽のコンテクストを持っていたので。当時、世の中的にはフュージョンって括りたがっていたんですが、僕はこれこそが真性のニューウェーブだと感じていたし、そのなかでもよりプログレッシブなイメージ持っていました。
―1stアルバムのUS版(1979年7月25日発売)のジャケットを初めて見たときのことって覚えていますか?
宇川:最初の記憶ね……母方の親戚の寄り合いで、別のいとこのタケシ兄ちゃんが普通にYMOをかけてたんで、たぶん79年の年末にこのジャケを見ているはずです。
―そのときの印象で何か思い出せることってありますか。
宇川:重要なのはオープニングからゲームサウンドのリ・エディットが入っていたことですね。母方のおばあちゃんの家が結構でかくて応接間にドーンってあった家具調ステレオで、親戚が集まって1曲めの“コンピューター・ゲーム “サーカスのテーマ””を聴いた奇妙な空気をいまも覚えてて。
KISSの“Detroit Rock City”(1976年)が同じステレオから流れたときは親たちは顔背けてましたけど(笑)——あの曲にもエンジンかけて、急ブレーキかけて、事故死するまでのSEが入ってるんですが、YMOには誰も怪訝な顔ひとつしてなかった。
当時、『スペースインベーダー』が爆発的に流行していて、喫茶店のテーブルゲームだけではなく、デパートの一角とかにゲームコーナーがあって、とにかくゲームサウンドを高音質でしかも自宅で聴けるのが当時は感動的で。聴くたびに興奮してつねに2、3滴チビってました(笑)。
―宇川さんの当時の衝撃の大きさが伝わってきます(笑)。“コンピューター・ゲーム “サーカスのテーマ””は、もともと本物のゲームの音を一度録音したそうですが、それをボツにしてシンセサイザーでつくりなおしたそうです(*4)。ゲーム文化も内包する「ニューウェーブ」という言葉のもと、いろんな分野で価値観が塗り替わっていくタイミングで象徴的に現れたのがYMOだった。
宇川:そのとおりですね。
―YMOのニューウェーブ的な未来的な要素と両輪となる、エキゾは当時どんなふうに認識していましたか?
宇川:ニューウェーブ~プログレッシブの文脈でYMOをとらえていたんですけど、プログレってジャンルのようでいてジャンルではなく、先進的な音楽全般って印象を当時から持っていたんですね。
たとえばPopol Vuhと、NEU!って全然音楽性が違うじゃないですか。カンタベリーロックとシンフォニック、チェンバー、クラウトロック、それぞれまったく違う世界観ですよね。でもそれらをまとめてプログレと呼ばれていて、自分は、後づけで知ることとなるエキゾティックミュージックもプログレと同じ空気感でとらえていました。
マーティン・デニー自体もあとになって知ることになるんですけど、重要なのはどのエキゾチカも辺境の音楽を探求した果て、Moogを手に入れ、宇宙を表現している。まさにコズミックサーフィンですね。80年代末に井出靖さんとかヤン富田さんの活動を筆頭に、エキゾティックミュージック・リバイバルが日本でも起こって、細野さんが影響を受けていた世界観とか、モンド・ミュージック的なものとか、「Incredibly Strange Music」とかあの時代の音楽を、後々答え合わせしていった感じです。
宇川:そういうエキゾの文脈の再解釈と、当時の日本のバブル前夜の高揚感と、ポストパンクで革新的でニューウェーブな感覚が重なった、パラダイムシフトな空気を封じこめてプロデュースされていた総合的な世界観がYMOは決定的に新しかった。
世間的には冨田勲さんの活動で、電子音楽はもう広く浸透していましたけど、なかでもそこにさらにゲームカルチャーが接続されていたことが当時小学生だった自分たち世代には一番でかくて。それが後にYMOが子どもたちをも巻き込んだテクノポップ/ニューウェーブ世代のカルチャーアイコンになっていった起点だと思いますね。
YMOは進んで文化的な奥行きを見せようとしてたし、さらにはスネークマンショーや、果ては『THE MANZAI』ともコラボし、子どもたちの心も鷲掴みにするような求心力を持っていました。そのようにメディアとして機能していた佇まいがもう決定的にほかのアーティストとは違ったし、当時日本代表って感じがしていた理由は縦横無尽にメインとサブを行き来していたその活動の幅にあったと思います。
―なるほど、1980年当時における「ニューウェーブの感覚」の実態、そしてその影響力が少しわかってきました。
宇川:とにかく1980年、スネークマンショーとコラボレーションした『増殖』がテクノとコメディの共犯関係のような形でプロデュースされ、奇しくもヴァイラルマーケティングに乗っ取ったような方法で、列島全域を感染させていったことも決定的だったと思いますね。
これは先日のイベントで話したことですけど、横浜銀蝿(1979年9月結成)とYMOは、結成がかなり近い時期で、当時の先端キッズは、眉毛剃るか、もみあげ剃るかの選択を強いられた(笑)。しかしテクノカットのニューウェーブもリーゼントのツッパリも、当時みんな“RYDEEN”を聴いていたっていう(笑)。いま考えると「雷電」も「仏恥義理」もすごく隣接した「当て字のジャポニズム」を打ち出していたんだと思います。
―US版の1stアルバムのジャケットデザインは、宇川さんからどう見えるものですか?
宇川:もう完全に「電子音楽とエキゾチカの融合」っていう細野さんのコンセプトを完全に表現していて驚異すら感じますね。完全にコンセプトと戦略がハマってる感じがします。
先ほどもお話しましたが、マーティン・デニーの『Exotic Moog』(1969年)や、ディック・ハイマンの『The Age Of Electronicus』(1969年)もそうだったんですが、エキゾティックミュージックのコンポーザーは、宇宙開発の時代を経て、「異国」のビジョンが太陽系全域へと広がり、ロバート・モーグがモジュラーシンセを発表して以降、宇宙をテーマに電子音楽化していくんですよ。なぜかというと、世界中のあらゆる地域を夢想した音楽(=エキゾティックミュージック)の最果てが宇宙だから。電子音楽とエキゾチカの融合は1960年代末にすでにはじまっていました。
宇川:むしろYMOが決定的に新しかったのはディスコとオルタナティブカルチャーの接続ですね。先ほどから語っていることをまとめると、ビデオゲーム、ポストモダン、ニューアカ、『THE MANZAI』、コピーライティング、アートフィルム(ゴダール映画のタイトルを曲名にする行為)、DCブランド……ほか当時の日本の先端トレンドと、ディスコミュージックの融合がなされたってことが、YMOが80年代を代表するポップ・アヴァンギャルドなジャパニーズ・ニューウェーブ・アイコンに成り得た理由だと思います。
つまり夢想としての辺境の地や南国の楽園ではなく、当時の先端的都市イメージを極端に映し出したエキゾチカの逆張りだったわけです。つまりYMOは、クワイエット・ビレッジ(静かな村落)に対してのテクノポリス(高度技術集積都市)というエキゾチカだったんです。これはエクストリームなイージーリスニングの進化として地続きであったと言えます。
―なるほど。まさにビレッジからポリスへというか、辺境音楽から都市音楽としてのディスコミュージックを導入/実践した点も大きいと。細野さんは当時、ドナ・サマー“I Feel Love”(1976年)の作曲者で「ディスコの父」とも呼ばれるジョルジオ・モロダーに衝撃を受けたと語っているそうです(*5)。そしてそのアートワークは、「ニューウェーブ的なものとエキゾ的なものを融合させた日本発の音楽」として端的な表現だった。
宇川:そのとおりですね。具体的には、「マーティン・デニーのエキゾチックサウンドをジョルジオ・モロダー風のエレクトリックディスコ的なアレンジで行なう」というイメージでしたので、だからYMOの1stは完全にコンセプトの勝利だと思いますよ。
細野さんの初期プランは、「海外の視点から誤読された東洋のイメージ」でしたし、頭からケーブルが出まくったトンボの眼鏡をかけた松の柄の着物姿の芸者というイラストレーションには、革新的な20世紀末のジャポニズムを感じましたよ。
―YMOが所属していた「アルファレコード」のプロデューサー村井邦彦さんが言うには、ルー・ビーチが手がけたアートワークはアメリカでのリリース元のレコード会社「A&M Records」のアートディレクターのローランド・ヤングと若手スタッフからの提案によるものだそうです(*6)。
宇川:冨田勲先生の『月の光』のUS盤もジャケットはアメリカで制作されてて、主にクラッシックを中心に、Styxやウェルドン・アーヴィンのアートワークも手がけているデビッド・B・ヘヒトという「RCA」のデザイナーがディレクションしています。東洋人男性のイラストに、こいのぼりと松、虹が描かれていて、これもYMOのUS盤の1stとかなり近しいオリエンタリズムの文脈にあり、近い戦略で売られたと言っていいと思います。
東洋人を西洋のイラストレーターが描いたイメージとして比較すると、『月の光』はどちらかというと高度経済成長を遂げた日本の安定成長期の淡白さを感じますね。虹に附したこいのぼりからは澄んだ和音を感じ、第二次ベビーブームの到達点もイメージできます。
宇川:かたやYMOの1stはそこからバブル経済に向けての上昇を感じるので、リア充っぽい(笑)。そしてよりリベラルな記号が描かれていて、サングラスやケーブルから個人主義社会と、同時に少子化の入口すら感じる。とにかくグルーヴを感じますね。
―言うなれば、ちょっとファンキーというか。
宇川:そのとおり(※)。フィンガー5の晃がかけていたサングラスと同じなんで(笑)。因みに「塩沢ときグラス」とも言われます(笑)。ちなみに当時はまだファンキーって言葉が死語じゃなかったですね。
―このジャケットアートワークについてもう少し掘り下げると、1982年に公開された『ブレードランナー』(監督はリドリー・スコット)などのテクノ・オリエンタリズム(※)的な表象における、もっとも象徴的なモチーフとして見出すこともできるように思います。
宇川:そうですね。フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』イコール『ブレードランナー』的なデッドテックなイメージはこのアートワークからは感じないのですが「強力わかもと」的ではある(笑)。
あの芸者さんも韓国系アメリカ人が演じていますので、「誤読された東洋のイメージ」という意味では完全に重なります。またウィリアム・ギブスン的なサイバーパンクを考えると、後に『テクノデリック』(1981年)への道程としてニューロマンティックを極めていく傾向もありますし、確実に『ニューロマンサー』的ではあるので、テクノ・オリエンタリズムのイメージは背負ってると思いますよ。
YMOデビューと同時期、SONYのウォークマンも任天堂のゲームウォッチもリリースされているし、さきほどお話した「クワイエット・ビレッジ」に対しての「テクノポリス」というエキゾチカを考えると完全に重なっています。ただ『ニューロマンサー』の舞台は「トキオ」ではなく「チバシティ」なんですけどね(笑)。
―このアートワーク的なものが、現代でもなお「日本的なもの」の表象の代表格とする見方がある気もします。たとえば伊坂幸太郎が原作の映画『ブレット・トレイン』(2022年、監督はデヴィッド・リーチ)は日本を舞台にした映画で、「こんな感じの日本に対する認識ってまだ残ってるんだ」みたいにショックを受けるんですけど(笑)。
宇川:わかるわかる。「誤読され続ける20世紀末のジャポニズム」って意味ですよね。ただ『ブレット・トレイン』の誤読ってもっと巧妙でメタ誤読なんですよ。わざと間違えている(笑)。ワサビスナックと、スマートトイレと、ヤクザと、日本刀と「シズオカシティ」……。誤解を恐れずにいうと、これどれも海外目線でみたクールジャパンなんですが、わざと間違えることによって、いま世間的には「トンチキジャパン」と言われ、逆にそのエクストリーム性が喝采を浴びてる。
このグローバリズムの時代、ワールド・ワイド・ウェブの蜘蛛の巣が世界中に張り巡らされ尽くし、Google Earthで全世界がフラットに見渡せてしまう現代、重要なのは「魑魅魍魎」な「秘境化」だと思っています。なので、メタ誤読も経済戦略としては有効なんです。
宇川:YMOが1983年に散開し、3年後にバブル経済が訪れて、91年に弾けて以降、失われた30年として、経済成長は長期に渡り停滞していますよね。GDPは微増に止まり、株価低迷、DX推進ランキング29位、日本の国力はどんどん落ちぶれています。
この30年ほとんど物価は上がらず、そして円安の影響もあり、日本は現在、世界から見て将来もっとも行きたい国ナンバー1ですよね。インバウンド需要は大変重要なのですが、買い叩かれる国になったのは事実なので、それなら何を売っていけばよいのか? あらためて文化/観光資源を考えねばならない状況ですよね。
そこで振り返りたいのが、細野さんの活動理念の一つに「観光」があるということです。その『細野観光』(※)が、憧憬と、楽園と、東京と、彼岸と、記憶から成っていることは大変参考になると思います。もちろん、YMOはこのなかの東京に位置するのですが、はっぴいえんどはこのなかの憧憬に当てはめているわけですよね。
宇川:昨今のSNS/サブスク以降の世界的なシティポップトレンドも俯瞰しつつ、ヴェイパーウェーブや、プラットフォームにおけるAIのおすすめのアルゴリズム、またインフルエンサーの後押しも含め、シティポップはグローバルなステージに引き上げられたわけですよね。この現象を例にとるまでもなく、日本は、誤読や誤配だけではない、観光振興に直結したオルタナティブカルチャーの可能性を再度とらえなおさないといけない時期でしょう。
―シティポップがここ数年グローバルに注目されたことの立役者として、韓国のNight Tempoが取り沙汰されますけど、それも誤読を含めて、日本の文化が外部から相対化された結果だったりするのかなと思いました(※)。
宇川:本当にその感じ。アジア人同志のなかで「日本文化びいき」はありがたいことにいまもありますが、国力としては韓国にも台湾にも中国にも抜かれていますよね。
たとえばK-POPはグローバルポップ市場に国を背負って投げかけているトラックメイキングです。そのなかでオリエンタリズムを打ち出すことに成功している。当時、YMOはこの打ち出しを明確にやろうとしてました。
―そのある種戦略的な打ち出しは、「セルフオリエンタリズム」と言われたりもしますよね。
宇川:ある種のステレオタイプを逆手にとったり、ローカリズムを自覚的に打ち出すという意味ですよね。“TECHNOPOLIS”での「TOKIO」の連呼も着物も松もゲイシャもその記号ですよね。
それでいえば、150年前から変わってないといえますね。1867年の『パリ万博』のジャポニズムは、江戸幕府がお茶屋を日本パビリオンとして出店してるんですよ(*7)。芸者や屏風とともに。なのでそのころから一般化されたイメージは何も変わっていなかったと考えられますね(笑)。
―2023年にこのアートワークが金屏風とNFTで出ることには、どう向き合えるものでしょうか?
宇川:今日語ってきたように、日本ってもう先進国といえるかどうかギリギリのラインだと思うんですけど、80年代の日本は、多様性に富んだオルタナティブカルチャーが育まれた戦後の転換期ですし、世界に誇れる高くて深い独自な文化意識に基づく発信を行ないはじめた時期だと考えられます。
この『TechnoByobu』も日本の文化発信として、僕の友人の弘石雅和さんが設立したエレクトロニック・ミュージック・カンパニーの「U/M/A/A」が創業20周年の節目に取り組んだプロジェクトで、アートピースとしては最上のものだと思いますよ。伝統工芸と先端のテクノロジーが融合した作品なので、まさに今日語ってきた文化とその歴史がすべてここにつながっていますし、制作予算も相当かかってると思う。
この前、三田の弘法寺っていう、「港区の真ん中にこんな寺があったのか」って思うぐらいハードコアな明治から続く寺院で『TechnoByobu』の「“OHIROME”の儀」(※)を行なったんです。会社の20周年記念に、日本の伝統的な儀式を行ない、YMOという戦後の転換期に日本文化を世界に広めたポップアイコンに今世紀的解釈を与え、歴史をアップデートしたということは、我々が誇るべきプロジェクトだと思います。
『TechnoByobu』第1弾プロダクト「Electronic Fan Girl (TB-01) 」
宇川:1979、80年の日本はテクノ先進国でしたが、いまはむしろテクノ後進国で、このアートピースにはそのことをあらためて問いなおすような意味も見出せるし、眺め、愛でることで初心にかえることができる。もっと広い視点で見ると、この作品には今後日本をどんな文化都市に導いていけばよいのか、そのヒントも含まれているように思うんです。それはつまり、グローバルマーケットを横目で眺めつつも距離をとり「秘境化」すべきであるということです。
―「秘境化」というのは具体的にはどういうことでしょうか?
宇川:YMOがデビューした1978年当時ってグローバルマーケットがまだまだ未開拓だったんですよ。そこにYMOは殴り込みにいったわけですけど(※)、現在ってサブスク/ストリーミングの時代で、音楽も均一化されてしまっている。もっと国際共通言語では解読しきれない歪で突拍子もないものが生まれていいでしょう? それがかけがえのない文化/観光資源になる、ということです。
我々は再度YMOのその背中を見ながら、いま逆に「テクノ」感ではなくて「エキゾ」感を強めていく活動が日本文化にとって大事だと思うんですよ。これはK-POPと逆の運動で、地球的ではなく、秘境的。それを短絡的にグローバルマーケットに乗せて消費を煽るのではなく、インバウンドに体感してもらえるような環境自体を生み出せばいいのだと思います。
宇川:とにかくBTSとか見習って日本のアイドルももっと世界に響くような音楽構造を仕込んで、もっとワールドワイドに通用するようなダンスを身につけないとダメ、みたいな批評があるじゃないですか。そこで戦うのはもう手遅れなんですよ。
―グローバルなポップミュージックに追従するのではなく、むしろそことは異なる価値観に基づく音楽を突き詰めることに可能性がある。
宇川:はい。学びつつも距離をとって、独自の環境、独自の様式、独自のマーケットを育んで世界に投げかけないといけないタイミングなんだと思うんですね。その点から考えても、YMOの金屏風の作品がこのタイミングで生み出されたってことには、ものすごく意味があると思います。
いまやワールドワイドに解釈されて広まったシティポップだって、もともとグローバルマーケットに乗せるためにつくられた音楽ではなくて、当時の経済成長を遂げた日本の都市生活者をイメージしてつくられた音楽でしょ。むしろそういうローカリズムを打ち出したプロジェクトのほうがいまの日本にとって大事だと思いますよ。
『TechnoByobu』第1弾プロダクト「Electronic Fan Girl (TB-01) 」
―それこそ誤読される可能性も含めて、エキゾにやっていったらいいと。
宇川:そうそう。しっかりと誤読してくれるので。もともとエキゾティックミュージック自体が、その地域に訪れることができない人が夢想した世界観を音楽で表現してたわけだし。で、実際に日本が、東京が、そしてそれぞれの地域が、独自の「魑魅魍魎」な「秘境化」を計るべき。
―金屏風という「もの」に着目するといかがですか?
宇川:まず前提として、カラーのイラストレーションパートは、ペインティングじゃなくてインクジェットだということです。現代アートにおいては、唯一無二性、いまここ性、代替不可能性はもちろん、アートピースとして100年保証されるかどうかってすごく大事なんですね。
あえて言うと、インクジェットを使ってるものって、アートピースとしては少し距離を置かれる傾向があります。特に印画紙、銀塩を使う写真家たちは、インクジェットは100年後には退色して、色が浅くなって、購入したときの美意識は保たれないって思っている。
『TechnoByobu』第1弾プロダクト「Electronic Fan Girl (TB-01) 」
宇川:今回カラーの部分はインクジェットということですが、現代の顔料って日進月歩で進化していて耐久性がものすごいんですよ。ただ劣化加速試験は各社の基準で保証しているのですが、100年前にはまだインクジェットがなかったから、油絵の具やアクリル絵の具と比べて、メディウムとしてどれだけの強度があるかは誰にもわからない。
でも、『TechnoByobu』で使われている洋金箔は明治から使われていて、耐久性があることはもうわかっていますよね。ちなみにDOMMUNEで中継した「開封の儀」の会場、水戯庵の老松の絵にはものすごい歴史がありますよね?
―鏡板は京都の二条城にもあったと言われていて、江戸時代に狩野派の絵師が描いたものだそうなので、最低でも150年以上の歴史があります。
宇川:それくらい深い歴史のある絵の前でお披露目したYMOの金屏風、全然遜色なかったですよね。それはやっぱり洋金箔に歴史があるからなんですよね。インクジェット顔料というニューウェーブなハイテクノロジーと、洋金箔という伝統的な技術の融合という構造が、当時のYMOの「テクノロジーとエキゾチカ」というコンセプトとつながって考えられます。
『テクノ屏風 開封の儀~ TechnoByobu joins TECHNOH LAB』より。プロジェクションマッピングで照射された鏡板と「Electronic Fan Girl (TB-01) 」 Photo by Victor Nomoto(Metacraft)
―金屏風そのものに絞って見ても、最先端と伝統が共存していると。NFTについてはいかがでしょうか?
宇川:これはエディショナルピースについての保証としてのNFTで、「NFTアート」ではないわけじゃないですか。このアートピースの代替不可能性を保証するためにNFTが使われているのですよね。そういった意味において、ものすごく実験的で意欲的なメディウムとアウラの試みがなされています。
―仮にインクジェットが多少色あせたとしても、むしろNFTで保証された代替不可能性が高まっていくとも考えられますね。『TechnoByobu』にはインクジェットと洋金箔の対比があって、いま現在の最先端のものよりも伝統的なもののほうがより普遍性を秘めているという構図は、YMOの1stアルバムのある種アナロジーになっている気がしました。
宇川:1曲目にテレビゲームのサウンドを入れるって完全にトレンド狙いでしょ? 移り変わり激しい、早々と消費され塗り替えられうるコンテンツを塩化ヴィニールに溝として刻んでいて、それこそがポップアート足り得ていると感じています。、実際に『サーカス』はゲームとしてはめっちゃ短命だった。なのにアルバムの1曲目に入っていて、いまもサウンドだけは残り続けていますよね。いやー、やばくないですか?(笑)
―時代の空気とか、1978年という時代そのものをキャプチャーするための装置として置かれている、とも受けとれますよね。
宇川:当時の多様に混交した文化状況が封じ込められていると思いますね。だからあのアルバムってドキュメントとしても、ものすごく価値があるんですよね。この『TechnoByobu』はメディウムとテクノロジーの進化を纏い、1978年と2023年の45年間を地続きにした未来に向けての時空超越装置なんですよ。