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絶滅寸前のトライバルタトゥーを蘇らせた106歳女性彫り師の物語。直撃した大島托にケロッピー前田が訊く

2023年06月05日 18:10  CINRA.NET

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Text by 岩見旦
Text by ケロッピー前田

世界的に最も知られたファッション誌がいま、大きな話題となっている。106歳を迎えたフィリピンの女性彫り師アポ・ワン・オドが『ヴォーグ・フィリピン』4月号の表紙を飾ったのだ。彼女の起用は、2020年にイギリスの女優ジュディ・デンチが打ち立てた「85歳」というカバーモデルの最高齢の記録を塗り替えたばかりか、服飾によるファッションでなく、ワン・オドの全身に刻まれた伝統のトライバルタトゥーを美しいファッションとしてアピールした点でも斬新だった(※1)。

『ヴォーグ・フィリピン』編集長のビー・バルデスはオドを表紙に起用することは同誌スタッフ満場一致の決定だったと語り、「彼女はフィリピン文化の美しさをすべて体現している。私たちが伝えたいのは人間性の美しさだ」とコメントした(※2)。

ワン・オドはフィリピン北部カリンガ州の山村バスカランに住み、16歳から父親にタトゥーの技術を学んだ。タトゥーを彫る際は、竹の棒にレモンのトゲをつけた道具を使い、煤を水で溶いて、「ハンドタップ」と呼ばれるトゲのついた棒をもう一方の棒で叩く技法で行なう。

ワン・オドは伝統的なトライバルタトゥーをマスターしているマンババトク(彫り師)としては最高齢で、2016年にフィリピン政府から人間国宝の称号を受け、2018年頃から国内外からタトゥー希望者の訪問が増加。コロナ禍以前は1日400人以上を受け入れた時期もあったという。伝統的なトライバルタトゥーの技術を受け継ぐことができるのは血縁者のみ。オドは数年前から、姪孫にあたるグレース・パリカスとエルヤン・ウィガンを指導してきた。

そんな ワン・オドの106歳の誕生日である2月17日にわざわざ彼女に会いにいった日本人がいた。タトゥーアーティストの大島托である。その模様はTBS系『クレイジージャーニー』(5月29日放送)で紹介された。

彼によれば、「一番弟子グレースさんのサポートでバスカランを訪ねましたが、ワンさんの誕生日を知ったのは現地に行ってから。フィリピン中から大勢の観光客がタトゥーを彫りに集まってくる現場を目の当たりにして圧倒されました。60歳年上の大先輩ですから、彫ってもらうときは流石に緊張しました」と語った。彼もワン・オドからカリンガのシンボルである「スリードット」を授けられた一人となった(※3)。

カリンガ州の山村ブスカランに住むワン・オドが世界的に注目されるようになったのは、タトゥー人類学者ラース・クルタクがきっかけだった。彼はディスカバリー・チャンネルの大人気シリーズ『タトゥー・ハンター』フィリピン編の撮影のため、バスカランで2週間を過ごし、当時90歳近くで水田作業をしていたワン・オドに出会った。そのときはカリンガのトライバルタトゥーは絶滅寸前でワン・オドは「私が死んだらカリンガのタトゥー文化はなくなる」と言っていた(※4)。

その貴重なレポートは、のちに『Kalinga Tattoo』(2010年)にまとめられるが、一方でラースはロサンゼルスに住むフィリピン系アメリカ人のあいだでカリンガのタトゥーリバイバルが進んでいたことも見逃さなかった。その中心的な存在であったのが、エル・マナ・フェスティンだ。

エル・マナ・フェスティン 撮影:ケロッピー前田

1977年、フィリピン生まれのエルは、11歳のときに家族とともにロスに渡り、アメリカの経済的に恵まれた環境で成長した。だが、16歳のとき、彼はハワイを旅し、ポリネシア文化復興運動に出会って衝撃を受ける。

ここでいうポリネシア文化とは、ハワイ、サモア、タヒチ、ニュージーランドといった太平洋諸島に広がるもので、それぞれの島々が特徴的な文様を持つタトゥー文化を育んできた。フィリピンもまた、およそ700もの小さな島からなり、ポリネシア文化圏に属し、もともと独自の文様のタトゥー文化を持っていた(※5)。

エル・マナ・フェスティンによるカリンガ・タトゥーのリバイバル 撮影:ケロッピー前田

エルは、ハワイの彫り師のアイゼア(Aisea Toetu'u)やポイノ・ユロンディ(Po'oino Yrondi)と親しくなり、フィリピンのタトゥー文化を復興するために彫り師となることを決心し、リバイバル運動のコミュニティーとして「マーク・オブ・ザ・フォー・ウェーブズ」を立ち上げた。それが1997年だった。

そのような失われたタトゥー文化を現代に蘇らせる運動は、近年の先住民文化の保護などとリンクして、世界的に広く支持されている。タトゥー文化復興の推進者として、エルが優れているのは、ほとんど資料のなかったフィリピンのタトゥー文化を丹念な調査研究によって蘇らせ、そればかりか、原始的な手彫りの技法を探求しながらも、タトゥーデザインは現代的で洗練されていることである。

さらにいえば、全身を覆い尽くすような総身タトゥーの希望者を多く集め、集団としてみても統一感のあるタトゥー作品群を生み出すことで、タトゥーを通じての文化復興という大きな目標に強い説得力を持たせている。

「マーク・オブ・ザ・フォー・ウェーブズ」のメンバー 撮影:ケロッピー前田

実際、このエル・マナ・フェスティンと親交が深いのが大島托だ。ここで筆者がタトゥーアーティストの大島托と推する『縄文族 JOMON TRIBE』もまた、エルの活動に触発されてきたことを書き添えておきたい。大島自身の顔面タトゥーも縄文土偶の顔に施されている文様をタトゥーであると解釈し、そのリバイバルとして自らに施したものである。

また、大島は世界各地の民族タトゥーのリバイバルにも積極的に関わっている。『クレイジージャーニー』でも放送されたが、インド・ムンバイで開催された国際規模のタトゥー・コンベンション『クラ・ワールドワイド』には、未知のタトゥー文化を残すバイガ族が参加するというので、そのリサーチのために赴いた。「バイガ族のタトゥーはいまも続いており、それをそのまま引き継ぎながら、一方でヨーロッパからの熱心なタトゥー愛好者たちを受け入れようとしていました」と解説してくれた。

さらに大島は具対的にタトゥー文化の復興をサポートしており、2022年8月、大島はブラジル、アマゾンの奥地シングーという先住民保護地域内に暮らすカヤビ族を訪ねていた。ワニやジャガーの口を模しているというカヤビ族の男性の顔面タトゥーは失われていたものであったが、彼の来訪をきっかけに蘇っている(※6)。

先に挙げたラース・クルタクは、民族タトゥーの研究や復興に尽力するのみならず、ミイラのタトゥーを通じて古代におけるタトゥーの技術やデザイン、世界的な規模での伝搬の経路などを追っている。その成果のひとつがアーロン・ディターウォルフとの共著『Ancient Ink(エンシェント・インク)』(2017年)である。

ラースにとって、彼が人類学者として最初に本格的な調査を行なったのが、アラスカにあるセントローレンス諸島にわずかに残っていた女性たちの顔面タトゥーの風習であった。「スキンステッチ」と呼ばれ、顔料を染み込ませた糸を裁縫の要領で針に通して皮膚を縫うようにくぐらせるというもので、痛みも大きく、技法的にも最も原始的なものと考えられている(※7)。

ラースは単に珍しいタトゥー技法が残されているだけでなく、その地域は人類の最も古い文化のかたちをいまも残しているのではないかと考えたのだ。ラースがタトゥーの考古学へと関心を拡大したのは、彼が追ってきたトライバルタトゥーの文化のなかに、人類最古の文化の痕跡を感じ取っていたからだと思うのだ。

『Ancient Ink』全体を俯瞰すると、シベリアの古代のタトゥー文化が、ベーリング海峡を挟んで、北米アラスカに残された民族的なタトゥー文化と比較されているところが特徴的である。この本で語られるタトゥー考古学は、ミイラ研究をベースとしながら、北方エリアにおける研究が資料的にも充実していることがわかる(※8)。

拙著『縄文時代にタトゥーはあったのか』でのラースのインタビューで、彼はアイヌのタトゥーに人類の最も古いタトゥー文化の痕跡が残されているのではないかと語っている。そのことは、『Ancient Ink』で見てきた北方エリアのリサーチともつながるものだろう。世界的にトライバルタトゥーのリバイバルに関心が集まっている理由は、タトゥーというものが非常に古い時代から存在し、現代にまで伝えられたものであることに多くの人たちが気づき始めているからである(※9)。

大島托は「日本では一般の方々にとってのタトゥーのイメージは物凄く狭い。タトゥーとは、人類が約1万年以上の長い歴史のなかでずっと親しんできた文化です。そんなスケール感のあるタトゥーのイメージをお伝えしていければ嬉しい」と語ってくれた。

最も古くから現在にまで残ってきたものこそが美しいとするなら、絶滅寸前にありながらも世界的な注目を浴びることで復活を遂げたカリンガのタトゥーのように、まだ知られていない文化がタトゥーを通じて蘇るチャンスはこれからもあるだろう。世界的なタトゥー文化の隆盛が新しい時代の息吹となっていることを感じて欲しい。