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なぜ『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は傑作シリーズに?ジェームズ・ガンの30年来の信念を紐解く

2023年05月31日 20:10  CINRA.NET

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Text by 山元翔一
Text by 稲垣貴俊

世界中を熱狂に巻き込み、一時は世界興行収入歴代1位の座に君臨した『アベンジャーズ/エンドゲーム』から早4年、そしてマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の新たな「サーガ」を打ち出したフェーズ4のはじまりから約2年半が経過した。「最近のマーベル映画はちょっと……」「ドラマもはじまって作品数が……」なんていう声も世界規模であるらしいが(※)、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』は近年のMCUの不振を吹き飛ばす快作だった。

この人気シリーズを成功に導いたのは、映画監督のジェームズ・ガン。ステレオタイプなスーパーヒーロー像からは逸脱した、口汚く、とても品行方正とは言い難い面々が活躍するシリーズ完結編は、MCUで初めて「Fワード」が使用された作品であると同時に、ジェームズ・ガンのキャリアのすべてが注ぎ込まれた集大成的作品でもあった。

本稿では、劇場パンフレットにも寄稿した稲垣貴俊を書き手に迎え、ジェームズ・ガンの作家性を紐解き、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を傑作シリーズたらしめた理由を見つめていく。

※本記事には映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承ください。

ジェームズ・ガンほど、ハリウッドで奇妙な旅を続けてきたフィルムメーカーはいない。低予算のホラー映画、コメディ映画を手がける「トロマ・エンターテインメント」で活動を開始したあと、人気アニメの実写映画版『スクービー・ドゥー』(2002年)の脚本を執筆。インディペンデントの世界でホラー/アクション映画を手がけたのち、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズに抜擢され、大きな支持を獲得している。

2023年4月に行なわれたパリプレミアより。中央左がジェームズ・ガン (c) Marvel Studios 2023

しかし、その道のりは必ずしも順調ではなかった。2018年7月、過去の不適切な発言が掘り起こされ、ディズニーから『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズを解雇されたのだ(※)。

出演者らの嘆願もあり、のちに復職するが、その間にガンはマーベルのライバルであるDCコミックスと契約を結び、『ザ・スーサイド・スクワッド “極“悪党、集結』(2021年)を監督。2022年11月からは、新生DC映画ユニバースを統括する「DCスタジオ」の会長兼CEOを務めるに至った。

キャリアが激動するなかで製作された『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』は、ガンの可能性を大きく花開かせた代表作シリーズの完結編。DC移籍に伴い、MCUで手がける最後の作品だ。

MCUや同シリーズにとって、またガン自身にとっても大きな節目となった本作には、約30年にわたり彼が描いてきたものが、その根底にある思想と政治性が詰まっている。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』は史上もっとも大きなステージで、もっとも大きな野心をもって臨んだ、つくり手としての集大成だ。

「銀河の守護者」ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーといえば、地球出身のトレジャーハンターであるスター・ロード/ピーター・クイルを筆頭に、暗殺者ガモーラ、復讐に燃える戦士ドラックス、凶暴なアライグマのロケット、木のグルート、ガモーラの妹ネビュラ、他者の心を読めるマンティス、元宇宙海賊のクラグリン、言葉をしゃべり念力を操る犬のコスモによって構成されるチーム。そのメンバーは最初から同じだったわけではないし、家族にも似た関係性も一朝一夕に築かれたものではなかった。

初登場作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(2014年)当時、彼らはひょんなことから出会ったスター・ロード、ガモーラ、ドラックス、ロケット、グルートからなる5人組。はじめは息も合わず、ぎくしゃくしていた「他人同士」の彼らが、最後には力を合わせてひとつのチームになる姿こそ、映画の最大の見どころだった。

その後、続編『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』(2017年)や『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(2018年)『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019年)、そして『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:ホリデー・スペシャル』(2022年)と、物語が進むにつれてチームのメンバーは少しずつ増えていった。彼らはまぎれもなく寄せ集め集団、銀河のならず者たちなのである。

これまで彼らが主に戦ったのは、強者だけが生き残る宇宙を求める将軍ロナン、全宇宙の掌握を画策するピーターの父で天界人のエゴ、全宇宙の生命を半減させようと目論むサノス(※)。凸凹なチームながら身を寄せ合って協力するガーディアンズと対決してきたのは、いずれもグロテスクに肥大化した自我の持ち主だった。

『VOLUME 3』の悪役(ヴィラン)であるハイ・エボリューショナリーも例外ではない。宇宙屈指の遺伝子技術を有する巨大企業オルゴ・コープの経営者である彼は、この宇宙を自身の考える「完璧な世界」にするべく手段を選ばない。完全な生命体を求め、不完全な動物や子どもを改造し、意に沿わなければ殺害し、惑星を滅ぼしさえする。

本作ではロケットとハイ・エボリューショナリーと深いつながりが明らかとなり、その過去は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズにおいても、MCU全体においても屈指の残酷さと悲しさで描かれていく。その物語は、ガンが第1作の脚本を執筆する以前からひそかに構想し、長らく温めてきたもので、ロケットのストーリーを思いついたからこそガンはこのシリーズを手がけることを引き受けたというのだ。

ロケット / 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』より (c) Marvel Studios 2023

それゆえだろうか、本作はたしかに『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』なのだが、その作風はむしろ、現在よりも格段に暴力的でダークだったガンの初期作品に近づいている。一癖も二癖もある悪党だらけ、血しぶきがスクリーンを染める『ザ・スーサイド・スクワッド』のほうが、まだ荒唐無稽なエンターテイメントに軸足を置いていたのではないかと思えるほどだ。

とりわけ特徴的なのは残酷表現である。『スリザー』(2006年)『スーパー!』(2010年)から暴力の痛みを余すところなく表現してきたガンは、ついにディズニー/マーベル映画でもそのスキルを発揮した。

ハイ・エボリューショナリーの動物虐待だけでなく、ヒーローであるピーターは敵の顔を水に沈めて溺死させ、仲間を殺されたロケットは憎しみに任せて宿敵の顔をずたずたに引き裂く。スクリーンにはその傷がどうなったかも映し出されるのだ(本国ではPG-13指定なので、もちろん描写自体はやや抑えめではあるものの)。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』のヴィランにして、ロケットの宿敵ハイ・エボリューショナリー (c) Marvel Studios 2023

また、本作ではMCU史上初めてのFワードも飛び出している。従来のMCUでは、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』でニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)が消滅しながら「マザファッ…(motherfu...)」と言い残す、次回作『マーベルズ』の予告編でキャプテン・マーベル(ブリー・ラーソン)が「What the (fuck)」と言いかけるなど、Fワードは寸止めにしておくのがお約束だった。

しかし今回、ピーターはネビュラに対してとうとうこの言葉を口にする。Fワード以外の罵倒語・卑語も過去作以上に飛び交うあたり、本作の「口汚さ」は明らかに意図されたものだろう。

左から:ドラックス、マンティス、スター・ロード、ネビュラ / 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』より (c) Marvel Studios 2023

なぜ『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズは完結編にして、これほどまでに乱暴な側面を隠さない映画になったのか。ガンがMCUへの置き土産として、本来の自分らしい映画をつくろうとしただけなのか……むろんそうではない。

ここにある乱暴さは、それ自体がハイ・エボリューショナリーの提唱する「完璧さ」への抵抗なのである。

ここでガンのフィルモグラフィーを遡ることにしよう。そもそもジェームズ・ガンという映画監督が、同じテーマをたびたび描き続けてきたつくり手であることを確認するために。

キャリアの初期・中期・現在を問わず、ガン作品の多くに通底するのは「アウトサイダーの肯定」というテーマだ。父親がアルコール依存症を患い、「機能不全家族で育った」と自認するガンは、幼いころ、自分の居場所はどこにもないと感じ、うまく他者とつながることもできず、孤独感に苛まれ、何度も自死を考えたという。そんなガンを救ってくれたのが、コミックや映画、音楽だった。

現実逃避のため、あるいはキャラクターやアーティストの姿を見て「自分と同じように変な人たちがいる」と感じて孤独感を癒すべく、彼はエンターテイメントに身を委ねたという。自身初のメジャー映画、愛するコミック作品でもある『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズがアウトサイダーたちの物語であり、さまざまな意味で「家族」をテーマにしてきたことは、ガンのパーソナルな思いの表れだったのだ。

左上から時計回りに:グルート、ドラックス、ネビュラ、スター・ロード、マンティス / 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』より (c) Marvel Studios 2023

しかし、このモチーフはキャリアの初期から登場していたものでもあった。「はぐれ者たちのスーパーヒーロー」という点でいえば、その原点は脚本を担当した映画『MIS II メン・イン・スパイダー2』(2000年)にある。実際には何の続編でもないのだが、『メン・イン・ブラック』と『スパイダーマン』の人気にあやかるため、とんでもない邦題がつけられた一作。

原題は「The Specials」で、世界で6~7番目に偉大なヒーローチーム「スパイダーズ」(これも台詞上は「スペシャルズ」だが、日本語字幕ではそう書き換えられている)の日常を描いたコメディだ。現在の倫理観に照らせば完全にアウトなジョークが連発される会話劇ではあるものの、自らを「落ちこぼれのためのヒーロー」と称しながら「必要のないメンバーはいない」と言いきる精神は、のちの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』にそのままつながっている。

変わり者にも正義はある、そして変人たちも力を合わせれば強い……という作劇のポリシーは、その後『スクービー・ドゥー』シリーズにもわずかに引き継がれ、ガン初めてのスーパーヒーロー映画である監督作『スーパー!』で本格的に噴出する。孤独と挫折感、コンプレックスに苦しむ冴えない男が、ヒーローとして正義感を暴走させる一作だ。こちらの要素も『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズにつながり、さらに『ザ・スーサイド・スクワッド』、そのスピンオフドラマ『ピースメイカー』(2022年)へと発展してきた。

出自や見た目、性格、家庭環境、トラウマ、思想など理由はさまざまだが、この世界/社会にうまくなじめずにいる人々を――ともすれば「悪人」とカテゴライズされるような人間さえ――どのように受け入れ、いかにして肯定するか。

キャリアを通じて「完璧でいられない者たち」を尊んできたガンは、『VOLUME 3』で「知性や能力だけがすべてじゃない」と言いきり、とうとうこの主題を真正面から語ることに挑んだ。どんな人物にも輝ける瞬間はある、そのことをベタすぎるほどの優しさと温かさをもって描くのだ。

ところが、ガンはときとしてぞっとするほどの残酷さを垣間見せもする。それは自身が得意とする暴力描写の残酷ではなく、「この世界には個人が抵抗できない理不尽があふれている」ということの残酷だ。

本作では何の罪もない人間や動物たちが、何もしていないのにあっけなく命を落としてしまうが、これもガン作品の多くに共通するもの。善悪を問わず、生きものは何の理由もなく、いきなり(ときにはブラックユーモアのなかで)死んでしまう。そして、死んだ者はもう二度と帰ってこない。

左から:ガモーラ、スター・ロード。MCUの正史となる時間軸である神聖時間軸におけるガモーラは『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』で死亡しており、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』では『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019年)でタイムスリップしてきた「過去」のガモーラが登場する。一度恋仲となったピーター・クイル、およびガーディアンズとは関わりのない別人として本作のガモーラは描かれる

もちろんガーディアンズ・オブ・ギャラクシーはスーパーヒーローだが、彼らが救える命には限りがあり、残念ながら救えない命も多い。第1作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』でも、愛する星を守るために数えきれないほどのパイロットたちが戦闘機に乗り込んだが、抵抗もむなしく彼らはみな絶命した。

しかし、いやだからこそ、そのなかを生き延びた者はできる限りの善と正義を行使しなければならない。たとえ罪や過ちを犯した過去があろうとも、それができるならスーパーヒーローになれる。これも『スーパー!』をはじめ、過去作から繰り返し描かれてきたガンの掲げる理想だ。

冒頭、ハイ・エボリューショナリー陣営の圧倒的脅威として登場するアダム・ウォーロックは、終盤にガーディアンズのメンバーとのやりとりを通じて、筆者の記す「ジェームズ・ガンの掲げる理想」を体現することとなる

そして今回、この理想と真っ向から対立するのが、ハイ・エボリューショナリーの求める「完璧」の思想だ。すべてを意のままに管理したがる彼は、自らの考えるシナリオから外れた者を排除し、人工的に「完璧」を形づくろうと試みた。地球に蔓延する無知と偏見を憎み、「完璧」を目指してコントロールした地球そっくりのユートピア、惑星カウンター・アースがそれだ。そこには人間のように改造された動物たちが、意思を剥奪されたまま穏やかな日常を過ごしている。

ハイ・エボリューショナリーとカウンター・アースを、ガンは明らかに、現代社会のある一面のアレゴリーとして機能させようとしている。それは、この世界に唯一の「正解」があるかのように振る舞い、そこに当てはまらない人間を無知で無分別だと断じ、理想から外れた者を攻撃の対象としながら、表面的には偏見や差別を憎み、公正公平を追求する態度だ。

ハイ・エボリューショナリーのつくった「完璧」な社会では、ドラックスがひとりの子どもにボールをぶつけると、何十人もの人々が一斉に石を投げつけてくる。SNSを開けば日常的に見られる光景ではないか。

カウンター・アースに降り立とうとするガーディアンズの一行 / 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』より (c) Marvel Studios 2023

ガンは劇中で、ハイ・エボリューショナリーのような発想を「完璧の追求」ではなく「ありのままを否定すること」だと批判する。

完璧たりえない者たちをありのままに肯定し、そうした人々が輝ける瞬間を見出そうとすることは、ハイ・エボリューショナリーの考える「完璧」とは真逆のものだ。ところがカウンター・アース的な世界では、過去の失敗を取り返すチャンスさえ与えられない。失敗や不完全は、直ちに処罰の対象となるのだ(ガンが本作の脚本を、自身の一時解雇より以前に書き上げていたことには驚くほかない)。

このテーマに取り組むうえで、ガンが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズらしい作風をやや逸脱したのは当然のことだっただろう。なぜなら、ガンが見つめている世界のありようは「完璧」とはほど遠く、それらは従来のやり方では描ききれないからだ。

この世界では、暴力には痛みが伴い、傷ついた肉体はグロテスクにも見える。ときにはヒーローも暴力を行使し、乱暴な言葉を使う(MCU初のFワードにも必然性があったのだ)。そして残念ながら、生きものの生死にいつも特別な理由が与えられるとは限らない。しかし問題は、そんな世界をどのような態度で生きていくかということ。そこで「スーパーヒーロー」たるにはどうすべきか、ということだ。

左から:スター・ロード、ドラックス、ロケット、ガモーラ、グルート、ネビュラ、マンティス / 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』より (c) Marvel Studios 2023

この世界には美しいものも、醜いものも、優しさも、残虐さも、喜びも、笑いも、悲しみも、怒りもある。そして、それらは単純に「完璧」=クリーンな状態から生まれてくるわけではない。

世界はそれほど美しくはないが、だからこそ美しい瞬間がある……。崩壊するハイ・エボリューショナリーの船から、あらゆる生きものをノーウェア(※)に避難させるラストからは、人工的に管理されていたものを自然な状態に戻そうとする試みが見てとれる。おそらくそこは混沌とした世界になるだろうが、ガンはそれにこそ希望を見ているのかもしれない。

異形のクリーチャーに出会ったマンティスが一瞬面食らいながら、それでもコミュニケーションを続けたように。ロケット率いる新生ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーが、まったく新たな「他者たち」によって構成され、同じ音楽を聴いていたように。

ノーウェアとガーディアンズの面々

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズの過去2作は、それ以前のジェームズ・ガンが積み重ねてきたことを、ディズニー/マーベルのもと、間口を大きく広げて表現した作品だった。しかし『VOLUME 3』は、その延長上で作風をそれ以前のものに戻しにかかった映画である。トロマ時代から現在まで、すべてのキャリアを咀嚼せんとする野心を、よりにもよってディズニー映画でやり抜いた。まぎれもなくジェームズ・ガンの(現時点での)到達点だろう。

DCユニバースの統括役となったいま、ガンのキャリアは別の局面に突入する。しかし、自身のライフワークである「アウトサイダーの肯定」は今後も続きそうだ。

監督・脚本を務める次回作『スーパーマン:レガシー(原題)』は、ガーディアンズとは異なり、誰もが知る王道のスーパーヒーローを新たに解釈する物語。ど真ん中のスーパーヒーロー映画となりそうだが、いまのガンは「スーパーマンに心から共感している」という。ハリウッドにおいて立場を変え続けてきたガンは、「異星人であるスーパーマンは究極のアウトサイダー。僕自身もそのような気分なのです」と語った。ここからふたたび、ジェームズ・ガンの新しい旅がはじまる。