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「クリエイティブな仕事」のロマンスと呪縛。「終わりなき労働」の構造を田中東子と考える

2023年05月31日 15:10  CINRA.NET

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Text by 宮田文久
Text by 後藤美波
Text by 北原千恵美

「リスクは仕事の興奮の中に書き込まれている」──クリエイティブな労働に日頃取り組んでいる人、あるいはそうした人物が身近にいる人にとって、ハッとするフレーズではないだろうか。一生懸命に仕事に打ち込み、思わぬ成果に心が浮き立つなかで、労働の不安定さと、それを当然とする社会の状況は見過ごされていってしまう。「今日の仕事も(キツかったけど)楽しかったなあ!」という、あの喜びのなかで。

2023年2月に刊行されたアンジェラ・マクロビー『クリエイティブであれ:新しい文化産業とジェンダー』(田中東子監訳、中條千晴・竹﨑一真・中村香住訳、花伝社)がいま、密かに注目を集めている。熱心に仕事に励むほどにマルチタスク化のなかで陥ってしまう苦境、ジェンダーをめぐる問題が密接に絡み合った現代のクリエイティブ労働のありようを、見事に活写している快著だ。監訳を務め、自身はフェミニズムやカルチュラル・スタディーズの研究などで活躍するメディア研究者の田中東子(東京大学大学院情報学環教授)に、本書を起点にしつつ、私たちの日常の困難と可能性を尋ねた。

田中東子(たなか とうこ)
東京大学大学院情報学環教授。専門分野はメディア文化論、ジェンダー研究、カルチュラル・スタディーズ。1972年横浜市生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科後期博士課程単位取得退学後、早稲田大学教育学部助手および助教、十文字学園女子大学准教授、大妻女子大学文学部教授を経て、現職。第三波以降のフェミニズムやポピュラー・フェミニズムの観点から、メディア文化における女性たちの実践について調査と研究を進めている。

―『クリエイティブであれ』を読んで、「私たちのことが書かれている」と衝撃を受けました。ロンドンに拠点を置く研究者マクロビーが中心的に描くのはファッション業界ですが、読んでいると自分のことだけでなく、フォトグラファーさんやレコード会社の方など、たくさんの知人の顔が思い浮かびます。

田中:ウェブ系のライターさんやジャーナリストの方はもちろん、翻訳家の方ですとか、フリーランスを中心にクリエイティブ系の仕事をしているいろいろな読者の方々から、「染みた」という反響をたくさんいただいています。ただ、翻訳するにあたって、読者として念頭にあったのは、自分の友人もいるアニメーターさんたちのことでした。

―そうだったのですね。

田中:映画業界や漫画業界の友人たちのことも想像していました。一定の評価を得ている人であっても、いま契約している仕事が終わったら次の契約は決まっていない、大変な連載が終わったらまた次の連載の準備をしなければいけない、というような不安定な仕事をしている人はたくさんいますよね。しかも皆さん、やりがいを持って働いている。

そうした「やりがいある仕事」としてのクリエイティブ労働に取り組みながらも、むしろそのことによって苦しい状況にある人たちを思い浮かべながら、役立てていただけたらと訳したところ、想定していたより幅広い読者の方々から反響をいただいて驚いているところです。

―描かれているのはロンドンやベルリンのクリエイティブ業界ですが、日本の状況とも驚くほど呼応しています。「やりがいある仕事」が自己搾取へと向かっていってしまう現代社会のあり方が、特に女性において過酷であることと共によくわかる一冊です。翻訳の経緯は、どのようなものだったのでしょうか。

田中:アンジェラ・マクロビーは、ブリティッシュ・カルチュラル・スタディーズという学問的な一派において数少ない女性のひとりとして活躍し、非常に早い時期からフェミニズムやジェンダーといった視点を取り入れていた第一人者です。『クリエイティブであれ(原題:Be Creative: Making a Living in the New Cultural Industries)』は少し前の著作で、原著は2016年に刊行されています。

ただ、日本でのマクロビーの著作の紹介はこれまで、なかなか進みませんでした。私の体感を踏まえてお話しますと、2018年ぐらいまでフェミニズム関連の書籍の企画がほとんど通らなかった。特に男性ではなく女性が書いた本は、非常に翻訳されづらい状況が続いていたんです。

―なるほど……。

田中:#MeToo運動や、『82年生まれ、キム・ジヨン』のヒットといった出来事を経て、それまでせき止められていたものが一気に動き出した、という感覚を抱いています。『クリエイティブであれ』は、同じくマクロビーの著書である『フェミニズムとレジリエンスの政治:ジェンダー、メディア、そして福祉の終焉』(田中東子・河野真太郎訳、青土社、2022年)とともに、だいたい同時期である2020年頃に企画が通り、翻訳にこぎつけました。

アンジェラ・マクロビー著『フェミニズムとレジリエンスの政治:ジェンダー、メディア、そして福祉の終焉』(田中東子・河野真太郎訳、青土社、2022年)

―そのような経緯のもと訳出された『クリエイティブであれ』が、私たちの状況と強く共振しているのですね。

田中:自身の創造性を絶えず問われながら次から次へとタスクに追われる……そんなクリエイティブ労働はかなりしんどいはずで、そのしんどさを、『クリエイティブであれ』は言い当ててくれている感じがします。実際に私の周囲を見ていると、女子学生を含めたいまの若い人たちも、大変であるにもかかわらずクリエイティブな仕事に憧れるんですよね。マクロビーは、こうしたクリエイティブな働き方のスタイルと自己との関係を、「ロマンス」と表現しています。

実感として、最近の女性が恋愛にロマンスを求めるのではなく仕事にロマンスを求めるのは、よくわかるんですよ。しかしその仕事の現場では、キャリアや家庭をめぐるジェンダー不均衡がいまだに解消されておらず、幾重にもしんどい環境が待っている。だからこそ、『クリエイティブであれ』はチクチクと心に刺さるんです。

―刺さるポイントはたくさんあります。自分の創造性をわかりやすく示す手段として、過去の仕事をまとめた「ポートフォリオ」はよく用いられますが、本書のなかで、「プロフェッショナリズムという言葉は想像力の経済化、創造性の市場化も示す」というフレーズとともに批判的に触れられているのが印象的です。

田中:「ポートフォリオ」というものが象徴するクリエイティブ労働の状況は、発注側と受注側が非対称的な権力関係のもとでスタートする、ということなのでしょう。たとえば、「君がやらないなら別の人に仕事をやってもらう。やりたいならば、君のクリエイティビティをわかりやすく提示しろ」という関係性ですね。

なんとか創造性を提示し、発揮しようと頑張れば頑張るほど、その個人は横にいる別の人と仕事を奪い合うことになってしまい、同業者との横の連帯が阻害されてしまうというのも大きな問題です。非常に効率的かつ典型的な、「分断統治」のかたちにもなっているといえます。

―「自己表現を行う仕事へと向かうこの動機は、今では、特定の領域でのビジネス、起業家精神、自己組織的な仕事といった政府の支配的な言説と交差し、その中で育まれると同時に管理されている」とマクロビーはいいます。「ポートフォリオ」と似たところでは、SNSでの仕事の成果報告も思い浮かびますね。自分もよくやりますが……。

田中:SNSで自分の仕事の成果を宣伝するということにかんしては、あれがじつは何も賃金やギャランティも発生していない「労働」である、ということも問題ではないかと感じます。何の対価も発生していない労働時間が、一見仕事から離れているように見えるところで途切れることなく続いてしまっている、ということなのではないでしょうか。

―いわれてみれば、そうですね。

田中:「こんな仕事をしました」とSNSで報告するのは、それを見た誰かが新しく発注をくれることで次の仕事につながっていく、という可能性を期待しているわけですが、SNSを触っている時間自体はシンプルにいえば「ただ働き」なんですよね。実際にDMで仕事の発注が届くとしても、メール・メッセンジャー・LINEなどあらゆるアクセスポイントから次から次へと仕事の連絡がくる近年の状況に、さらに拍車がかかるということでもあります。仮に布団のなかにいたとしても、仕事の連絡はくるのですから(笑)。

―「布団のなかでの労働」は、身に覚えがある人も多いと思います。

田中:そうした仕事の手前の「労働未満」のあれこれは、基本的にただ働きです。そのような個人の苦労が、自己の創造性を絶えず注ぎ込むクリエイティブ労働の状況とあいまって、さらに追い込まれた状況をつくりだしてしまうとすれば、やはり大きな問題だろうと思います。

―『クリエイティブであれ』は邦訳版のサブタイトルに「新しい文化産業とジェンダー」とありますが、ここまで語ってきたような社会の歪みに、特に女性は直面してしまう、ということなのでしょうか。

田中:これはクリエイティブ労働に限った話ではないですが、女性が人間関係におけるケアといいますか、感情面での潤滑油のような役割を担わされてきてしまっているのは、省みられるべきポイントだと思います。

以前、学生たちにグループワークをさせていたときに男子だけのグループができてしまったのですが、彼らが「なんだか女子がいないからギスギスするんですけど」と言ってきたんですよね。正直、「自分たちでどうにかしろ」と言いたくなる(笑)。女子学生がいることで場が和むと思っている男子学生が多すぎることに、私は苛立ちを感じました。その感覚は、彼らが就職などで社会に出ていっても、おそらく続いていくんですよ。

―クリエイティブ労働においても、現場で女性がまるで緩衝材のような役割、いわば場のケアを担わされているシーンは、幾度も目にしたことがあります。

田中:幼い頃から、やがて働くようになってまで、「グループや組織のなかで空気を和ませる女性」という役割をずっと求められる。そうした働きにプラスアルファで給与が発生するということでもない。しかも、そうしたケアワークや家事労働を担わされて細切れのなかで仕事を続けざるを得ない女性たちは、家庭も含めてマルチタスクが得意だという言説が持続し、そのことがまた細かな雑務を女性に担わせていくという悪循環が生まれています。先行きが不透明かつ不安定なクリエイティブ労働に携わる女性にとっては、オーバーワークが常態化してしまいがちだといえるのではないでしょうか。

―そうした状況を変えていく、今後への手がかりはないものでしょうか。

田中:労働環境を改善し、民主的な対話を組織化していく道は探られていくべきだと思いますが、そもそも日本においては、労働問題への意識が非常に低いと感じます。私は1972年生まれですが、80年代はまだストライキも多く行なわれていたんですよ。

―インタビュアーは1985年生まれですが、労使交渉がまとまらず公共交通機関が止まるニュースは目にしていた記憶があります。

田中:自分たち自身の置かれた労働環境の劣悪さへの関心は、あらためて高めていく必要があると考えています。ただ、ここが『クリエイティブであれ』の面白いところでもあるのですが、イギリスでは労働組合の活動がとてもマッチョだった様子が描かれているんですよね。それはおそらく、日本でもそうだったのだろうと思います。

―「労働者階級の女性がしばしば積極的な労働組合員として頭角を現すことがあっても、(中略)たいていは夫の活動を支える女性とみなされ、労働時間を超える組合のための活動は、母親と主婦としての二重の役割とは対立していると考えられていた」とあります。

田中:本書で書かれている「新しいミドルクラスの女性」たちというのは、そうした労働環境、および環境を改善するはずの労働運動のマッチョさが嫌な人たちが逃れていった先で、自分自身がきらめくことのできる仕事を求めた──それがクリエイティブ産業だった、といえるのではないでしょうか。

―クリエイティブ労働への「ロマンス」は、哲学者ドゥルーズがいうところの「逃走線」だとも書かれていますね。

田中:自分の名前を前面に出して活躍することができて、自己実現も可能。工場での労働などに比べて自由に働けているようにも感じられる――クリエイティブ労働はそうした仕事として憧れられてきたものの、しかし実際のところは労働条件があまりよくないのもここまで見てきたとおりです。

マクロビーは「稼ぐ力の衰退と同時に、稼ぎに見合わない地位の暴騰が起きているのだ。ミドルクラスの若者は、ミドルクラスの価値観が社会全体で、特に都市部で拡大するにつれて非正規雇用へと追いやられてしまう」と書いていますが、いわばこれは「偽のミドルクラス」と表現してもいい事態だと思います。ちょっと体を壊したら生活が危うくなり転落しかねない、という状況で生きていかねばならない。こうした労働の不安定さについて、日本でもようやく近年議論されるようになってきました。

―そうした状況に対し、女性へのエンパワメントなどの面でメディアがなしうることはあるはずですが、一方でFacebookのCOO(現・Metaの取締役)であるシェリル・サンドバーグのベストセラー『LEAN IN 女性、仕事、リーダーへの意欲』をマクロビーが批判していることもまた、考えさせられます。

田中:女性を解放するためのメッセージが気づいたらどんどんとネオリベラリズムのニュアンスを帯びていって、「やりがいある仕事は身体のスタイルや活気あふれる熱意の滲みだしたものとして表現される」ようになると書かれていますね。

かつて、テレビドラマなどのポピュラーカルチャーのなかにフェミニズムのメッセージが織り込まれていることにいち早く気づいたのがマクロビーだったのですが、しかしそうした女性たちの自律を促すメッセージが、やがて華やかに仕事をこなす女性たちというイメージに転化していってしまうことを、「ポストフェミニズム」だと批判したのもまた、マクロビーなんです。メディアが提供する「できる女」というイメージにも気をつけないといけないですよね。

―課題は多いですね。もうひとつ気になるマクロビーの記述があります。「インスピレーションのアウラとは無縁で、創造性という魔法的要素を必要としない他の種類の労働と同じようにクリエイティブ労働を認識することを試みる」。

やりがいや創造性といった、この仕事の一見魅力的に見える要素から距離を置いてクリエイティブ労働を見つめ直すことの意義はたしかにわかるのですが、何か予期せぬことが起きる「魔法」への期待を抜きに、クリエイティブな仕事への新規参入者は現れるのでしょうか。

田中:近年のいくつかの動向を見ていると、むしろ議論の方向が逆転しつつあるのではないでしょうか。マクロビーの認識のように、私たちも実際に動き出しているのではないか、と感じています。

たとえば日本の映画業界においては、2021年にJFP(一般社団法人Japanese Film Project)が設立されました。「日本映画業界の『ジェンダーギャップ・労働環境・若手人材不足』を検証し、課題解決するために『調査および提言』を行う」団体であり、私もイベントなどを通じて意見を交換しています。印象的だったのは、ジェンダーギャップの課題の改善を求めていくのに加えて、「こんな劣悪な労働環境のままでは、もう映画業界に若い人が新たに入ってこなくなってしまうのではないか」と恐怖を感じたからこそプロジェクトを立ち上げ、展開しているという話でした。

―「魔法」云々などといっていられない状況だ、と。

田中:はい。JFPは、現状の非民主的な業界のありようを客観的にとらえ、改善を求めていくための取り組みであるわけです。ほかにも美術の分野では、2020年に「art for all」という会が設立され、「美術に関わる個人のエンパワメントを推進する」「アート・ワーカーの活動環境を改善する」「文化芸術が尊重される社会の実現に寄与する」ことを目的として活動しています。

―田中さんが可能性を見ているのもまた、そうした場なのですね。

田中:個人個人の情報や問題点を共有していくということが、私たちの社会には足りていないと感じています。自分だけの問題だと考えていたものが、じつは業界の構造的な問題だったということもあると思いますし、他の業界にも共通する課題である、ということもあります。業界の先行きを考えるのであれば、競合であっても横のつながりでネットワークをつくって情報共有するというようなことはどんどんやったほうがいい。不安な気持ちを不安なまま放置せず、いま隣にいる人たちと問題意識を共有し、対話していくことから始めていけばいいのではないでしょうか。