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映画『はちどり』キム・ボラ監督インタビュー「すべてのものには政治が影を落としている。それを物語に散りばめたい」【後編】

2023年05月30日 18:10  CINRA.NET

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Text by CINRA編集部
Text by 桑畑優香
Text by 朝木康友
Text by EPIPHANY FILMS.

1994年のソウルを舞台に、孤独な思いを抱える14歳の少女・ウニの物語を描いた韓国映画『はちどり』。急速な経済成長による歪みや綻び、男尊女卑的な価値観が根づく韓国社会を映しだした本作は、2018年に公開されてから世界各国の映画賞を受賞。日本では2020年に公開され、多くの観客を魅了した。

それから4年、本作の完全版シナリオや寄稿などを集めた書籍『はちどり 1994年、閉ざされることのない記憶の記録』の邦訳版が、3月28日に刊行された。今回CINRAでは、邦訳版に収録されたキム・ボラ監督のロングインタビューの一部を、前・後編にわけて特別公開する。

前編:韓国映画『はちどり』がもたらしたもの。キム・ボラ監督に聞く「映画は大きな力を持っている」

キム・ボラ監督、ヨンジ役のキム・セビョク、ウニ役のパク・ジフ

―『はちどり』をつくったきっかけをあらためて教えていただけますか。

キム・ボラ監督(以下敬称略):『リコーダーのテスト』 という、『はちどり』の前日譚のような短編映画をつくりました。ウニという、幼い女の子が主人公なのですが、その子がどのようにして育っていくのかが気になる、という観客がたくさんいたんです。だから、ウニを主人公にした長編映画をつくってみたいと思うようになりました。

―監督と主人公であるウニには、似ている点はあるのですか。

キム・ボラ:自分の感情に近い部分を挙げれば、幼い頃、ウニのように社会に属していない感覚があったこと。ウニが感じた絶望のようなものは、わたしの奥深くから引き出されたもののように感じます。わたしはウニのように勉強をあまりせず、漫画をよく描いていました。あと実は、学校に行くことが好きではなかったんです。小学生の頃に嫌だったのは、先生が生徒を順位付けすることです。子どもに恥ずかしい思いをさせるために、一位や最下位の人を発表する。当時、すごく頭にきて、宿題の日記で先生に抗議しました。子どもの頃から正義感が強かったんです。

―映画でも学校の先生が「不良の名前を書きなさい」と言うシーンや、生徒たちが「ソウル大に行く」とスローガンのように言うシーンがありますね。

キム・ボラ:スローガンはフィクションです。でも、ソウル大に行くプレッシャーは、わたしの学校のみならず韓国中の学校で同じようにありました。SKY(ソウル大、高麗コリョ大、延世ヨンセ大)進学特別クラスが設けられた学校もあるんです。普通のクラスは扇風機なのに、特別クラスにはエアコンがあった(笑)。劇中のスローガンは面白いから入れたフィクションですが、それは誇張ではなく、実際のほうがもっとひどかったんです。

―本書のまえがき(作家のことば)には、「ヨンジだと思ってシナリオを書き始めたが、自身のなかのウニと何度も出会うことになった」と記されています。もう少し詳しく聞かせてもらえますか。

キム・ボラ:わたしはヨンジよりも年上なので、ヨンジの立場で誰かに癒しを与える映画をつくりたいと思いました。ところが、シナリオを書いているうちに、自分のなかに潜むウニを見つけたのです。誰でも自分のなかにウニがいます。まだ答えが見つからない子どもの頃からの宿題。文章を書きながら突き詰めていくと、自分のなかのウニの存在に気づいたんです。その存在と距離を置き、バランスを取りながらシナリオを書きました。なぜなら、距離をうまく取らないと、内容が台無しになってしまう可能性があるからです。そして、一番避けたいと思ったのは、「自分を憐れむ」ことです。なので、そういったものをうまく整理して書きました。

―『はちどり』をつくるのは苦しい作業だったと過去のインタビューで語っていますが、どんな点がつらかったのでしょうか。

キム・ボラ:資金を集めるのが一番大変でした。シナリオを書く作業においては、わたしは文章を書くのが好きなのでつらくはなかったです。もちろんストレスも感じましたが、それは自分でコントロールできることでもありました。しかし、お金を集めることは、自分だけの力でどうにかなるものではありません。制作支援金に応募して何度も落ち、投資もまったく集まらず、つらかったですね。

―それはどうしてだったのですか。

キム・ボラ:商業映画業界で、『はちどり』に投資しようとする人はひとりもいませんでした。商業性がない作品だから。でも、ドアを叩いてみようと、8か所ぐらいにあたってみましたが、全部断られましたね。それで、映画振興院や、ソウル映像委員会など公の機関の支援に応募して少しずつ集めていったのです。たとえばアメリカのサンダンス映画祭で編集に対するフィードバックをもらったり、釜山国際映画祭を通じてポストプロダクション作業のサポートを受けたりしました。だんだん企画書を書くのがうまくなっていきました(笑)。目をつぶっても書けるぐらいです(笑)。

―『はちどり』は監督自身の実話をベースにしていたのでしょうか。

キム・ボラ:同じ質問をよく受けました。「イエス」と答えるのは難しいですね。映画は、創作であり虚構です。映画は、監督自身の話が少し入っていたとしても、監督自身の物語とは言えません。自分の話といえば、嘘になります。少しだけつらかったことを、大げさに表現したりするので…(笑)。逆に、すごくつらかったことは描かなかったりもしています。

実は、「家族の話は実話なのか」という質問は、意味がないようにも感じます。映画や小説などの作り手であれば皆、ある作品に家族の話がどれくらい盛り込まれているかは、気にしないはずです。なぜなら、実話をベースにしていても、作品を構成する段階でまったく別の物語として創造すると知っているからです。多くの人が同じことを尋ねるのですが、それは芸能人の私生活を知りたがる記者の質問のように感じることがあります。本質から離れた質問だと思います。

『はちどり』はたくさん賞をとり、韓国の観客たちは、自分や自分の子どもがいかにウニに似ているかを語りました。それはわたしたちにとって、共通の歴史の記憶なのです。共通の歴史を個人的な物語のようにつくり上げた監督としての演出手法について尋ねていただければ、人々の声をどのように作品に盛り込んでいくのか、具体的にお話しできると思います。

―わかる気がします。

キム・ボラ:家族の話は、わたしが幼い頃の家族の事情を投影した部分があります。しかし、映画をつくったり文章を書いたりする人であれば共感すると思いますが、作品がすべて自分の実話だというのは、ありえないことです。つまり、ウニの家族については、わたしの家族をモチーフにしている部分もありますが、それ以外はすべてフィクションです。家族についても実話だといえば嘘になってしまうでしょう。実際の話をソフトにしたり、誇張したりしているので。

わたしの母が「家族の話を描いたと言ったほうが、観客の興味を引いてPRになるんじゃないの?」と冗談を言っていました(笑)。公開当時はわたしも「映画のこの部分は自分に似ている」などと話していたのですが、自分の良心に問いかけるうちに、この物語は、あらゆる人の話でもあることに気づいたんです。

―家族は映画をご覧になられてどのような反応だったのですか。

キム・ボラ:映画を観て、家族はすごく喜んでくれました。娘が何年もかかって準備した映画がやっと完成したので。公開された当時、カカオトークのプロフィール写真が、家族全員『はちどり』のポスターでした(笑)。兄も自分の友だちにPRするように声をかけて、スポーツジムにポスターを貼ってもらったり、試写会に呼んだりしてくれました。父も母も近所の友だちと映画を観に行ったり。たくさんの観客が、「どれぐらい本当の話が盛り込まれているんですか?」と家族に尋ねたようです。わたしはそれを知っていたので、父に「同じ質問を何度もされて疲れない?」と聞いたら、父は「心配するな」と言うので、驚きました。

―家族の物語については、本書では「シナリオを書きながら家族と話し、葛藤もあった」と記しています。

キム・ボラ:そうですね。家族の話を書く時は葛藤がありました。「家族」というもの自体が、葛藤なのだと思います。毎日会って、一緒に暮らしているので。そのような葛藤を解消していく過程でもありました。それでも、家族はシナリオを書いていることを知っていたし、すごく応援してくれました。家族を理解し、和解を経て、距離を置き、フィクションであることを前提にしたからこそ、書けたのだと思います。自分の境遇を憐れむのではなく、外から見ているような客観性。そのためには、映画をつくる前に、家族との関係を浄化してから、整える過程が必要でした。

―その浄化や整理といった過程はどのように行われたのでしょうか。また、映画で描かれていたような父や兄との葛藤はあったのでしょうか。

キム・ボラ:学生時代からもう20年が経ちました。いまはもう過去形の出来事であって、だからこそ描くことができたんです。長い時が経つうちに、家族との関係は確実に変化していきました。過去に、葛藤したり和解したり、許し合ったりするということがあったのです。

父は韓国の典型的な家父長制における父親でした。それについてわたしは20代の頃、父と何度も話をし、父は何度も謝りました。映画に登場するウニの家族は、当時の韓国人にとって「正常な家族」でした。つまり、「特別ではない」よくある一般的な家族像なんです。

―映画は韓国やアジア圏のみならず、世界中の人々も惹きつけました。

キム・ボラ:『はちどり』をつくりながら、多くの人たちと話をしました。たとえば、両親が喧嘩して翌日何事もなく過ごすことに対する不思議な気持ち。それを友だちと話してみると、みんなが同じような経験をしていることに気づいたんです。

「ああ、これは共通の体験なんだ」と確信を得て、多くの人が共感できるようなエピソードを映画に盛り込みました。これは監督として、「共感を得られそう」だという、作り手の緻密な計算とも言えます。それに、計算するのは悪いことではありません。映画は面白くなければいけないし、当然たくさんの観客を集めなければならない。観客の心を惹きつける要素のなかに、自身の経験と重なる要素もいくつか入っていて、そのひとつが家族の話だったというわけです。

―多くの人を惹きつける物語はどのようにつくり上げていったのでしょうか。

キム・ボラ:映画をつくり始めた当初から、開かれたみんなの作品にしたいと思っていました。映画祭で出会った外国の記者の方にもたくさん話を聞いてみたんです。特に覚えているのはスウェーデンの方が、過去について語ってくれたことです。その方は学生時代、いつもランチで買ってきたものを食べていることが、恥ずかしかったと。わたしにはそれが中高生が感じるような気持ちと似ていると思えました。周りの人に、からかわれることに対する恥ずかしさ。

ちなみに、冒頭のシーンは兄の友達に聞いた話を盛り込みました。兵役を終えて帰宅した時、犬の吠える声が聞こえたというんです。入隊する前は犬を飼っていなかったのでおかしい。もしかして自分に知らせず、家族は引っ越したのではないかと思ったそうです。不思議ですよね、そんなことはありえないのに。それで、家の呼び鈴を鳴らすと、母親が子犬を抱いてドアを開けたので、すごく驚いたと。その話を聞いて思ったのは、誰にでも子どもの頃、家のベルを鳴らしても「誰もドアを開けてくれないのでは」という一種の恐れのような気持ちがあったのではないかということです。韓国では同じようなマンションが建ち並んでいるので、違う部屋に間違って行ってしまうというのは、ありえることです。両親のケンカの話もそうですが、人々が子どもの頃に経験した話をたくさん聞いて、共通する経験を映画に盛り込もうと努力しました。

特に女性の中高生時代においての、同性に対する憧れや恋愛感情の話をたくさん聞きました。韓国ではよくあることで、大学に入ると、何事もなかったように消えてしまうのですが。中高生の時に、恋愛感情を表現するために手紙やバラの花を渡したというエピソードなどがありますよね。こうしたものを細かく捉えようと努力しました。また、どの国の人が見ても共感できるように、外国の人にもたくさん尋ねました。その過程が良かったのだと思います。

―だから国境を越えて、さまざまな人が共感したのですね。

キム・ボラ:そうですね。シナリオは共感できる記憶であり、そして共感できる痛みの記録でもあるのです。観た人が「自分の思春期の物語のように感じた」と言った時、わたしは監督として成功できたのだと思いました。

シナリオを書き始めた時のわたしは、やはり自分の物語だと錯覚していたんです。実際、親が餅屋であるという設定やいくつかの出来事が個人的なエピソードであることは事実だから。しかし、書きながらこれは作家が避けるべきナルシズムだと考えるようになりました。その後、「自伝的な映画です」と語る他の監督への、「どこまでが事実ですか」という質問は無意味だと思うようになりました。

―1994年の韓国を舞台にして、実際の事件を盛り込んだことにも意図はあったのですか。

キム・ボラ:1994年を舞台にしたのは、わたしが幼い頃、その時代の空気を一番強烈に感じた時期だからです。聖水大橋の崩落事故(※)は、当時は近くに住んでいたのでとにかく衝撃的でした。橋が崩落した写真や映像はすべての人々にショックを与えました。また、ウニが経験した子どもの日常は、韓国社会の崩壊と結びついていると考えたからです。

幼い子どもが学校でソウル大を目指すように言われたり、長男は大切にされるのに自分はきちんと扱ってもらえなかったり。家庭にも独裁者がいて、民主化は実現されていないのです。食事の時間に話しているのはいつも父親で、母は仕事をしながら家事もしていて、父親は遊びに行くのに、母親は自由に出かけられない。それから、学生運動をしていたヨンジの虚しい気持ち。ウニがクラスメイトに「勉強ができないと家政婦になる」と言われたりすることなどもそうです。そういうことを言う人が実際にとても多かった。なぜなら、親が子どもにそういう話を日常的にするからです。たとえば、掃除をしている人を見て、「勉強しないと、いつかあの人みたいになる」という文化、考えられないような俗物的な文化があるんです。

1980年代まではそんな文化はなかったのですが、資本主義によって、そういう社会になってしまいました。それをわたしは「崩壊」と呼んでいます。教育現場の崩壊、家族の崩壊、子どもたちの崩壊、価値観の崩壊、韓国社会の崩壊。「崩壊」というと巨大な歴史を想像しがちですが、もっと身近な日常に関連したものでもあるのです。#MeToo運動にしても、日常の出来事が発端ですよね。男性が日常的に女性の外見についてコメントをしていたり。そういう小さなことが積み重なって、あの事件が起きたのです。だからこそ、『はちどり』の舞台となった、1990年代も、日常と聖水大橋の事故が結びついていると考え、大きな絵を描いてみたいと思いました。

―そして、それはいまも続いていると。

キム・ボラ:はい。韓国ではいまも胸が締めつけられるような事件が起きています。それは日常と切り離すことができない。わたしはすべてのものには政治が影を落としていると考えています。話し方や服装、どんなカルチャーが好きなのか、本や映画、学歴なども含めてです。それらを映画の物語に散りばめたいと思いました。政治的ないろいろなものが積み重なって、ある日突然崩壊する。そしてそれらはいまでも、同じことが起こり得るのだと。

映画を観た人のなかには、自分の国の出来事に紐づけて考えてくれる方がたくさんいました。日本では、震災に結びつけて語る人もいたし、イタリアの人は、韓国と同じように橋の崩落を経験した話をし、アメリカの人は同時多発テロについて語りました。9.11のあと、人生や人間に対する希望が消えてしまったと。こうした大きな事件と日常の関係を、わたしはこれからも探求していきたいと思います。