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ここがceroの本当の始まり――高城晶平&荒内佑が語る『e o』。真新しいものがなくなり、音楽はどこへ?

2023年05月26日 18:10  CINRA.NET

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Text by 山元翔一
Text by 原雅明
Text by 三田村亮

たとえば、世の中に数多ある音楽作品を「語りやすい作品」とそうでない作品に分けるとするなら、ceroの5作目『e o』は後者にあたるだろう。前々作『Obscure Ride』(2015年)は、ネオソウルやR&B、ニュージャズといったジャンルやサウンドを独自に消化し、コンセプチュアルに制作された傑作であると同時に、本人らも公言しているようにある種「語りやすい作品」でもあった。

「語りやすさ」と作品の強度、クオリティーはおそらく何ら関係はない。実際『e o』は、歌詞とサウンドの関係性がこれまで以上に緊密になっている、という一点から見ても、これまでのceroの作品のなかで一番の音楽的到達点にあると思う。なのだが、この作品を説明したり、語ることはとにかく難しい。

そのことは、本作がコンセプトや指標のようなものを持ち込まずに制作されたことも関係しているのかもしれない。今回の制作はいわゆる曲先で、高城晶平いわく「歌うために選ばれている言葉」によって歌詞は紡がれたそうだ。

この2つの事実から、『e o』の楽曲/サウンドが呼び込むのは、ジャンルやカテゴリー、あるいはテーマ性やコンセプトのような言語ではなく、詩なのである、と強引に解釈することもできる。だかしかし、はたしてこの音楽はどこに向かおうとしているのか。原雅明をインタビュアーに、高城晶平と荒内佑に話を聞いた(※)。

cero(左から:荒内佑、橋本翼、高城晶平)
2004年結成。3人それぞれが作曲、アレンジ、プロデュースを手がけ、サポートメンバーを加えた編成でのライブ、楽曲制作においてコンダクトを執っている。今後のリリース、ライブが常に注目される音楽的快楽とストーリーテリングの巧みさを併せ持った、東京のバンドである。2023年5月、5作目となるアルバム『e o』をリリースした。
※高城晶平の「高」は「はしご高」が正式表記

ー『e o』は3人でつくるところから始まったそうですが、あらかじめ決めていたことだったのでしょうか?

高城:3人でっていうのは『Nemesis』(2021年)からで、その前のシングル『Fdf』(2020年)は『POLY LIFE MULTI SOUL』(2018年)の延長線上の制作スタイルでした。誰かがデモをある程度の完成度にまで持っていって、そこから3人ないし、バンドに展開するというプロセスが『Fdf』まではあったので。

高城:『Nemesis』の制作前にコロナがあったり何だりして、一度あらぴー(荒内の愛称)の家に集まって一緒にゼロからデモをつくろう、みたいな前段階があったんです。それがすごくスムーズかつ流動的な作業で手応えがあったので、3人でつくるというアイデアが浮上してきたんだと思います。

ー『POLY LIFE MULTI SOUL』は、音楽集団、コレクティヴ的なつくり方がひとつできあがった感じがありました。そこからの次というのは意識してましたか?

荒内:意識はしてないですけど……一昨年、ceroが最初のレコードを出して10年ということでアナログの再発をしたんですが、その盤の確認をするために、3人でアルバム4枚を通して聴いたんです。

特に3枚目の『Obscure Ride』(2015年)と4枚目の『POLY LIFE MULTI SOUL』は生演奏主体で、楽曲が変化していく過程を写真のように切り取っていて、録音がゴールではなかった。でも『e o』は、もう最初から絵を描いて色を置いてくみたいな制作で。3、4枚目のようなつくり方じゃなくて、違ったものがいいんじゃないかって意識はありました。

ー1枚目の『WORLD RECORD』(2011年)、2枚目の『My Lost City』(2012年)に近い感じでしょうか?

荒内:近くもあるけれど、ちょっと違う。3人とも宅録出身なんで、自然なやり方に戻った感じがしています。

高城:レコードをみんなで1枚目から順に全部聴く機会はなかなかないし、めちゃめちゃ時間もかかる。最初は盤の軽いチェックだけで「触りだけ聴いて終わりにしよう」って言ってたんですけど、結構楽しかったんです。

特に1、2枚目はすごい情熱に突き動かされて、何かやってやろうっていうものがあるし残ってる、みたいな話をそのときたしかにしましたね。それは大きく影響のひとつにあったかもしれないです。

荒内:初期のceroはDAW(※)をいじくりまくってて、自分たちはこういうのが好きで、やっていたはずだけども、当時は1、2枚目でエフェクトや編集をやりつくした感があったので、次第に生演奏へ興味が移っていったのだと思います。

高城:手近のものでスペクタクルを起こそうとしている感じがあったよね。たとえば2枚目は、はしもっちゃん(ギターの橋本翼の愛称)がお風呂の浴槽にブクブクブクって潜ってる音を録音したりして、演出的な音をいっぱい散りばめてた。

ー今回、他誌でceroのディスクガイドを頼まれて、僕もソロを含めて全作品聴き直したんですが、特に1枚目は展開やディテールが破天荒ですよね。あれを聴くと、「そうか、こういうところから出てきたんだな」と改めて思いました。

高城:そうですね。テンポが1曲のなかでものすごく変化するっていうか、一定のBPMで最後までいくことがほとんどない。

ー『e o』は、「バンド像」みたいな感じがしないという意味では1、2枚目に近いのかもしれないですけど、録音物として本当にすごいところに至った作品だと感じました。

高城:自分らもこの録音物をひとつの完成形として、作業としてもそこにフォーカスした部分は強いですね

荒内:やり方としてはトラックメイキングだけれども、いわゆるトラックメイキング的な音ではないから、ちょっとそこが変なのかもしれないなと。

ービートの組み立て、低音の出方はマジですよね。マジとか、本格的と言うのは失礼ですけど。

荒内:エンジニア小森さんの手腕によるところが大きいです。それに僕は打ち込みがすごい得意なんで(笑)。小学校から打ち込みやって、ceroを始める前に打ち込みに飽きてたんですよね。

高城:たしかにね。そうだったかも。

荒内:結構、長らくそういうのをやってこなくて。打ち込みは時代性がすごく出がちなんで、それが悪いってわけじゃないんですけど、ceroはもうちょっと普遍的なものをやりたかったんです。でも今回は、自然と打ち込みをやる機運になりましたね。

荒内佑(cero)

荒内:あとは自分で言うのもなんですけど、僕は打ち込みが得意すぎて、器用貧乏なとこがあって、何でもできちゃうんです(笑)。

ビートミュージックって基本的には4小節ぐらいのループなわけで、たとえばハイパーポップを聴いても、ビートの特徴とテクスチャーがわかれば、こういう音楽はできるなって思うんです。深めるのはまた別ですけどね。

ー実際はどうやってつくっていったんですか?

荒内:橋本くんがもともと住んでいた吉祥寺のマンションを作業部屋にして、そこへ毎週1回ぐらい、だいたい日程決めて集まって。一番多かった流れが、高城くんが最初の曲の種を持ってきて、それを僕が打ち込んだりして。

ー種っていうのはどういう状態?

荒内:iPhoneのボイスメモもあるし、鼻歌もあるし、その場でつくったものもあるし。宅録でつくってきたものもあるけれども、一度僕のパソコンに入って、だいたい2人でああだこうだ言って、橋本くんは後ろで見てるなり、イヤホンして何か自分のことをしてて。全然わかんないけど何かしてるんですね(笑)。

高城:本当、荒内くんが得意なんですよ。口で「デュワ~ン タカテクテクテクテク」みたいにシンセの音を歌ったら、「とりあえずこんな感じね」とやってくれるのが、もうすごい俺は快感で。

高城晶平(cero)

ーなるほど(笑)。すごく優秀なマニピュレーターですね。

荒内:本当に優秀だと思います(笑)。いまはみんな、優秀だけど、90年代だったら浅倉大介さんみたいな右腕的な人が必ずいましたよね。

ーラップも含め、ボーカルがこれまでよりも格段に曲とのなじみ具合がいい感じがしました。歌うことに関しても変化はあったんでしょうか?

高城:ワーッと外向きに歌うってよりも、ご近所に迷惑にならないようなレンジで歌う、っていう宅録でのスタンスが引き継がれて、本チャンまでそのテンションで行っているのはひとつありますね。

自分の声がそれで充分成り立つようになったんだなって発見もあったんです。やっぱ怖くて、外向きにがなるように歌ってた期間がしばらくあったというか、特に3枚目、4枚目は外に向いて行かないといけない意識が強かったのもあったし、スタジオワークが中心になって、バンドが演奏しているのと一緒に歌ったりするとテンションも外向きになっていくっていう感じでしたね。

高城:1枚目、2枚目はインナーワークっていうか、スタジオワークよりも家で、というテンションだったから、今回はその点も少しデジャブがあったりするんですけど。それもまたトラックとのなじみのよさにつながったのかな、とか思いますね。あと小森(雅仁)さんの歌の出し方がこれまでのエンジニアさんとちょっと違うアプローチだったんです。

ーエンジニアワークは具体的にはどんなところに違いが?

高城:『Nemesis』が皮切りになったんですけど、これまでのceroは「僕たちは歌を中心にするようなグループじゃないんですよ」みたいなエクスキューズがつねにあって、「どっちかというと全体の構造を見てほしいバンドなんで」みたいなことをエンジニアさんに感じとってもらっていたところがあって。

それが自分たちのスタイルだと思ってやってきたんだけど、不思議と小森さんと初めて『Nemesis』をつくったときに、うちのバンドはこういう感じなんです、みたいな指示が特になかったんですよね。何となく好きにやってみてくださいみたいな感じでやったら、ぐんと歌が前に出て。その感覚がすごく新鮮で。

高城:「この人たちはたぶんナチュラルなものが好きなんだろうな」って、みんなあんまり触らないでくれていたと思うんです。それが小森さんは歌のピッチ含めかなりラディカルに触って、最初にあがってきたミックスは声もオートチューンぐらいの感じだったんです。

そこまでは僕たちもちょっと抵抗があったんですけど、でも触ってもらうことは新鮮味を感じたんで、その中間ぐらいを探ってもらって、あの感じになった。ちょっとシンセみたいな艶やかさを持った声ですね。

ードラムもあまり生音っぽく聞こえないのも、これまでにはない感じでした(※)。

高城:「これは後に生ドラムに置き換えますよ」みたいな生ドラムを再現した音色があるじゃないですか。それが結構そのまま最後まで残っている。

荒内:いまだったら「打ち込みだけど生にしか聞こえない」みたいなもっと精度の高い音もあるから、半端と言えば半端な音で。

ーでも、その微妙なラインの音がちょうど気持ちよかったですね。最終的な音ができあがって、それからミックスというわけでもなかったんですか?

荒内:今回、「プレ・ミックス」って謎の言葉を使ってて(笑)。曲づくりしながらミックスしてて、高城くんがたとえば「もうちょっとシンベを出してほしい」と言ったりするんですね。

高城:これはあとでやる話なのにな、みたいなことをね。どこからが小森さんの作業なのかよくわかってなくて、今回すげえ、あらぴーに注文したよね。

荒内:その「プレ・ミックス」を最終的に小森さんにリファレンスとして聴いてもらって、結構そこに忠実にやってもらったところもあります。いまは作曲とミックスの境もなくなってきてるしね。もちろん最終的には小森さんの音になってますけど。

高城:シームレスにデモから本チャンまでいくっていうね。サザンもそうらしいけどね。聞いた話だけど、桑田佳祐さんも録音しながらミックスの指示をずっとしてるって。

ー1曲ずつ完成していって、アルバムとして形にするにはもう一段階あったんでしょうか? それとも曲が貯まっていったら自ずと完成した?

高城:シングル4枚配信で出していってるときはアルバムのサイズ感では全然考えられなくて、とりあえず「一曲入魂」みたいな感じでした。

3人で集まって何かするっていうことに可能性だけは感じているから、プロセスを繰り返したんですね。ただ、このテンションでやり続けたら、アルバムにできるなと思ったけど、それでいくとベストアルバムみたいな、脂っこい感じのアルバムになりそうな気がしてきて。そこで初めてアルバムに考えが及んできた。

いろんなBPMでいろんな音色の曲があるけど、「静けさ」みたいなものがシングル4曲になぜか通底してあるから、それを引き継ぐようにしてほかのアルバム曲をつくっていこうと。ほかにも「フラクタル(※)な楽曲構造」っていう共通点があって、ハーフで刻んでゆったりたおやかなパートと、ものすごく刻んで性急で切羽詰まったパートが、同時に流れてる感じ。

ー「静けさ」は、最初から意識にあったんでしょうか?

高城:あったかもしれない。最初、「次はどんな感じにしようかね」みたいなぼんやりした打ち合わせのときに、『POLY LIFE MULTI SOUL』は演奏してて疲れる曲が多くて「ライブの終わりにへとへとになるんだよなー」って話をしてて。

荒内:高城くんがね。

高城:俺が特に疲れちゃっててね。あと、みっちゃん(サポートドラマー光永渉の愛称)もそうなんですけど。「次はもっと悠々やれる曲が集まってるやつがやりたいなー」とか「ceroもちゃんと年を取っていきたいよね」とか、そういう会話も「静けさ」って部分には多少作用してたかな。

荒内:高城くんの基本的な属性として、静かなものが好きだよね。

高城:リスナーとしてそうかも。ここ最近のライブでは、『POLY LIFE MULTI SOUL』みたいな楽曲を「静けさ」を持ってやる術を学びましたけどね。それこそこのアルバム制作によって、「なるほど、熱そうな曲だからって別に熱くやらなくてもいいんだ」と学んだんです。

ー「静けさ」が基調にあっても、『e o』は静謐でゆっくりとした音楽ではなく、いろんな音が鳴っているし、スピード感もあります。その対比的な要素はどれぐらい意識されてました?

高城:時間の流れって相対的なもので、関係性によって決定するじゃないですか。これ(トン・トンと机を叩く)に比べたらこれ(トン・トン・トン・トン)のほうがスピードがあるし、こっち(トン・トン・トン・トン)を軸に考えたら、こっち(トン・トン)はゆっくりだって言える。そういう相対的な関係でしかないものだから、たとえばBPM70(※)ってゆっくりと感じるけど、そのBPMで倍で刻むものはBPM140なわけですよね。

シカゴのジューク/フットワークって速いような遅いような変な感じじゃないですか。速いビートをあのフットワークで表現してるから速い音楽のようだけど、後ろですごいゆっくり刻んでいるものもあって、なんか変な感じになる。静かなもの=ゆっくりなものとは限らないわけで、「静けさ」っていうのも相対的なものなんじゃないかなと思いますね。

荒内:高速道路を車で走ってるときとか、飛行機のなかとか、何百キロとか出てても、静かだし、速さと静けさは相反するものでは全然ないと思う。

高城:たしかにね。どっちかっていうと、そういうところに自分の興味は惹かれるのかな。自分は静かなもの好きと話しましたけど、いわゆるアンビエントってあんまり聴かないですよ。鎮静効果を求める、とかではなくて。

荒内:たとえば山本精一さんのギターは轟音を出してもすごく静かな印象がある。

高城:羅針盤とかね。

荒内:そうそう。STRUGGLE FOR PRIDEとかも、めちゃくちゃ静けさを持った音楽だと思いますね。

ー1曲目“Epigraph”の<真新しいものがなくなりようやく/静けさの中ページが開く>という歌詞にも「静けさ」は象徴的に登場しますね。

高城:ようやくceroの音楽を始められるな、みたいな土壌が、ふっと気がついたら現れていたってことを、その一節で表現したかったのかなと思いますね。

新しいジャンルとかトレンドをスピード感持って自分たちのものにして、カメレオンみたいに擬態していく、みたいなこれまでのスタイルは一度やりつくしたというか、一段落した静かな瞬間があって。そこに何かが宿るっているんじゃないかっていう、ceroの歩みについて言及している部分もあるのかなと思います。

荒内:ジャンルミュージックから離脱したいというのはひとつあって。たとえばハッシュタグ文化みたいに言葉を断片化したり、意味を軽量化して高速で流通させることに対しても、すごく疲れていて、抵抗感もある。だから、ジャンルとかタグといった情報の煩さを避けた結果の静けさ、というのが今作にはあるのかな。

ー『e o』の曲は基本的に3分から4分で長くないですね。曲の長さ、時間に対しての意識も変わったところがあったのでしょうか?

高城:これまでは結構長かったですからね。でも今回は、頑張って頑張って3分にするぐらい、もっと短かった。宅録している段階で、「やっと2分か。これで済ましちゃってもいいけど、もう1アイデアで肉づけして3分ぐらいか」という感じでした。

よく話していたのは、「サム・ゲンデルだったら絶対ここでOKにしてたよ」ってことで(笑)。1~2分のフラグメントみたいな段階で留めても面白かったと思うんですけど、一応歌があるので、言葉が必要とする時間尺がある程度あるから、3分ないし4分、その辺のサイズになった。

ーゲストのミュージシャンも必要最低限に留めた感じですか?

高城:そうですね。

ーシングルで出した4曲以外はコーラスを高城さん1人でやっていますよね。

高城:『POLY LIFE MULTI SOUL』では僕1人で済みそうなのも全部別の人に頼んでて、いろんな種類の声が鳴っているようにして多彩さを出したかった。

だけど今回、特に“Nemesis”は『POLY LIFE MULTI SOUL』の延長線上でいろんな声を入れたいと最初言ってたんだけど、「いろんな人の声を入れてゴスペルっぽい印象が強くなるのは、たぶん違うんじゃないか」「なるべく高城くんの声でやることで、もうちょっとパーソナルなものに仕上げてったほうがいいんじゃないか」って荒内くんから言われて。“Nemesis”はキーの問題もあって、女性の声が必要となって、最終的には僕と小田ちゃん(小田朋美)、角ちゃん(角銅真実)となったんですけどね。

コーラスも必要なところだけお願いして、基本的には自分の声でやったほうがいいっていうのも、曲を積み重ねるごとに出てきた特徴のひとつで、これはたぶんアルバムに必要な要素なんだろうなと。さっき言った「静けさ」や「フラクタル的な構造」と同じような次元で、「なるべく声の種類を増やさない」というのもルールのひとつとして、いつの間にか出てきました。

ー楽器の数もそれほど入れてないように感じられました。

荒内:そうですね。曲によってですけど、どの曲も1音だけ、一瞬しかないトラックがいっぱいあって、100トラックぐらいあるのに楽器の印象でいったら少ないかもしれないですね。

ー今回、言葉が音とともに自然に入ってきて、最初からとてもなじんでいる感じがしました。歌詞を書くことに関して、これまでと変わったところはあったのでしょうか?

高城:前に『文學界』って雑誌にも書いたことなんですけど、自分の歌詞は割と物語志向、叙事的なスタイルを持っていて。起承転結をアルバムのなかに入れ込んで、1曲1曲を漫画のコマみたいな感じで配置することで大きい絵をつくっていく、みたいなスタイルを好んで使ってるんです。

たぶんそれって脳ミソの使い方としては、楽曲をつくることや歌うこととはちょっと離れた次元にあるもので、割と歪なところがあったと思うんですよね。

高城:それがceroの特徴にもなっていたと思うんですけど、本来歌う言葉じゃない言葉の並びを、どこか無理やり歌ってるところがあった。叙事ということ、エピックであることを重要視しているから言葉も多くなるし。そうやって楽曲づくりと言葉の関係にこれまでのceroはどこか齟齬があって、それがひとつの面白味でもあり、ネックにもなってる、みたいな状況だったと思うんです。

今回、そういうつくり方より、だんだんとより叙情的な、リリックな言葉選びに興味を見出していくようになったところがあって。リニアに時間が展開していくよりも、意味を切断していくような「詩」らしい広がり方をceroが持つこと、そういう領域にいってみたいって思うようになったんです。

さらに言うと、曲が先行してできあがって、言葉は最終段階でつけたのもあって、より楽曲となじみがよかったんだろうなと感じてて。「歌うために選ばれている言葉」って側面が、以前より強くなったことも影響しているような気がしますね。

ー音も歌詞もとてもパーソナルに響いてくることも含めて、『e o』の音楽は、日々の生活や、少し長いスパンで生きていくなかで「音楽はこれからどう機能するんだろう」ということを照らし出してるように感じました。というのは、いま自分が緑化事業をやっている会社とともに環境と音楽をとらえ直すプロジェクトに関わっているのもあって、ジャンルとしての狭義の環境音楽やアンビエントではない音楽の在り方のようなことを考えているからでもあるんですが。

高城:おっしゃってることよくわかるっていうか、ceroの音楽はファインアートっていう立ち位置を持つのがいいのではないか、ってことをよく言うんです。

ポップアート的な、消費されていく商業音楽とも、もっとハイカルチャーな気難しいようなものとも違って、普通に言葉があって、気兼ねなく鑑賞できるアートみたいなものをceroとして目指していきたいなと漠然と思っているんです。

高城:単純な例で言うと、デヴィッド・バーンってそういうスタンスでものづくりをしてるような感じがします。あの人の振る舞いや歌い方って、すごい神経症的なアングロサクソン、みたいな感じじゃないですか。

荒内:めちゃくちゃパワーワードだ(笑)。

高城:(笑)。でもそれがユーモラスになってるわけじゃん。あのギクシャクして青ざめた男がやってる動きがなぜか可愛らしくて、何かユーモラスになってしまっていること自体が社会的なメタファーになってて、しかもそれを自分の身体を使ってポジティブに転嫁しようとしている。

それって単純明快にして、わかりやすくて面白いですよね。単純明快にして、みんなの何かが高まっていく。ceroの音楽もそういうものとして聴かれることが大事なのかなって最近思っています。

荒内:とかく音楽の専門誌とかウェブサイトはだいたい固有名を羅列して語りがちだけれども、何かのジャンルをトレースしたり、リファレンスを持ってくるんではなくて、もうちょっと自由にできるんじゃないかなってことは今回よく考えていて。

たとえば、コップを2個並べて音を鳴らして、その上にこれを置いたら(と言って、机の上にあったカレンダーをコップの上にかざす)、どんなふうに音は反響があるだろう、みたいな。DAWでやってても、いまはそういう音楽のつくり方が自然だと思うし、新しいものができてきそうだなって予感もあります。

ー荒内さんはソロアルバム『Śisei』(2021年)のときは、譜面で作曲してましたよね。そこから、戻ってきたという感じでしょうか?

荒内:どうだろう。譜面でつくるってことは、楽器で実際に音を出してもらうまで完成形を聴けないので、デモをつくり込んでも本チャンに反映されないもどかしさがあったんです。そこがひと段落したから、今回は得意なこと、ってことなんじゃないかなと思いますけど。

高城:とはいえ、俺が何となく鼻歌で提供したものを、あらぴーは単純に作業上の必要として譜面化したり、ソロでやっていたことが引き継がれてもいたよね。

荒内:たしかに。こんなアルバムだけど、結構譜面になっています。アルバムの制作の後半に自分が主体で書いた曲を提出したんですけど、高城くんの歌唱法もなじみのよいものに変わってたし、言葉の数も以前より減ったことで自分が得意とするメロディーともマッチするようになったんで、すごく曲が書きやすかったですね。

ー『e o』の曲はライブではどうなるのですか?

高城:一昨日にフェスに出て、何曲かほかのアルバムの曲を含めて演奏して、やっぱり課題は曲が持ってる「静けさ」をいかにライブに活かすかってことなんだとわかってきた。速い曲、グイグイいくような曲であろうと、どっかしら「静けさ」みたいなものを残さないといけない。

たとえば、“Fuha”だったら、3拍子だからってそれをいちいち表に出してはなくて、ドッカチカチカっていうドラムのブレイク的なフレーズとか、チンチンチーンってライドシンバル的な音の刻みがテクスチャーとしてレイヤーされてあるけど、ずっとハイハットでリズムを刻んであげてるわけじゃなくて。そのことによって「静けさ」がたぶん生まれているんですよね。

高城:ずっといなきゃいけないハイハットとかバスドラみたいなのがない。そういうリズム的な軸を取り払っちゃって、パーカッションみたいに部分的に配置された音が流動的な軸になって、時間の経過とともに走ってるグリッド(縦のライン)を感じさせる、みたいな。たぶんそのことが「静けさ」の要因のひとつだと思うんです。

ーつまり、リズムの軸を取り払ったところに音楽的な「静けさ」があるということですね。

高城:ときどきceroのインタビューで挙がる数少ない固有名が、フランク・オーシャンの『blonde』(2016年)で。キックがあってスネアがあって、そのビートにラップが載ってヒップホップっていう構造が、もうあのあたりで完全に相対化されたじゃないですか。

ギターと声しかないけどヒップホップとしか言いようがないものが、だんだん出てきた。音の取り扱い方、テクスチャーの取り扱い方と押し出し方で、ビートレスなのに首が振れてしまう音楽が生まれた。

高城:それってたぶん、「みんなのなかにあるグリッド」が反応してるってことだと思うんですよね。言葉のくさびと、ギターとかふわふわした音が持つくさびが首を振らせる。そういうことが結構ヒントとしてあったような気がして。

荒内:通底してハイハットの刻みがあるとか、強拍(4拍子における1、3拍目)にバスドラがきて、弱拍(2、4拍目)にスネアがくるみたいな、そういう構造に何の疑いも持たないことが自分には不思議なんです。

ポップスができてたぶん100年ぐらいだと思うんですけど、ドン・タン・ドン・タンってずっとやっていますよね。そうではないやり方を模索していくなかで、抜いていく方法だったり、アクセントの置き方に意識が向いて、あるいはもう取っ払っちゃって断片化してしまうとか、そういうことは考えてました。けど、何かを表現したくて、こういう構造にしました、みたいのは別にないと思います。

ーこういう制作の先に、先ほどの音楽がどう機能するのかとか、その先に新しい音楽の形があるのかということを考えたりしますか?

荒内:考えますし、何かありそうな気がします。僕、The Beatlesを聴いたことなくて、今回制作にあたって、全部聴いたんですよ。“Across The Universe”って、ギターのボディを叩いているか、バスドラかわからないけれど、何かが小さくドンドンって鳴ってるじゃないですか。

現代においてこういうリズムをやるなら「四つ打ちでやりましょう」って言葉を使うと思うんですけど、その「四つ打ち」が意味するところは、現代ではテクノやハウスとかが含意されてしまっている。

テクノやハウス以前の四つ打ちの状態、“Across The Universe”における四分音符のあり方は、全然揺れてるし、音質面でももっとしょぼしょぼで、ただの拍子をとっている四分音符なんですよね。

荒内:そういった視点の転換のもと、「四分音符の何かが刻んでいる」ってその音をとらえると新しい音楽のつくり方ができそうだなって思います。やっぱり、それこそ言葉にとらえられすぎている節があるなと。

ー『e o』はどれか1曲を取ってきて、このアルバムを説明するのはなかなか難しいです。聴く人によって引っかかるところも違い、とらえ方も違うように思います。それは、今日話していただいプロセスを経て、多様な表現を呼び込めたからではないかと感じました。

高城:ありがとうございます。これがceroのシグネチャーだって言えるもの、意識的にそういうものをもたらすことができたと思います。

これまで偶然によってしか出せなかった「ceroらしさ」が、もうちょっと論理立って出せるようになったところがある。そのことを本当に大事にしていきたいなってところですね。

ceroへのインタビューを過去に二度行なったことがある。そのときは、できあがった作品の背後にある文脈やリファレンスのポイントを見つけ、それについて話を訊くことが楽しみでもあった。しかし、今回はまったくそういうところが見えないまま、インタビューに臨んだ。

『e o』というタイトルは、ceroの「c」と「r」を隠したセルフタイトルだ。それはちょっとした言葉遊び的なものだというが、このインタビューで幾度か現れた「軸」なるものを取っ払い、構造の中心にあるものを抜き去る所作を静かに提示している。

漠然とした大枠としてのジャンルから少しだけ離れたところで、日々そこにあって、聴かれていく音楽がある。オルタナティブがオルタナティブというジャンルになってしまったように、そうあることは儚い夢想に思わせるかもしれないが、そんなことはない。大文字のジャンル音楽を聴きながら、人が感じとることは千差万別に個々人のなかにあるからだ。

正解や答え合わせを求めて音楽を聴くことがあってもいいし、それも音楽の聴き方のひとつだとも思うが、その危うさやそこから離れる自由を伝えるのもまた音楽だ。だから、音楽は人の機微に触れる。それは、『e o』の精緻かつ精妙でダイナミックでもある音楽に惹かれる理由でもある。この音楽が向かおうとしている先が朧気ながらも見えてきたように、いま感じている。