2023年05月24日 11:51 弁護士ドットコム
「人種・宗教・国籍、政治的意見または特定の社会的集団に所属するという理由で、自国にいると迫害を受けるおそれがあるために他国に逃れ、国際的保護を必要とする人々」
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日本が1981年に加入した難民条約は「難民」について、こう定義している。しかし、これまで多くの弁護士や支援者が指摘しているように出入国在留管理庁(入管)の「迫害」についての解釈は、欧米諸国と比べて限定的で、当事者にとって相当に厳しい。
たとえばミャンマーでは、2021年2月の軍事クーデター以来、政情の悪化が懸念されているが、これまでより増えたといわれる難民認定者(2022年・202人)の中で、ミャンマーの出身者は26人に過ぎない。
高校生だった20年以上前から民主化運動に関わり、何度も軍に拘束されたミャンマー出身のミョーチョーチョーさんは2006年8月、このままでは命が危ないと来日した。だが、今年2月、3度目の難民申請が棄却され、現在は棄却についての審査請求をおこなっている。
民主化運動に対する軍からの攻撃、刑務所収容、身体に残る傷あと、国家による少数民族への弾圧。日本に庇護を求める難民申請者に、入管はどう対応しているのだろうか。 (取材・文/塚田恭子)
ムスリムの少数民族ロヒンギャのミョーさんは1985年、ミャンマー南西部のラカイン州で生まれた。彼が2歳のとき、家族は首都ヤンゴン(当時)に移った。
「ムスリムの家に火がつけられるなど、村が軍に攻撃されたと、母からは聞きました。そもそもロヒンギャは当局の許可なしに居住区から出ることもできないので、賄賂を払ってラカイン州から逃げたそうです」
ロヒンギャの人たちは、ミャンマーで長く弾圧されてきた。1982年の国籍法で彼らの国籍を奪った政府は、国内でロヒンギャという言葉を使うことすら認めず、今も彼らを「不法移民扱い」している。
2012年6月にラカイン州の州都シットウェで起きた暴動後、彼らはインフラのない土地に強制隔離された。2017年8月州北部で起きた暴動以降、これまでに79万人以上が隣国のバングラデシュに逃れた。ロヒンギャへの差別や迫害は、日本人の多くにとって想像が及ばないほど激しい。
こうした事情から、ミョーさんはヤンゴンで「自分はラカイン州出身のムスリム」とだけ言って、ロヒンギャとは名乗らなかったという。
「ロヒンギャは国民と認められていないので、ヤンゴンの学校にはミャンマー名で通いましたが、学校でもいじめや差別はありました。ムスリムとわかるだけで、先生の態度が変わるんです」
自由を求めるミョーさんは民族差別、そして軍による独裁政権への反発から、高校1年のとき、アウンサン・スーチーさん率いるNLD(国民民主連盟)の民主化運動に参加した。
「両親は私の活動について『危険だけれど、国のためにやろうとしていることは間違っていない』と受け入れてくれました。父には『応援しているけど、充分気をつけて』と言われましたが、母は、私が家を出るときは心配していつも泣いていました」
ミョーさんの身体には、軍との闘いで負った傷あとが今も残っている。
「あるとき軍のトラックがモスクの近くに停まりました。彼らはそこで軍服を脱いでお坊さんの袈裟を身に着けると、モスクに石を投げ、壁に悪口を書いて逃げたんです」
仏教徒とムスリムの対立を煽ってもめごとを起こす。こうした軍の卑劣な行為を目にし、仲間とともにミョーさんがトラックを追いかけると、軍は攻撃をしてきた。
「ミャンマー軍や警察が所持する銃の先にはナイフがついているんです。発砲する代わりに、ナイフで刺されたのがこの傷です」
何度か拘束され、最後は多くの人が「地獄だ」と口にするインセイン刑務所に収容された。ここで拷問を受けたミョーさんには、もう海外に逃げることしか選択肢はなくなっていた。
「どうしてこの国は、ただ平和と真実を望む若者にこんなひどいことをするのだろう。民主化を求めて行動するだけで私たちは重罪にされるけど、軍が人を殺しても何の罪にも問われません。
このままでは、自分の望む道を歩めないまま人生が終わりかねないし、母は私を心配して倒れてしまうかもしれない。私を留置場や刑務所から出すために渡す賄賂で、父のお金もどんどんなくなってしまう。毎日泣きながらいろいろ考えて、海外に逃げるしかないと思い至りました」
ミャンマー国内で逃げても意味がない。それどころかもっと大変になってしまうとミョーさんは言う。
「軍は私を探し出すために父を勾留し、(私の)居場所を口にするまで拷問します。身柄を解放してほしければと、賄賂も要求します。だから逃げるなら、海外に行くしかありませんでした」
政府に無国籍扱いされているロヒンギャが国外に出るには、多くのリスクがある。パスポート、航空券の手配、飛行機に乗るまで税関や軍のチェックポイントをどう通過するか。日本での入国審査を無事済ませることができるか。すべてはブローカーに任せるしかなかった。
当日、「今日の夕方の飛行機でミャンマーを出国する」と言われて、ミョーさんは仲間の誰にも別れのあいさつをできないまま国外へ逃れた。
当初、行き先も知らされてなかったものの、日本が難民の保護・受け入れを表明していることを国際ニュースで見ていたミョーさんは、行き先が日本だったことを知ってうれしかったという。
「来日直後、8月8日には、88の大きなデモ(*1)に参加しました。デモに参加しても、逮捕される危険がないどころか、警察官が同行までしている。ミャンマーではありえないことで、本当に感動しました。難民申請もすぐにしました」
だが、難民申請のインタビューで、ミョーさんは問題にぶつかった。
「私が説明している最中に通訳者は『そういう発言はしないほうがいい』と言って、話を遮るんです。『事実を伝えないでどうするの?』と私が言うと、通訳者は『入管が怒るよ』と言いました。
通訳の仕事は、私の話をきちんと伝えることなのに、これでは駄目だと思ったけれど、他の人に代わってもらうこともできません。きちんと話ができないまま、インタビューは終わりました」
入管はインタビュー後、この日ミョーさんが話したことだといって書面を差し出し、日付と署名をするよう促した。
当時、日本語が充分ではなく、書かれている内容がわからないままサインをした書面の文章が、自分の話したことと違うことをミョーさんが知るのは、1度目の難民申請が棄却され、2度目の難民申請をしたときだった。
「最初に私が主張した話を2度目の申請時に伝えると、入管は『いえ、違います。前回、話した記録はあるし、あなたはこの書面にサインをしていますから』と言いました。わからないままサインさせられた書面は、普通に考えれば、難民申請者自身が言うはずのない内容でした。
日本語ができない難民申請者に、入管はそういうことをするんです。それ以降、入管にサインを求められても、『ごめんなさい、サインはできません』と言っています。話したことをその通り書いてくれればいいけれど、そうじゃないから怖いんです」
日本の入管は当事者の話を聞こうとしない――。難民審査のインタビューを受ける中で、ミョーさんはそう感じざるをえなかった。
「インタビューでは、留置場や刑務所で受けた暴力について繰り返し聞かれました。ムスリムで、ロヒンギャで、ミャンマーで軍政に異を唱え、民主化運動をして受けた暴行の傷あともある。それでも入管は『あなたはラカイン州ではなく、ヤンゴンで暮らしていたんだから、危険はなかったのでは』と言ってくるんです」
先進諸国の難民認定機関が、申請者が難民として認められなかった際、迫害を受けることを心配するのに対して、日本の入管は「この人は難民じゃないのでは?」という疑いから始まる。このように入管には、外国人を保護するという視点が欠けている。
「入管は逮捕状など証拠を出せともいいます。日本なら当然、令状は出るでしょう。でも、今、報道されているようにミャンマー軍は令状など出さずに市民を逮捕・勾留し、刑務所内で非公開に裁判を開いています。それでも逮捕状を出せといわれても。返す言葉がありません」
日本でも、BRAJ(在日ビルマロヒンギャ協会)で活動し、軍のクーデターに対して闘っているミョーさんに、入管は「国に帰れ」と言う。だが、ミャンマーに彼の帰る場所はない。
「ロヒンギャ問題で、家族は2018年にバングラデシュの難民キャンプに避難しました。3回目の難民申請では、このことも入管に伝えています。申請書に書いたことはすべて事実です。法務省が在ミャンマー日本大使館に問い合わせれば、それはわかることです。私が日本に来たのは命の危険があったからです」
今年2月、棄却された3回目の難民申請の通知には「難民該当性が認められない」と記されているが、具体的な理由は明記されていない。
今、ミョーさんは「本国情勢を踏まえた在留ミャンマー人への緊急避難措置」により、半年間、週28時間の就労が可能な「特定活動」という在留資格で日本にいる。だが、これは文字通り緊急避難的な措置で、情勢次第でいつ送還されるかわからない。当事者にとって、とても不安定な在留資格だ。
先日取材したクルド人のアリさんや、ミョーさんのように、顔を出して声をあげる仮放免者は決して多くない。
「入管ににらまれるというリスクがあることはわかっています。でも、声をあげたことで、支援者や多くの方と出会うことができました。自分ができることを全力でやりたいので、今もいろいろな活動に関わっています。私には帰る場所はありません。私の居場所はここにしかないんです」
(*1)1988年にミャンマーでおこなわれた国民的な民主化運動。ゼネスト・デモが8月8日におこなわれたことから「8888民主化運動」といわれる。