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『老ナルキソス』が描く、ゲイ男性の老いと欲望。東海林毅監督が目指したこと

2023年05月19日 12:10  CINRA.NET

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Text by 生田綾
Text by 佐藤翔

老いを迎えたゲイ男性の性と苦悩を描く映画『老ナルキソス』が、5月20日に公開される。トランスジェンダー女性の俳優をオーディションで起用し、反響を呼んだ短編映画『片袖の魚』の東海林毅監督にとって初のオリジナル長編作となる。

バイセクシュアル当事者の映画監督・映像作家として、性的マイノリティと社会の関わりを作品のなかで描いてきた東海林監督。ゲイ男性の「老後」に焦点をあてながら、現実にある制度を丁寧に描いた理由、映像作品における性的マイノリティの表象の問題について、インタビューで聞いた。

『老ナルキソス』のメインビジュアルより。自らの衰えゆく容姿に耐えられず、スランプに陥っているゲイの老絵本作家・山崎(田村泰二郎)が、ウリセンボーイのレオ(水石亜飛夢)と出会うところから物語は始まる。

―『老ナルキソス』はもともと22分の短編映画でした。まずは、今回長編として製作を決めた理由から教えてください。

東海林:短編版は日本も含めていろんな国のクィア映画祭に出品して、賞をいただいたりもしたんですが、そこで「長編にはならないんですか」って聞かれることは多かったんですよね。ただ、自分としてはあの短編で完結していたので、最初は長編にするつもりはなかったんです。

でも、もともと短編の方は45分くらいの中編のプロットを22分に切り出したという経緯があって。そう考えると、たしかにそのとき描こうとしたものをもうちょっとちゃんと掘り下げて描いてもいいのではという気がしてきた、というのが一つあります。

あとは、短編では高齢のゲイ男性と若いゲイ男性という世代の違う2人の個人的な関係に焦点を当てていたんですが、この設定を使って、いまの日本社会における男性同性愛者の生活というものをもっと描けるんじゃないかとも思いました。

東海林毅(しょうじ つよし)
石川県出身。映画監督、映像作家、CGデザイナー、コンポジター。武蔵野美術大学在学中より活動を開始し1995年東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて審査員特別賞を受賞。バイセクシュアル当事者でもあり、商業作品を監督する傍ら主に自主作品の中でLGBTQ+と社会との関わりを探ってきた。同名の短編『老ナルキソス』(2017)が国内外の映画祭で10冠を獲得したほか、短編『片袖の魚』(2021)では日本で初めてトランスジェンダー当事者俳優の一般公募オーディションを行ない話題となった。

―同性パートナーシップ条例など、いまの日本社会を映しだすようなシーンが印象的でした。深掘りして描く必要性を監督自身も感じていらっしゃったんでしょうか?

東海林:ぼく自身もLGBTという言葉が使われる前から悩んでいた当事者の一人でもあるんですが、やっぱり、その言葉が使われる「以前・以後」みたいな感覚があるんですね。ぼくより上の世代の60~70代以上の人たちはさらにそうなんじゃないかと思います。

同性愛者が周縁化されていた時代を生きてきた人たちと、子どもの頃からLGBTという言葉があり、学校でも教えられるようになって、社会のなかで存在が認識されている状態で生活を始めた人たちのあいだで考え方の違いがあるなというのは感じていて。

ぼくはちょうどその中間の世代なんですが、それは新宿2丁目で飲んでいても、上の世代や下の世代、いろんな当事者の人たちと話していても、ものすごく感じていました。このことはコミュニティーの内側というか、当事者の視点でないとなかなか気づけないというか……逆に当事者じゃなければこれを描くことも考えないだろうというのもあって、だからこそ自分でやりたいという感じでしたね。

―その世代間の違いというのは、東海林監督の視点から見るとどういったものなんでしょうか。

東海林:たとえば、上の世代の先輩たちは同性愛者としていろんな生き方を選んできたと思うんですけど、そのなかにはいわゆる「オネエ」とか、「ホモ」や「オカマ」といった、当事者に向けられてきた差別的な言葉を自分たちのキャラクターとして、あえて結びつけるような生存戦略をとり、社会の端っこで居場所を見つけてきたという経緯もあると思うんですね。

いまこの言葉を発信することはすごく問題がありますが、でもこの社会を生き抜くうえで「わたしたちホモだから、オカマだからね」とあえて自称してきた人たちに対して、ぼくが「それは差別ですよ。そんな言葉を使わないでください」と言えるかといったら、ぼくはやはり言えないと思って。

その人たちの生き方が詰まった呼び名を大切にしたいという気持ちもあるし、ちょうど隙間の世代として、すごく複雑なものがあるんですね。そういった微妙な感覚というのを映画でやりたかったというのがあります。

―作品では登場人物の世代の違いだけではなくて、同性パートナーシップ条例への受け止め方など、いろんなグラデーションが描かれていました。レオのパートナーの隼人は短編版には登場しなかった人物ですが、物語の中心にいる山崎、レオ、隼人の人物像はそれぞれどうやってつくりあげていきましたか?

東海林:隼人は、毎年東京レインボープライドに参加していて、LGBTムーブメントに積極的なタイプと想定していて。きっと人権意識も高く持っている青年だろうなと思っています。

それに対して、山崎は、それこそ同性愛者が社会のなかで周縁化されていた時代を生きてきた人なので、隼人とはある意味対極にいる、考え方も立ち位置も全然違う人物です。

レオはその2人のちょうどあいだにいるというか、ある意味、ぼくの世代の象徴でもあるような存在で……。LGBTの権利回復を訴える若い世代と、山崎たちのように社会運動からは距離を置き、「私たちには私たちの生き方がある」みたいな世代のあいだで、ちょうど揺れている存在をイメージしていました。

―YouTubeで配信されたトークイベントでは、「同性パートナーシップ制度をすごくしつこく描いた」という話をされていました。役所での事務的なシーンを丁寧に描いた背景には何があるんでしょうか。

東海林:制度を使う可能性のある性的マイノリティの当事者でも、意外とその制度がどういうものか、知らない人が多いと思っていて。どこに申請して、どういう書類が必要で、どれくらいお金がかかって、どれぐらい期間が必要なのか。それによって何ができて何ができないのか、当事者ですらあまりよくわかっている人がいないという現状があると思っています。

よくわからないと、それが良いものなのか良くないものなのか、必要か不必要かということはわからないですよね。同性パートナーシップ制度がどういう制度なのか、フェアに伝えられるように、あえて映画のなかでは執拗に、細かく撮りました。

観ていただければ、婚姻の手続きとはまったく違うものだということがよくわかると思います。

役所でのシーンは最初はもっと長くて、さすがに長すぎると思って削ったんですが(笑)、「手数料はこれくらいかかります」という場面とかもありました。自治体によって手続きの内容も保障される範囲も異なるんですが、映画のシーンはある自治体のパートナーシップ制度をモデルにしていて、宣誓の文言も実際の内容に非常に近いものにしています。

―この作品では「老い」が一つの大事なテーマにもなっています。作中、中高年のゲイ男性が集まる食事会のシーンが登場しますが、これは高齢の性的マイノリティがつながる場所を提供しているNPO法人パープル・ハンズの実際の食事会がモデルになっているんですね。

東海林:自分自身がどんどん年を重ねてきているというのもあるんですが、この先どうなるのか考えた時に、ロールモデルとなるのは自分より年上の人たちです。ただ、上の世代の人たちは制度もまったくない、社会的な差別がさらに強かった時代に生きてきた人たちなので、そこにロールモデルを見出すというのはあまり簡単なことではないんです。

そのロールモデルの一つとして、高齢の性的マイノリティで集まって食事会をするという活動があったり、劇中でもありましたが、本来だったら婚姻という制度を使って結婚したいところを、それができないから養子縁組をして法的な保障を受けるという先輩方もいたりしました。

実際に行なわれている持ち寄り食事会を参考につくられたシーン。

東海林:ただやっぱり「これだ」というロールモデルを見つけるのは難しくて。それぞれが社会のなかでどうやって自分たちが最大限幸せになれるか、いまある制度のなかで立ち回っていくかということを手探りで考えていくしかない。そういったことを映画のなかで訴えたかったというのはあります。

ただ、同性婚ができればもっと幸せになれる人や安心できる人は増えるけど、いまそれがないからわれわれには絶望しかないのかといったら決してそうではなく、いろんな生き延び方が当然あるんですね。

それぞれの時代でそれぞれの人たちがつくってきたモデルがあって、そのうえで、同性婚ができないいまの日本で、同性パートナーシップというふんわりとした制度のなかで、家族というものをつくろうとする人たちもいる。そういうことを知ってほしかったですし、その意味では、いまの日本でしかつくれない映画ではないかということは思っています。

山崎のかつてのパートナー、立川幹夫を村井國夫が演じている。

―以前、Twitterで「性的マイノリティはさまざまな要因で孤独に陥りやすい」とも書かれていました。

東海林:同性愛者の場合はまず婚姻という関係が成立しないので、パートナーがいたとしても社会的な保障を受けられる範囲というのは、非常に狭いですよね。そういった問題は山積みだと思います。なかには異性の配偶者と婚姻関係を築いている場合もあって、その人が幸せだったらいいんですが、もしかしたら家のなかに居場所がなくなってしまう人もいるかもしれない。

あとは、やはり同性愛者には独身を貫く人も多いので、その場合は自分の親が亡くなってしまったあと、もう自分ひとりだけみたいな状況にはなりやすいですよね。社交性の高い人だったら持ち寄り会とかにも参加して、お友達がいっぱいできたりもするんでしょうけど、山崎みたいにちょっと偏屈な人とかだと、友達はつくりづらいでしょうし。

―パープル・ハンズは、そういう孤独を生まないためのコミュニティーをつくるという活動ですごく素敵だなと思ったんですけど、実際に取材もされて、どういう印象を持ちましたか?

東海林:すごく楽しいなと思いましたし、なんというか安心しますよね(笑)。中高年のおじさまたちが集って話しているのを見ると、歳をとるのも悪くないということをすごく感じました。

社会のなかで意識が高まっていくにつれて、性的マイノリティの老後をどう考えるかということが、ようやくこの10~20年ぐらいで考えられるようになってきたんじゃないかなと思います。

パープル・ハンズの活動もその流れのなかで生まれたのだと思いますし、パートナーシップ制度や同性婚がようやく議題に上がるようになった。個人と個人の関係だけではなくて、個人対社会、社会のなかでどう捉えるかということが、ようやくいま日本で議論されるようになってきたと思っています。

―そうなるようになったのは、ずっと権利のために声を上げてきた方たちの存在があるからでしょうか。

東海林:本当にそうだと思います。それだけ偏見とか差別の強い時代に率先して権利の回復を求めて、人権問題としてとらえるように声を上げてきた人たちがいなかったら、まったくこういうことにはなってなかったと思います。

「権利回復運動をしようとすればするほどそのイメージが悪くなる」というふうに言う人は昔からいるんですけど、結局騒がない限りは、誰もマイノリティの権利のことを気にする人はいない。歴史に学べばそれは明らかで、権利を求める声を上げていかないと変わらないですよね。

―製作にあたり、老人の性的欲望をしっかり描きたかったとも話されています。そこにはどんな意図があったのでしょうか。

東海林:高齢になっても性的な欲望というのはやはり当然あるんですよ。実際ぼく自身がわりとフケ専で年上の人が好きなんですが、皆さんお元気なわけで。それでもやっぱりそういう一面は表に出てこない。年老いて枯れて消えていくみたいにしか描かれないのがフェアじゃないなと思っていて、そこをちゃんと描こうというのがありました。

あとは何より肉体ですよね。山崎役の田村泰二郎さんにあえて白昼に全裸になってもらってその姿を撮ったんですが、あれは絶対にやりたいと思っていて。いわゆる夜の暗い闇のなかではなくて、ちゃんとお日様の下で、70数年間の歴史を刻んだ肉体というのをお客さんに見せたかったんです。

その理由の一つが、同性愛者がどうして差別されるかというと、同性に対する性的な欲望だったり肉体に対する欲望みたいなものがあるがために差別されてきたという一面があるわけです。だからこそ、特に高齢の同性愛者の肉体そのものが歴史なんじゃないかとぼくは思うんですね。だからそこは目を背けずに、ちゃんと見せたかったというのがあります。

あとは、ぼく自身がふくよかな身体をしていますけれど、じゃあ太っていたら醜いのか。歳をとってシミがいっぱいできたらそれはもう醜い身体なのかということに対して、疑問があるんですね。

ぼくはそれを醜いと思えないので、だからこそ、ちゃんとお日様の下で、その身体を全部見せることで評価してほしいというか、これを醜いと思いますかということを問いかけたいというのはありました。

―近年もゲイ男性が登場する映画が多く公開されていますが、若めの年齢層が描かれることが多いというのはあるんじゃないかと思っていまして、それ以外の表象を、という側面などもあるのでしょうか。

東海林:それは短編を撮ったときの根本的な理由でもあって、高齢の同性愛者の映画は滅多に出てこなかったので。最近は増えてきたので良かったなと思っているんですけど、やっぱりもっと多様な年代で、多様な体型で、いろんな社会的な層の性的マイノリティの人がいるということを出していかないといけないと思っているんです。

それは強制できることでも、強制されてやることでもないんですけど……。ちょっと当事者性の話になってしまいますが、やっぱり非当事者の作家にとって、表象のことってあんまり重要じゃないんじゃないかと思うんですよね。自分たちが撮りたいものだったり、自分たちの想像した同性愛者像を作品としてかたちにできればそれでいいと思うんですけど、当事者にとっては、表象の偏りやリアリティーのなさというのはやはりすごく問題なんですね。見ていて「おやっ」と思うし、もっと広く、もっとフェアに扱ってほしいなっていうふうに思うんですよね。

そうなると、やっぱり当事者の作家がやるしかないのかなと思ってしまいますよね。非当事者の作家にそこを期待してもなかなか難しいだろうな、という……。まずは当事者の側からそういう表象をもっと出してほしいとか、もしくは自分たちの手で出していくんだという動きをやっていけば、変わっていくんじゃないかなと思っています。