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坂本龍一 追悼連載vol.5:編曲家/演奏家としてのずば抜けた手腕。15の名曲&名演でたどる

2023年05月08日 20:00  CINRA.NET

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Text by 山元翔一
Text by 松山晋也

坂本龍一が発表した数々の音楽作品を紐解く連載「追悼・坂本龍一:わたしたちが聴いた音楽とその時代」(記事一覧はこちら)。第5回の書き手は、編・共著『カン大全~永遠の未来派』(2020年、ele-king books)をはじめとするさまざまな仕事で知られる音楽評論家の松山晋也。「編曲家/演奏家としての坂本龍一」に着目し、15の名曲&名演に加えて、矢野顕子『ごはんができたよ』(1980年)をとりあげてその卓越した手腕について執筆してもらった。

最初に告白しておくが、私は作曲家・坂本龍一の熱烈なファンだったことはない。よきリスナーでもなかったと思う。半世紀近くのキャリアで遺された膨大な数の作品のなかには、『千のナイフ』(1978年)や『B-2 UNIT』(1980年)をはじめ、愛聴したものは少なくないが、実際、心の底から感銘を受けたのは『async』(2017年)や『12』(2023年)など最晩年の作品だけだった。それらの作品で私は初めて音楽家・坂本の本当の姿、むきだしの魂に触れられたように思ったのだ。

坂本龍一(さかもと りゅういち) / Photo by zakkubalan ©2022 Kab Inc.

1952年東京生まれ。1978年に『千のナイフ』でソロデビュー。同年、Yellow Magic Orchestra(YMO)を結成。散開後も多方面で活躍。2014年7月、中咽頭がんの罹患を発表したが、2015年、山田洋次監督作品『母と暮せば』とアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督作品『レヴェナント:蘇えりし者』の音楽制作で復帰を果した。2017年春には8年ぶりとなるソロアルバム『async』を発表。2023年3月28日、逝去。同年1月17日、71歳の誕生日にリリースされたアルバム『12』が遺作となった。

しかし、編曲家や演奏家としての坂本の才能には早くから魅せられていた。坂本は友部正人との縁をきっかけに1975年(東京藝大大学院に在学中)から本格的にポップミュージックの世界に参入してゆき、80年代半ばにかけて、ニューミュージックや歌謡曲、ロックなどたくさんの音楽家たちの録音やライブに編曲家/演奏家として関わった。

特にYMO結成前後の77~80年あたりの仕事量はすさまじい。今回、その10年ほどの仕事を詳細にチェックし直し、彼の編曲家/演奏家としての能力がいかにずば抜けたものだったのかを改めて実感している次第だ。以下、坂本の編曲家/演奏家としての特長、センスがよく出ていると思う曲を古い順にリストアップしてみた。

坂本の公式録音としての初参加アルバム『誰もぼくの絵を描けないだろう』に収録。友部のギター弾き語りに坂本の生ピアノが絡むだけの極めて簡素なつくりだが、歌の伴奏者としての坂本の独特の語り口、センスはすでに発揮されている。

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『オーロイラ』に収録。当時りりィのバイ・バイ・セッション・バンドのバンマス的立場にあった坂本は本アルバムで全編曲を担当しているが、特に、イントロ部分でスティーヴ・ライヒ的にミニマル展開したあと、ドビュッシーにも通ずる弦アンサンブルの繊細なカラーリングが見事なこの曲は、ポップミュージック編曲家としての自身の特長を確立した作品として本人も気に入っていた。

資生堂のCMのタイアップ曲として作られた大ヒット曲(100万枚超)で、『ゴールドラッシュ』にも収録。矢沢の勘頼みの抽象的説明を元に坂本が中心になって参加メンバー(坂本、高橋幸宏、後藤次利、斉藤ノブなど)全員で編曲されたというが、矢沢の不良性を絶妙に浄化する流麗なストリングス、緩いスカっぽいバックビートのオルガンなどは坂本ならでは。録音はYMO結成の直前。

YMO始動直前に出た高橋のソロデビューアルバム『サラヴァ!』に収録。坂本はアルバム全体で弦とブラスの編曲を担当しているが、唯一作曲も担当したフュージョンぽいこのファンキーなインスト曲では間奏部分でとても人間業とは思えない超高速のキーボードプレイも披露している。

『Speak Low』に収録。さまざまなエスニックテイストがまぶされた名作『サウス・オブ・ザ・ボーダー』(1978年)での仕事も素晴らしかったが、本曲こそは坂本のJ-POP編曲家としての最高傑作だろう。ディスコビートの上でファンカラティーナ風に展開する総勢12名のブラス隊(特に4トロンボーンの重低音が強力)と多忠昭アンサンブルによる華麗なストリングスに随時アクセントをつけるシンセの電子音。弦+ブラス+シンセのハーモニーの美しさ、力強さという点でこれ以上の楽曲を探すのは困難だ。

ポップス編曲家としての名声を確立したこの名曲で、坂本は同年の『第21回日本レコード大賞』編曲賞を受賞。『ニュー・ホライズン』に収録。チェンバロやウィンドベル等の妙音をひそませたオーケストレーションはエヴァーグリーンな盤石さ。末長く聴き継がれる万人向けポップスの編曲の最良の見本。

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安井かずみ&加藤和彦が書いたラヴァーズ・ロックの名曲。沖縄出身セクシー女優のこのシングル曲は翌80年には岡崎友紀も”Jamaican Affair”(編曲は加藤)としてカバーしたが、弦やコーラスが映える坂本編曲のこっちのほうが遥かにゴージャス&セクシー。坂本は70年代半ばからレゲエ/ダブを熱心に聴きこんでいた。

参加メンバー全員で合宿しながらバハマのコンパス・ポイント・スタジオなどで録音された加藤和彦『パパ・ヘミングウェイ』に収録。スカ・テイストの入ったブリティッシュ・レゲエ/ダブっぽい坂本のキーボードがクール。

坂本は本盤を含む加藤の「ヨーロッパ三部作」(ほかは1980年作『うたかたのオペラ』、1981年作『ベル・エキセントリック』)で大活躍しているが、『ベル・エキセントリック』でのエリック・サティ“Je Te Veux”のピアノ&シンセ独奏も素晴らしい。

坂本が編曲と全演奏を担当したPhewのソロデビューシングル曲。彼女の声の凍りつくようなニヒリズムと暴力性を際立たせる坂本のセンスの素晴らしさ。CANのホルガー・シューカイはこれを聴いてPhewとの共演を熱望し、彼女のソロデビューアルバム『Phew』(1981年)が生まれた。

人気大爆発中のYMOが全面バックアップした2枚組大作『ごはんができたよ』のオープニング曲で、もともとは矢野がアグネス・チャンに提供したもの(1979年の『美しい日々』に収録)。坂本がほぼ全曲で矢野と共同編曲/プロデュースを担当した本アルバムは矢野にとっても坂本にとっても最高傑作のひとつであるばかりでなく、日本音楽史に刻まれた一大金字塔である。

古楽集団ダンスリーに坂本がゲスト参加したアルバム『エンド・オブ・エイシア』に収録。本曲は坂本自身の初ソロアルバム『千のナイフ』収録曲の新アレンジ版。高橋悠治との生ピアノ連弾による現代音楽風の原曲をここでは坂本がポルタティフ・オルガン(小型パイプオルガン)で独奏し、中世と現代が直結。

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クルト・ヴァイル作品など1920~30年代の欧米の流行歌や映画音楽、舞台音楽などを日本語で歌った加藤のアルバム『愛はすべてを赦す』で坂本は全編曲/演奏(鍵盤、ドラム、ギター)/プロテュースを担当した。本曲はリリアーナ・カヴァーニ監督の『愛の嵐』(1973年製作、国内公開は1975年)の退廃的挿入歌。“アラバマ・ソング”などヴァイル作品での生ピアノのメカニカルな演奏にも坂本の個性がよく出ている。

編曲からプロデュースまで全面的に坂本が仕切ったアルバム『比呂魅卿の犯罪』に収録。これは作曲も坂本。いわゆるテクノ歌謡だが、そこにクラリネットやフルートなど木管楽器の音を組み込む手法が坂本ならでは。

ムーンライダーズのかしぶちの初ソロアルバム『リラのホテル』の収録曲で、もともとはあがた森魚『日本少年(ヂパング・ボーイ)』(1976年)に提供されたもの。あがた版のフォークロック的風景が坂本の典雅なオーケストレーションによってヨーロピアンモードへと劇的に変容。

大貫が坂本のピアノ伴奏だけで歌ったコラボアルバム『UTAU』から。もともとは大貫がラジに提供し(1979年の『キャトル』に収録)、自身も『クリシェ』(1982年)で歌っていた。坂本が編曲したドラマティックなラジ版も、仏人ジャン・ミュジーが編曲した『クリシェ』版もいいが、坂本の生ピアノだけと向き合った本曲にこそ、かつて恋人関係だった二人だけの言葉にできない感情がもっとも生々しく刻まれている。

これらのほかにも下記に挙げたものなど、編曲家/演奏家としての坂本の才能と個性が光る曲は大メジャーからアングラ系までいろいろあるし、『SUNSHOWER』(1977年)や『MIGNONNE』(1978年)、『ROMANTIQUE』(1980年)など大貫妙子の初期アルバム群の仕事も忘れられない。ここでは国内ミュージシャンの作品だけから選んだが、海外の作品まで含めると仕事量は果てしない。

70~80年代の日本の歌謡曲やニューミュージックは、世界中のどんなポップミュージックとも違う特殊な魅力に溢れているが、その魅力の多くは編曲に負うところが大きい。そして、その日本ならではの立体的な幕の内弁当型編曲を考案、大成させたのは筒美京平であり、彼の弟子筋の萩田光雄、船山基紀だが、坂本の編曲は筒美系とはまた違う独自の構成美とスケール感を誇っていた。そして、挑発的/実験的アイデアが随所に埋め込まれているのだが、サウンド全体のトータルバランスが極めてよく、プロダクトとして美しい。

この特長を支えていたのは何か? 極言すれば教養である。坂本は中世から20世紀までの西洋クラシック音楽のみならず、純邦楽を含む世界中の民俗音楽や新しい電子音楽までアカデミックに学びつつ、欧米ポップミュージックも具に吸収、研究し続けた。そこまでなら海外にも同等の音楽家は何人もいたと思うが、坂本の知的アンテナは音楽だけにとどまらず美術、映画、哲学、文学、政治、歴史、社会学、そしてエロ関係にまで広がり、厖大な知識が蓄えられていた。こういう音楽家は日本では後にも先にも彼だけだったし、世界的に見ても極めて稀である。

坂本にはその百科全書的教養や楽理を武器に音楽/音を俯瞰して見る能力とすぐれた批評眼があった。そのうえで、多彩な引き出し(音楽的語彙や手法)を縦横に駆使して主役のキャラクターや作品の世界観をもっとも効果的に表現する術を持っていた。完璧な和声法に基づいた壮麗なオーケストレーションをたやすく施す一方、ピアノ1台、微かな電子音ひとつで歌を輝かせることもできた。

鍵盤奏者として技術的に坂本以上のプレイヤーは(特に80年代以降は)星の数ほどいたと思うが、歌手/歌の本質を抉り出す編曲/伴奏という点においては、彼はつねに別格だった。ネット上にしか記録が残っていないが、NHK『土曜ソリトン SIDE-B』(1995年6月放送回)での高野寛とのスタジオライブ“夢の中で会えるでしょう”などはその代表例だろう(※)。テクニックの優劣などとは無関係に、彼のピアノの独特なアーティキュレーションはつねに歌に寄り添い、歌と唱和し、歌の背景にあるイマジネーションを膨らませてくれる。

日本のアーティストではないが、ピエール・バルー“出逢いの星”(1982年)などもそんな好例だ。シンプルな生ピアノ伴奏に微かにかぶさる電子音の繊細さこそが編曲家としての坂本の知性と創造力の証だ。

こういった編曲家としての仕事を坂本はつねに迅速に、完璧にこなした。あまりの多忙さゆえ、スタジオからスタジオへの移動のタクシーのなかでオーケストレーションの楽譜をサラサラと書いていたという逸話を複数の関係者から聞いたこともある。

しかし、すべてを見渡せてしまう万能ぶり、どんな素材も即座に処理できるマシーンのような優秀さこそが、作曲家・坂本の弱点でもあったと私はずっと感じてきたわけで、その葛藤(と私には見えた)を克服したのが最晩年の『async』や『12』だったと思っている。

音楽/音に関して万能であることと他者の魂を震わせることは、無関係である。私は坂本の巨大な知性と批評眼、音楽的万能ぶりに感嘆し、称賛しつつも、内発的表現者としての彼には『async』まではほとんどのめりこめないままだったわけだが、数少ない例外が、先に挙げた矢野顕子の2枚組アルバム『ごはんができたよ』だった。これはもちろん矢野の作品ではあるが、同時に坂本の作品でもあると昔も今も認識している。

坂本と矢野が結ばれ、矢野が胎内に美雨を宿していた1980年に制作されたこのアルバムでは、博物学者や科学者の目を持った坂本の編曲家としての能力と、矢野の天才と野性に感応して開かれた表現者としての歓喜が一体化し、横溢している。坂本がここまで無防備に全身をさらけだし、技術と感情を統合させた作品はほんどないと思う

坂本に対する矢野の愛の言葉がまぶしすぎる“ひとつだけ”や“YOU'RE THE ONE”、幼少時の美しい記憶に新しい家庭への希望の光を重ね合わせた“ごはんができたよ”など全14曲、どれも驚くべき密度とエモーションで貫かれている。

原曲の童謡を複雑な構成のプログレ大曲に仕上げた“げんこつやまのおにぎりさま”は、とりわけ、ひばり児童合唱団の力強いコーラスが感動的だ。編曲は矢野で、坂本はプロデュースとクレジットされているが、この合唱部分のアイデアと編曲は間違いなく坂本だろう。天空に響き渡るオラトリオ(※)的荘厳さとこの時期の矢野の無限のイノセンスが美しいハーモニーを奏でる奇跡の8分35秒。

坂本の訃報に際し、矢野は控えめに「Dearest Ryuichi, Would you like to play piano four hands together again? I miss you very much.(筆者訳:親愛なる龍一さん、もう一度ピアノを連弾してくれませんか? あなたがいなくなって、とてもさみしいです)」とだけ英語でツイートしていたが、その連弾の幸せな情景、坂本の笑顔をそのまま作品化したのが、この『ごはんができたよ』だったのだと思う。

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