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坂本龍一 追悼連載vol.1:そのラディカルな晩年性と『async』

2023年04月26日 17:00  CINRA.NET

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Text by 山元翔一
Text by 松村正人

3月28日に71歳で逝去した音楽家、坂本龍一。CINRAではその膨大な音楽作品に向き合うべく、「追悼・坂本龍一:わたしたちが聴いた音楽とその時代」(記事一覧はこちら)と題した連載を始動させる。第1回の書き手は『STUDIO VOICE』の元編集長・松村正人。『async』(2017年)をとりあげて「坂本龍一の晩年性」について寄稿してもらった。

昨年に暮れあたりだったか、ふとしたはずみで友人と大江健三郎の話になり、だれもが『万延元年のフットボール』(1967年)で事足れりとするけれども後期大江こそいまいちど読みなおすべきではないかとなり、たしかに私自身敬して遠ざけてきた感なきにしもあらずであったと反省し、1982年の『「雨の木(レインツリー)」を聴く女たち』あたりから読みなおし、そういえばデヴィッド・シルヴィアンらJapanの後身にRain Tree Crowなるバンドがあって、1991年のリリースの唯一のアルバムをよく聴いたものであるが、あまり話題にならないまま尻窄みになったな——などと水位をあげる思い出に首までひたりつつ、最後から二番目の小説『水死』(2009年)を読み終えたあたりで、大江健三郎そのひとが世を去ったものの、川流れのように帰ってこない船にでも乗りかかったように遺作となる『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』(2013年)を読了した4月はじめ、坂本龍一が鬼籍に入ったと知った。

坂本龍一(さかもと りゅういち) / Photo by zakkubalan ©2022 Kab Inc.

1952年東京生まれ。1978年に『千のナイフ』でソロデビュー。同年、Yellow Magic Orchestra(YMO)を結成。散開後も多方面で活躍。2014年7月、中咽頭がんの罹患を発表したが、2015年、山田洋次監督作品『母と暮せば』とアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督作品『レヴェナント:蘇えりし者』の音楽制作で復帰を果した。2017年春には8年ぶりとなるソロアルバム『async』を発表。2023年3月28日、逝去。同年1月17日、71歳の誕生日にリリースされたたアルバム『12』が遺作となった。

偉大なふたりの人物のそれぞれの死の偶然のかさなりにすぎないが、このことは私に「晩年性(レイトネス)」なることばを想起させた。用語そのものは大江の友人であるポストコロニアルの批評家エドワード・サイードによるものでサイード自身にも『晩年のスタイル』(2007年)なる没後作がある。もとはアドルノの『ベートーヴェン——音楽の哲学』(1997年)の章題に由来する書名から発展した「晩年性」なる用語を定義づければ、遠からぬ死を前にした生のおののきとなろうか、大江の『晩年様式集』にうってつけの一文があるので以下に引く。

「しかしサイードの死の後、僕はかれへの自分のケチな反撥が誤っていたと認めるほかなかったんです。闘い続けての死にしても。かれは端的にカタストロフィーを避けなかった。カタストロフィーのただなかへ自爆して行くようにして、これも僕があなたの言葉に影響されているのを認めますが、人間らしさと威厳(※)を持って斃れた」 - 大江健三郎『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』P.130より文中の「あなた」とは作者をモデルにした作中人物、長江古義人のこと。発言の主は1987年の『懐かしい年への手紙』に登場するギー兄さんの息子ギー・ジュニアである。両者の関係、前後の脈絡は小説にあたっていただくほかないが、自身の旧作を頻繁にひきあいにだし、仮名ながら実在の人物が次々登場する(篁透=武満徹など)大江の後期の諸作には私小説の私性を解体し、虚実のあわいに別天地を拓くかのような趣きがある。

他方で作品における「私」の企ては——やはり登場人物のことばを借りるなら——往々にして「腰くだけ」に終わる、いわばアンチドラマをつきつめるなかにカタストロフィを呼びこもうとする方法とあわせ、晩年の大江は友人サイードのいう晩年性(レイトネス)のこれ以上ない実践者でもあった。

坂本龍一の死を前に私はこのことばをかみしめる。早すぎる死に晩年性が兆す余地はあったのか。

最後から二番目のアルバム『async』のセルフライナーノーツに糸口がある。

「2014年にアルバム制作の準備をしていたが、病気の発覚で中断。当時書いていたスケッチなどは全て廃棄し、ゼロから始める」

ここでいう病気とは中咽頭がんであり、のちに克服するものの長期療養を余儀なくされた。本稿で述べる2017年の『async』はその3年後、復帰後初のアルバムであり、リリースまでは2009年の前作『out of noise』から数えて、坂本のアルバムごとの間隔としては最長となる8年の年月が流れていた。インターバルもさることながら、注目すべきは坂本が病気が見つかる前につくっていた作品を放棄したことである。理由については言及していないが、心境の変化がなかったとは考えにくい。そしてその遠因には死の観念がなかったはずもない。

『async』の音のあいだからそのような背景が透けてみえる。作者は「一筆書きの良さ」を失わないよう「ただぼくが今聴きたい『音/音楽』を作りたかった」とライナーノーツに記している。発言を裏打ちするように『async』は音楽ならざる音をふんだんにふくむアルバムに仕上がっている。そもそも「asynchronization(非同期)」の略である表題からして音楽のカンどころである縦の線、すなわち同期を放棄するとあらかじめ宣するかのようでもある。

とはいえここでいう非同期、非周期とは『out of noise』の“hibari”のようなライヒ的フェイズシフトのようにやがて回帰する整数比的なズレというよりいびつで根源的な断絶のようなものであり、試みに“ZURE”と題した4曲目を再生してみるとシンセのコードに電子音、現実音がオーバーラップする構成をとるのがわかる。

後半では東日本大震災の被災地にあった津波ピアノの音もかすかにひびいている。泥水をかぶり、弦が切れ、音が狂ったこのピアノの音を坂本は「自然による調律」になぞらえ『async』と同年の高谷史郎とのICCでのインスタレーションでもとりあげている。

坂本のいう自然にはいうまでもなく、気候変動や自然災害、エコロジー的な観点から人工の対概念まで、階調的なニュアンスを帯びるが、ことに本作では人為としての音楽(art)の外としての自然(nature)にアクセントを置くかにみえる。楽音とノイズ、それらを奏でる伝統的な楽器群とさまざまな音具、『async』は一作にうちにそれらを同居させようとする。

ハリー・ベルトイアの音響彫刻をもちいた“walker”やベルナールとフランソワのバシェ兄弟の、やはり音響彫刻が登場する“Life, Life”“honj”などはその好例だが、しかしそれとて『async』の局面のひとつにすぎない。

このアルバムの特異さは作曲家=坂本龍一の土台にある西洋音楽の伝統を超え、彼自身の作風や作家性を超え、諸芸術の形式を超え、事物と環境の音、すなわち自然のただなかへ主格が消失していく点にある。

鍵盤の端麗な旋律を洪水のようなギターが洗う冒頭の“andata”、プリペアドピアノ(※1)の“disintegration”、花曇りのようなキーボードの音色が印象的な“solari”——冒頭の3曲がすでに西洋音楽を異化しその外部へ抜け出る『async』の主題を提示している。

ことに3曲目の“solari”では映画『惑星ソラリス』(1972年)のイメージを借景に、タルコフスキーが挿入歌でもちいたバッハのコラール“主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる”(BWV639)のある種の変奏としてたちあらわれるのだが、オルガンを模した電子音からなる『ソラリス』版と対位法的な関係を結ぶかのように、『未来派野郎』の“Parolibre”におけるオンド・マルトノ(※2)風の音色をもちいている。

坂本はこれらの方法のいくつかについては補助線を引くかかのように自筆ライナーに記している。短い文章の終わりでは本作のような音楽に正解はなく、作品は100パーセント恣意的なものだと断りを入れている。恣意的であるということは別のものでもありえたということであり、別のものでありえたということは不確定だということでもある。確定的な作品から音を解き放ち、生成する状態に置く。

他方で、タルコフスキーの父で詩人でもあるアルセニーの詩を元Rain Tree Crowのデヴィッド・シルヴィアンが朗読した“Life, Life”や『シェルタリング・スカイ』(※)とリンクする“fullmoon”など、坂本の代名詞である映画音楽、バッハら古典、アナログ・シンセの音色などの記号と形式が本作の底流をなしているのも間違いない。

『晩年のスタイル』でサイードはスタイルを究めた芸術家が晩年期に自身の形式を異化する作品を生みだすことがあると述べる。むろんポストモダンにおいてあらゆる形式は選択肢として等価だが、しかし芸術家の後半生において主観性が形式や方法を凌駕する場面がやがておとずれる。

サイードはベートーヴェンやリヒャルト・シュトラウス、ヴィスコンティとランペドゥーサ(すなわち映画『山猫』)、ジュネやグールドらの後期の作品にそれを見てとる。ベートーヴェンやグールドは坂本とは切っても切れないが、坂本もまた、ベートーヴェンなら第3期、グールドであればヴィルトゥオーソ(※)としてのあり方よりも解釈や方法の特異性といったように、彼らの典型よりも例外的な側面、晩年の様式に愛着をおぼえているかにみえる。

じっさい坂本はベートーヴェンの生誕250周年であるとともにグールドの生誕90周年にあたる2022年に選曲を担当したグールドの4枚組ベストをベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第30番」からはじめるのだが、はたしてそこに時代も空間も超えた三者のレイトネスの交錯を見いだすことは可能であろうか。

少なくとも晩年期の到来を感じていたのではなかったか。2022年の時点で、坂本はがんの再発を公表し、個人史や足跡をふりかえる仕事にとりかかっている(※)。過去と向きあうことはいやおうなしに主観を呼びさますが、坂本はあたかも内向を忌避するかのように事物や環境へ自身を開こうとする。

その構図は「もの派」の李禹煥がジャケットを手がけた今年1月の遺作となった『12』まで、通奏低音のように響きつづけるが、起点をたどれば、主楽器であるピアノや、弦楽器さえモノに還元し、前述のハリー・ベルトイアの弁になぞらえるなら「物体に内包されるエナジー」としての音を解放するように三味線のサワリや水音や人声のざわめきにあふれた『async』にたどりつく。

もっとも本作がおさめる楽曲に耳を傾ければ、いかにノイズが耳につこうともけっして損なわれない旋律やアンサンブルの美しさ、音楽への深い確信といいたくなるものが作品を象ることもたちどころに理解できる。その点で美学的な観点からはこれまで作品に一歩もひけをとらないが、『async』の、晩年の坂本龍一はそのような美のゆるがなさへ、有限の生の側から問いを投げかけているかにもみえる。

「Ars longa, vita brevis(芸術は長く人生は短し)」とは坂本の座右銘だが、芸術が作者の生と無縁であるがゆえに、死は「屈折したものとして、つまりアレゴリーとして」作品にあらわれるのだとアドルノは『ベートーヴェン』で指摘する。むろんそのような屈折を作品に織り込む境地にいたる作家はごく限られている。そして私は自己と他者、社会と自然、芸術至上主義と人間中心主義が入れ子状になった坂本龍一の『async』にふれるたびにそのことを思うのである、まことにラディカルな晩年の意志のスタイルであると。