Text by 後藤美波
Text by 井戸沼紀美
Text by タケシタトモヒロ
「人は弱さを見せてもいいのだと思います」。そう語るフランスの映画監督、ミカエル・アースの作品には、たしかに脆さが見え隠れする人物が多く登場する。
しかし、監督は「か弱い人」を描こうとしているのではなく、まして「感動的な」展開のためにそうした設定を用意しているのでもない。生きていれば、のびのびと踊ることもあるし、さめざめと泣くこともある。そのことを、ただまっすぐに受け止めているだけなのだ。
『午前4時にパリの夜は明ける』の日本公開に際して来日した監督に、われわれは多岐に渡る質問を投げかけてみた。作品のキーワードとなる深夜ラジオやオマージュが捧げられているパスカル・オジェのこと、撮影現場のこと、過去作にも共通するテーマのこと……。それらに対する、ときに繊細なニュアンスの滲む嘘のない回答群は、まるで監督の映画の印象そのものだった。
『午前4時にパリの夜は明ける』
あらすじ:1981年、パリ。結婚生活が終わりを迎え、ひとりで子どもたちを養うことになったエリザベート(シャルロット・ゲンズブール)は、深夜放送のラジオ番組の仕事に就くことに。そこで出会った少女、タルラ(ノエ・アビタ)は家出をして外で寝泊まりしているという。彼女を自宅へ招き入れたエリザベートは、ともに暮らすなかで自身の境遇を悲観していたこれまでを見つめ直していく。同時に、ティーンエイジャーの息子マチアス(キト・レイヨン=リシュテル)もまた、タルラの登場に心が揺らいでいた。© 2021 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINÉMA
─『午前4時にパリの夜は明ける』を拝見して、強烈に胸を打たれました。監督の過去作では、大切な存在がある日突然いなくなってしまうような、取り返しのつかない喪失が描かれていたと思います。しかし今回の映画では、電車を乗り継いだり電話を取り次いだりするように、人々の人生が他者との関わり合いのなかで、少しずつ進んでいく様子が印象的で。
アース:たしかにこれまで日本で公開された『サマーフィーリング』(2015年)や『アマンダと僕』(2018年)では、喪失を正面から描いていたと思います。
今回は「喪失」ではなく「別れ」を描いているので、その意味では少しテーマが異なるようにも見えますが、「残された人たちが再生していく」という意味では、3本を通して共通するテーマを描いているとも言えるかと思います。
亡くなった人のことも別れてしまった人のことも、同じときを過ごした人たちの記憶には残っていて、その記憶が人々を生かす。どんな苦悩があってもそこには微かな光が差していて、再生することができるということを、自分は描いてきたように思います。
ミカエル・アース
1975年、フランス・パリ生まれ。経済学を学んだのち、映画学校FEMISに入学。友人と数本の短編映画を製作した後、本格的に監督としての活動を開始。短編、中編を数本制作し、『Charell』(2006)が『カンヌ国際映画祭』批評家週間に選ばれる。25歳の若者たちが過ごす夏の数日間を描いた『Memory Lane』(2010)で長編デビューを果たし、『ロカルノ国際映画祭』でワールドプレミア上映された。その後、『サマーフィーリング』(2015)、『アマンダと僕』(2018)を手掛け、今作は長編4作目。前作『アマンダと僕』では『ヴェネチア国際映画祭』オリゾンティ部門マジック・ランタン賞受賞、『東京国際映画祭』でグランプリと脚本賞W受賞の快挙を成し遂げ、『午前4時にパリの夜は明ける』が『第72回ベルリン国際映画祭』コンペティション部門に正式出品された。
─目の前からいなくなったとしても記憶のなかには存在し続けているという考え方が、とても素敵だなと思いました。なぜ監督は心の傷や再生といったテーマに関心を寄せ続けているのでしょうか?
アース:それが、私自身もよくわからないんです。ただ、もしかすると私の前世に関わることなのかもしれないとは思っています。過去に私の家系のなかで、喪失や再生に関わる出来事があったのかもしれません。なぜか私はそれを信じていて、長編だけではなく短編でも、喪失、喪、別れといったテーマを取り扱っています。
─監督の映画を観ていると、登場人物たちが感じている悲しみがダイレクトに伝わってくる感覚があります。悲しんでいる人や傷ついている人を描く際、監督は現場で俳優たちとどんなコミュニケーションをとっているのでしょうか?
アース:私は現場で役者たちにそこまでいろいろと指示を出さないんです。ただ、役者自身と知り合えるような会話はよくしています。信頼関係のある温かい雰囲気のなかで、静かに映画を撮っていきたいと思っているので。
映画監督のなかには役者との衝突を求めるような人もいるようですが、私の場合はそうではありません。脚本を書くときも撮影中も、平和で静かな雰囲気で作業をしたいと考えています。
ですから、映画づくりの過程でも、実際の演技よりむしろ周辺のことに気を遣っているかもしれませんね。現場では役者が自分のやりたいことを思いきり演技に発揮できるような環境づくりを心がけますし、シナリオ段階では読み手がイメージを掴みやすいように、心理面よりもどんな状況の話なのかを正確に伝えることを意識しています。
─いまのお話を聞いていて、監督も大好きだとおっしゃっているエリック・ロメール(編註:フランスの映画監督)が役者たちとお茶会を開いていたという話を思い出しました。監督もそのような場を設けたことはありましたか?
アース:俳優によってまったく付き合い方は違うのですが、できるだけ一緒に時間を過ごすようにはしています。私の場合、お茶というよりビールの方が多いのですが。一緒に時間を過ごすことで共通の話題を見つけたり、相手の考えを知ることができたりするように努力はしていますね。
─現場づくりに関連してもう一点うかがってみたいのが、セックスシーンについてです。近年は現場にインティマシーコーディネーターの方が入られるなどの動きも見られますが、今回の映画について配慮された点があれば教えていただけますか?
アース:ラブシーンに関しては、ほかの場面よりもさらに現場が静かですね。というのも、そうしたシーンの撮影では、本当に必要最低限のスタッフしかその場にいないようにしているんです。
本作のラブシーンでは、現場にいたのは自分も含めて3~4人で、録音技師ですら現場の外にいました。まずは俳優たちといかに信頼関係を築くかが大切だと考えています。
インティマシーコーディネーターについても、いまのところはご一緒したことがないのですが、現時点で経験がないというだけで、今後は依頼する可能性もあると思います。
─今回の作品ではシャルロット・ゲンズブール演じる主人公の職場になる深夜ラジオ局が一つの重要な要素になっていますが、監督ご自身はラジオに関して思い入れはありますか? 深夜ラジオには、まるでパーソナリティーと一対一で向き合っているような、不思議な魅力があると思っていて。
アース:自分は子どもの頃、それから思春期の眠れない夜――まさに今回の映画の舞台である1980年代に、ウォークマンで深夜ラジオを聴いていました。いま言ってくださったことは本当におっしゃる通りで、じつは多くの人が同時に同じラジオ番組を聴いているにも関わらず、なぜかパーソナリティーが自分にだけ話しかけてくれているような感覚があるんですよね。
ラジオのチャンネルを回していくと、そうしたパーソナルな話をしている番組がいくつもあって、まるでそれが星座のようだなと感じていました。子どものころは大人の身の上話を聞く機会なんてありませんでしたから、なんだかとても親密な気分でしたね。
エリザベート(シャルロット・ゲンズブール)は、深夜ラジオ『夜の乗客』のパーソナリティー・ヴァンダ(エマニュエル・ベアール)に採用され、リスナーからの電話を受ける仕事に就く © 2021 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINÉMA
─やはり監督ご自身の経験をもとにされていたんですね。劇中では、さまざまな事情で傷ついた人々が、ラジオ局や映画館、音楽が鳴っている集会など、文化的な場所に自然と集まっていくのも印象的でした。文化がシェルターのような役割を果たすという描写については意識的でしたか?
アース:私はとても直感的にシナリオを書くタイプなので、今回も無意識のうちにそうした場面を描いていました。登場人物たちも、意識的に文化的な場所に行ったというよりは、単純に心地いいからという理由で、そうした場所に集まっていったのだと思います。
─ちなみに監督ご自身は、映画館やライブハウスに出かけることはありますか?
アース:そこまで頻繁には出かけませんね。ときどき映画館に行くくらいです。加えて私の一番の情熱は音楽に向いているので、家でCDやレコードを聴いていることが多いです。クラブにはまったく行かないのですが。
─もう一つ聞いてみたいのが「広場」についてです。私は監督の映画を観るといつも広場のシーンに心惹かれるのですが、なぜ広場を頻繁に映しているのでしょうか?
アース:やっぱり私は直感的にシナリオを書いているので、これについてもそこまで意識的ではなかったのですが……でも、いまの質問はすごく興味深かったです。なぜなら、これまで「あなたの映画には公園がよく出てきますね」と言われることはあったのですが、今回初めて「広場」と表現してもらえたのが、すごく面白くて。
─私には、公園が集まって遊ぶ「目的」の場所だとすれば、広場は人々が少しのあいだ留まっては去っていく「過程」の場所のようにも思えるんです。今回の映画で、さまざまな人の人生が束の間だけ重なり合う様子も、なんだか「広場」のようだなと思って観ていました。映画の最後に引用される「他者は過去の私たち」というテキスト(※)からも、人の人生が交差する様子を連想して深く感動したのですが、あれはどなたのテキストなのでしょうか?
『午前4時にパリの夜は明ける』 © 2021 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINÉMA
アース:あれは、ミシェル・デボルド(Michèle Desbordes)という女性作家の『Les petites terre』(日本語で「小さな土地、小さな世界」の意)という作品からの引用です。フランスでもまったく知られていないと言ってもいいくらいの知名度の、すでに亡くなってしまった作家なんです。
私はその作品を、今回の映画で主人公の新しい恋人役を演じたティボー・ヴァンソンを通じて知りました。彼は私の映画に初期から出演してくれている俳優であり、趣味のあう友人の一人でもあります。たくさんの本を読んでいる彼がこの本を貸してくれたのですが、私は映画を10本撮ってもこれだけのことを描けないと思うくらい、心を動かされました。
とても神秘的で、なおかつ感動的で……人生を通り過ぎていく人という要素も出てきますし、今回の映画のストーリーにもとても合っていると思ったんです。ちなみに今回はまるまる本文を引用したというよりは、若干細部を変化させるかたちで映画に馴染ませています。
─なぜ本作がパスカル・オジェ(※)にオマージュを捧げているのかもお聞きしたいです。劇中では彼女が主演を務めたエリック・ロメールの『満月の夜』(1984年)を登場人物たちが鑑賞する場面がありますし、ノエ・アビタ演じるタルラにも、どこかオジェを思わせる要素が含まれていますよね。
アース:パスカル・オジェという女優を初めて見たとき、私は大きな衝撃を受けました。彼女は単に演技をしているというより、役柄を超えて、本人のままでスクリーンに映っているように見えたんです。
彼女は彼女だけの声や話し方、音楽性のようなものを持っています。25歳という若さで亡くなってしまいましたが、彼女がもしも生きていたら、きっと何十本もの映画に出演して活躍していたのだと思います。
今回、自分の映画に彼女が出てくることで、彼女が今後も誰かの記憶に存在し続けてくれたらと思い、オマージュを捧げることにしました。1980年代を舞台にした『午前4時にパリの夜は明ける』にオジェの存在が現れることで、1980年代の女性を体現してくれるようにも思ったんです。
エリザベートの息子マチアス(キト・レイヨン=リシュテル)は、母親が連れてきた少女タルラ(ノエ・アビタ)に惹かれていく © 2021 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINÉMA
─なるほど。女性像の話で言えば、本作のなかの女性たちがみな、自立しようとしながらも、自己否定的な発言をしていることも印象的でした。例えば主人公のエリザベートは「自分が無能に感じる」というような台詞を何度か発しますし、「強い女性」のように見えるラジオDJのヴァンダ(エマニュエル・ベアール)にも、脆い一面が見え隠れします。彼女たちは決して弱々しい存在として描かれているわけではないと思うのですが、そのあたりのバランスについて意識された点はありますか?
アース:たしかに私の映画に出てくる登場人物たちは皆、そうした脆さを持っています。自己否定というよりは、脆さですね。そしてそれは女性に限った話ではありません。
フランスにアンヌ・シルヴェストルという歌手が歌う“疑う人々(Les gens qui doutent)”という曲があるのですが、私はこの曲が歌っているような人の二面性や複雑さがとても大切だと思っているんです。
─翻訳サイトを通して歌詞を読んでみましたが、<疑う人、心の揺れに耳を傾けすぎる人が好き><自分自身を責めずに、矛盾したことを言う人が好き><ときどき判断できなくなって震える人が好き><私は彼らの小さな歌が好き>など、とても素敵な歌詞ですね。
アース:私は力強く、勇気があるような人が見せる弱さなど、人の二面性を感じる場面に深く感動するんです。
そして近年の映画を観ていると、そんな複雑さや多面性のある「疑う人々」を描いている映画が少ないとも思うんです。社会的なメッセージや政治的なメッセージを直接的に描くような作品が多くて……。私は思春期に孤独なとき、「疑う人々」を描いた映画や本、音楽に出会い、「理解してもらえた」と感じて、光を見つけたような気分でした。
女性に限らずどんな性別の人にとっても、弱さを見せることは難しいことだと思いますが、本来はそれらを見せてもいいのだと考えています。