2023年04月18日 11:11 弁護士ドットコム
キリスト教系新興宗教「エホバの証人」に入信した経験のある弁護士Aさんが、彼らに対して感じたのは、「揺るぎない信念」であり、その裏返しとも言える「無批判な思考」だったーー。
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2023年に入り、元信者から過去のムチ打ちや輸血拒否などについての証言が相次いでいる。彼らの中には「子どもに対する信仰の強制であり、宗教虐待だ」と訴える人もいる。
2世ではなく成人してから自らの意思で入信したAさんに、内部から見た組織の課題について法律家としての見解を聞いた。
宗教虐待を訴える2世らの声を受け、厚生労働省は2022年12月、全国の児童相談所に「宗教の信仰等に関係する児童虐待等への対応に関するQ&A」を通達。具体的な事例を挙げて、虐待と判断するか否かの指針を示している。
Aさんは、実際に児相が個別例に対して違法かどうか判断するのは難しいと指摘する。
「ムチ打ちや輸血拒否は虐待に該当すると思いますが、親が子に対して信仰に基づく教育をすること全体が該当するかと問われれば、線引きは非常に難しいと言わざるを得ない。親の子に対する教育内容に公権力が介入することは、親の教育の自由を侵害することにもなり得ます」
一方で、救済の手は必要だともいう。
「子どもに明確に自我が芽生え、親の信仰を受け入れない意思が明確になったとき、子どもが親と離別して自立する準備をするための環境は必要です。各地には、虐待を受けた子を受け入れるシェルターや自立援助ホームなどと呼ばれる施設があります。親の信仰について行けず、自立して生活したい希望を持つ子のために活用するのは必要だと思います」
Aさんが入信したのは、好きになった人がエホバの証人だったからだ。信者同士でなければ交際ができない。「何事も知らないままで批判はできない」という信念で、家族の反対を押し切って入信した。
地域の集会に通い、勉強を続け、洗礼も受けた。日常生活に大きな支障は起きなかったが、宗教色のあるイベントには関与できなくなってしまった。
例えば、よく知られるキリスト教の宗派と異なり、エホバは十字架を崇拝しない。教会での結婚式に参加できず、あえて遅刻して披露宴のみ出席していた。子どものころからかわいがってくれた祖母の仏式の葬式にも参加しなかったことは、とても苦しい経験だったという。
また、弁護士としてのキャリアにも影響した。
司法修習開始からまもなく、政治家を輩出する法律事務所に内定し、将来の弁護士像を夢見ていた。内定の時期と並行して地域の集会に本格的に参加するようになり、政治的活動への関与をやめなければエホバの証人になれないことを知った。エホバの証人になるのか(好きになった人を選ぶのか)、内定を優先するのか(自分のキャリアを選ぶのか)という板挟みに大きく悩んだ。
その後、エホバの証人になることを優先すると決め、独立して弁護士業務を開始したものの、集会で知り合った幹部信者から「離婚業務は神様であるエホバに喜ばれない」と言われ、業務経験が大きく限られるようになった。
「自らの意思でエホバの証人になると決め、多くの方にご迷惑をおかけしたことは申し訳ないと思い続けているものの、後悔はしていません。輸血拒否についても、自分自身のこととしては受け入れていました。しかし、子どものための輸血を拒否できるかは自信を持てず、子どもをつくらないと決めてエホバの証人になりました」
「このように中途半端な部分を残していたので、本来は、エホバの証人になるべきではなかったのかもしれません。入信して数年経過し、教会側の弁護士として輸血拒否をするための弁護活動をする場面が訪れる可能性を現実のものとして感じるようになりました」
Aさんは、真っ当な弁護活動をできるだろうかと悩みを深めた。そんな解決できぬ思いを抱えたまま、集会から足が遠のいていったという。
一方で、Aさんは声を上げ始めた2世や、弁護団をおもんぱかる。
「エホバの証人は、良く言えば強固な信念がある。悪く言えば全く融通が効かない。親たちにとって、エホバの証人の教えの全てが正しいということで結論は決まっており、仮に本音が違っていたとしても、それを話し合うことはできない。だから、いま報道などで批判されようが、エホバの証人の組織全体にとっては痛くも痒くもないでしょう」
悩む2世の力になりたいという気持ちもあるといい、信仰を強制されている子どもには、各地の弁護士会の子ども相談窓口、児童相談所などに相談してほしいと強調した。
「エホバの証人の教義それ自体、子どもの意思を尊重することを勧めているため、子どもがエホバの証人の信仰に違和感を持っているなら、それを尊重することは、何ら、教えにも反していないような気がしています」
Aさんは今、法律家としてありたい未来像と、信者としての自分の狭間で、揺らぎ、悩んでいる。