Text by 武田砂鉄
Text by 山元翔一
担当しているラジオ番組で毎回ヘヴィメタルの曲をかけているので、それにまつわるメールもよく送られてくる。「ヘビメタをあまり知らないのですが」「すみません、ヘビメタの曲のときだけ音を絞っています」といったメールを前に、「ヘヴィメタルをあまり……」「ヘヴィメタルの曲のときだけ……」と勝手に言い直して読んでいる。体がそうできている。送られてきたメールなのだからそのまま読むべきなのだろうが、パソコンのおせっかいな予測変換のように、自動的に口が「ヘヴィメタル」と発してしまう。
「ヘビメタ」は蔑称ではないものの、決して積極的な評価ではない。ある音楽に対して、積極的な思いを持たない人ほど略称を使うというのは、音楽に限らず文化・芸術全般を見渡してもなかなか珍しい事態なのではないか。
CINRAが20周年を迎えたそうで、会社が立ち上がる前後につくっていたCD-Rマガジンのころから関わっていた古参メンバーということもあり、ポッドキャスト「聞くCINRA」に招かれた。まさに「20年前に出していたCD-Rマガジンの話を、ポッドキャストでする」という状態が、この20年の変化そのものではある。
当初、CINRAは、渋谷区幡ヶ谷の古びたマンションの屋根裏部屋に事務所を構えていたが、新宿駅を経由して事務所に向かうたびに、西新宿にあるレコード店を徘徊していた。CD-Rマガジンの主な配布先はレコード店・映画館・書店といったところで、頭のなかに一覧で残っている配布先は、この20年でいくつもなくなってしまった。
CINRAの初代オフィス・幡ヶ谷の雑居ビル
2008年まで制作・無料配布していた「CINRA MAGAZINE」。パソコンにCD-Rを取り込むとウェブサイトが立ち上がり、編集部のつくったインタビュー記事が読めるという仕組みだった
昨日もCDを複数枚購入したところだが、ヘヴィメタル好きは、それでもまだフィジカルで音楽を買い続ける人間が多い。たとえば、渋谷や新宿のタワーレコードでは洋楽の売り場面積が年々減少しているものの、ヘヴィメタルコーナーはその減少率が低く、相対的に占有率が上がっている。単純な話だ。「それでもまだ買う」からだ。
「まだ」と「買う」のどちらに比重を置くかでビジネスとしてのとらえ方は異なるが、アルバムをひとつのかたまりとして体感し、それを物理的に残すクセがまだまだある。自分自身、20年間、このクセがちっとも変わらない。
だが、世界のヘヴィメタルシーンから見た日本市場のとらえ方は変わっている。4月14日、新譜『72 Seasons』をリリースしたMETALLICAは2013年の『SUMMER SONIC』以来、来日公演を行なっていない。最後の単独公演は2010年だが。
昨年、音楽評論家・伊藤政則氏とイベントで対談したときの話によれば、諸外国での市場規模と日本市場が釣り合わない、夏フェスのトリならば可能性はあるが、単独公演ではバンドが求める規模を用意できないのではないか、とのことだった。
この10月に『Coachella Festival』のプロモーターである「Goldenvoice」が、ヘヴィメタル/ハードロックの大御所だけを集めたフェス『Power Trip』を3日間にわたってアメリカで開催すると発表した。
出演するのは、GUNS N' ROSES、AC/DC、METALLICA、IRON MAIDEN、OZZY OSBOURNE、TOOLの6組。GUNS N' ROSESは昨年、来日公演を行なったが、自身の体調の問題でツアー活動から引退したOZZY OSBOURNEを除いた残りの4組は、日本の市場規模がなかなか見合わずに興行が組めていないという厳しい共通項がある。
先日、いずれも幕張メッセで開催されたヘヴィ系のバンドばかりが集うフェスティバル『LOUD PARK』(3月26日)、『KNOTFEST』(4月1日・2日)に出向いた。前者のトリはPANTERA、後者はSLIPKNOT。前者が1990年代の、後者が2000年代の「ヘヴィ」に括られる音楽の先頭に立ったバンドだが、現時点での立ち位置は異なる。
PANTERAはバンドの中核にいたメンバー2人が亡くなり、再結成はありえないだろうと思われていたところに、親交が深かったザック・ワイルド、チャーリー・ベナンテを加え、「トリビュート」という裏技で再結成を実現させた。欠けてしまった2人のメンバーを補い、敬意を払いながらも、改めてその名義を引っ張り出す意義を伝える素晴らしいライブだった。
『LOUD PARK』の会場の様子(筆者撮影)
多くのフェスでVIPチケットが発売されているようになったが、海外のヘヴィメタルバンドが多く集った『LOUD PARK』では、前方の大半がVIPチケットの専用ゾーンで占められていた。一般チケットで前方までたどり着ける場所は密集しているのに、VIP専用ゾーンでは比較的ステージに近い位置でも心地よく過ごすことができた。
『KNOTFEST』は邦洋問わずヘヴィ系のバンドが集っていた。開催国のバンドをいくつもブッキングするのが従来の『KNOTFEST』のやり方だが、それはSLIPKNOTというアイコンが、世代やジャンルを飛び越えて波及している強さの証拠でもある。
『LOUD PARK』と比べると『KNOTFEST』は客層が明らかに若く、VIPチケットのみが入れるスペースも少ないので、血気盛んな連中が前方に密集する、という当たり前の光景が見られた。彼らの前に出たMAN WITH A MISSIONやマキシマム ザ ホルモンなど日本のバンドのファンが、そのままSLIPKNOTという存在を受け入れていた。
『KNOTFEST』の会場より(筆者撮影)
「ヘヴィ」な音楽の血行というのか、血流を感じたのは明らかに『KNOTFEST』だが、自分が心地よく過ごしたのは圧倒的に『LOUD PARK』で、もちろん、それぞれの特性をどう把握するのかは人によるのだろうが、日本独自の洋楽市場の変遷を考えると、自分が感じた心地よさに危うさを覚えるのもたしかである。
ヘヴィメタルという音楽は、日本において、特定の雑誌やラジオ番組によって盛り立てられ、読者やリスナーはそこでの評価を献身的に追いかけるという流れを繰り返してきた。自分はそのど真ん中で、超優良なお客さんを続けているが、ここから先にどういう可能性が残されているのだろうかという問いの厳しさは年々増している。
「聞くCINRA」でも、第3回で「まだやってる」尊さを語ったのだが、新しいものよりも、それでもまだやっているという状態を軽視したくはない。音楽だけではなく、すべてのカルチャーに対してその思いが強い。どうしてそこに揺るがない土台があるのかを知らなければ、新たに飛び立っていく存在も見極められないはずだが、土台を愛でるだけではやがて土台が削られ朽ちていくというジレンマがある。これはヘヴィメタルに限った問題ではないだろう。
武田砂鉄をゲストに招いたポッドキャスト「聞くCINRA #12」は4月17日配信予定 / #11はこちらより(Apple Podcastで聞く / Spotifyで聞く)
自分のようなライターやメディアは、つくり手と受け手のあいだに入りながら作品を紹介したり論じたりする。この時代、その行為全体が不要なものとされやすい。あいだに入らなくたって、もうつながっているんですけど……ってな感覚が増している。
「褒めること」が前提になっているメディアも多く、どの場でも、どんなジャンルでも、自由闊達な意見が飛び交う空間がつくりにくくなっているが、いくらでも自分好みに選びとれる状況にあるからこそ、土台にしろ、ここからの可能性にしろ、時間をかけて論じる必要があると思う。この20年、そこに変化はないと思っているが、これもノスタルジーとして片付けられてしまうのだろうか。
『KNOTFEST』では、後方でも、傍観者は少なく、すし詰め状態で雄叫びをあげ、モッシュピットが発生するなど、積極的にライブに参加していく様子が見受けられた。そこからステージを見て「もっとじっくり見たいんだけど」とブツクサ思ったのだが、40代の中年がこういう不満を発生させるくらいでいいのだろう。端的な話、METALLICAが来日を果たすには、そのバンドやジャンルの歴史と意義を論じ、それでいて、参入障壁を低くして、たとえ「ヘビメタ」という入り口であろうが、好きになってもらうしかないのである。