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映画『零落』浅野いにお×斎藤工×趣里が語り合う。駆け抜けた先の虚無感から脱するには?

2023年03月25日 09:01  CINRA.NET

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Text by 羽佐田瑶子
Text by 服部桃子
Text by 玉村敬太
Text by 栄藤徹平

『ソラニン』で一躍脚光を浴びた漫画家・浅野いにおが、2017年に発表した問題作『零落』。浅野の内面を描き写したような生々しさがあり、「瑞々しさ」とは対照的ともいえる世界観を持つ本作品の実写映画版が、3月17日に公開される。

主人公は30代の漫画家・深澤薫(斎藤工)。若い頃から一心不乱に漫画を描き続けてきた深澤は、長期連載の終了をきっかけに多大なる虚無感に襲われる。堕落していく彼はデリヘルで出会った猫目の女性(趣里)にのめり込んでいく……という物語だ。

漫画家として迷いながらも、最終的には自分なりの道を見つけた深澤。しかし、その過程には目をそらしたくなるような没落と虚無があり、創作家にかぎらず、エネルギーが永遠に続くことは稀であるという現実を突きつけられる。

バーンアウト、つまり燃え尽き症候群のような状態から、どのように自分なりの道を見つければよいのか。原作者の浅野いにお、本作に出演している斎藤工、趣里が自身の経験から語ってくれた。

※本記事には映画『零落』本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。

─深澤のすさんだ生活は見ていて苦しい部分もありましたが、彼の人間性をどのようにとらえていましたか?

斎藤:原作が発売された当時、本屋さんでこの漫画を手にとって、途端に心つかまれたことを覚えています。ぼくが浅野先生と世代が近いこともあると思います。

あらためて読み返しても、やっぱり深澤の「目」が印象的でした。なんというのか……生きている、生きていない。どちらにも受け取れる目。置かれている状況というよりも、目がすべてを物語っているキャラクターだと思いました。

斎藤工

浅野いにおによる描き下ろしイラスト ©2023浅野いにお・小学館/「零落」製作委員会

浅野:そんなふうに読んでくれていたんですね。

斎藤:浅野作品のファンとしては、深澤と浅野先生は重なって読めます。そして、その地続きに自分たちもつながっているような気持ちになりました。まるで、深澤は「概念」のような存在。

なので、「これは自分の話だな」と思う瞬間が時折あって、まるで写し鏡のように自分が見えてしまうんです。携帯をいじっていて、誤作動で急に自分の顔が映ってしまったときに、とんでもない顔が映っていて「普段こんな顔なの?」って驚くようなことってあるじゃないですか。

趣里:わかります!

斎藤:その感じでした。自分の本性を突きつけられるようなしんどさがあって。だけど、それこそが『零落』の真髄だと思っていて。だから、現場でもあえてしんどい状態でいようと思いました。

─「しんどい」という精神状態を引き受けることは非常に苦しいと思うのですが、どんなふうに対峙されていましたか?

斎藤:そうですね、いつか受け入れなければいけないものだと思っていました。

突発的な事故のようなしんどさではなくて、いずれ向き合わなければならない「しんどさ」だと思うんです。目をそらし続けているだけで、実はそこにある。

たとえば、ぼくは親が健在ですがいずれ亡くなるときが来る。頭ではわかっているけれど、向き合うことができていない。そういう感じに近いと思います。

斎藤工演じる主人公の深澤薫 ©2023浅野いにお・小学館/「零落」製作委員会 

趣里:私も、原作を読んでいて「鏡に映る自分を見ている感覚」に何度もなりました。もっといえば、根本的なところで深澤には共感しかなくて。

それこそ、深澤に内在するものは、自分が見ないようにしている部分だと思います。それを作品にしてくださったことで救われたというか、生きるってことを突きつけられた気がします。

趣里

斎藤:向き合うのはしんどいけどね。

趣里:そうですね。つらいけれど向き合わなきゃいけないし、その先にある道というか、自分なりに立ち上がる方法みたいなものが描かれていると思いました。なんだろう……否定も肯定もしない。そのままでいいし、それしかない、と深澤を見ていて思いました。

やぶれかぶれになり、風俗店に通う深澤 ©2023浅野いにお・小学館/「零落」製作委員会

浅野:たしかに、すべて肯定しているわけではないんですよね。あくまで彼のような存在を認める、そこから安心感を覚えた人はいるんじゃないかなと思います。

趣里:なるべく穏便にコトが進むように、普段はとりつくろってしまうじゃないですか。だけどやっぱり、生きていればいろんなことがあって、みんな人には話せないような秘密を抱えているわけで、それも含めて自分だと認めてもらう感覚でした。

─浅野先生にとっての深澤は?

浅野:ぼくはいかんせん、深澤との距離がゼロなので。

浅野いにお

浅野:自分が当時思っていたこと、その感覚をそのまま描くくらいのリアリティーがある作品にしたかったので、それこそ隠しておきたい部分も含めて、なるべく正直に描くことを意識した作品でした。

ぼく自身、30代中盤でバーンアウトまではいかなかったけれど、才能の頭打ちというか無力感みたいなものに襲われて、作品制作の壁にぶつかる瞬間がありました。「自己憐憫」と言われたらそれまでなんですけど。

そのときに、新宿の風俗街を深夜に歩いている自分の姿がバーっと思い浮かんできて、「そういう自分も悪くないな」って思っちゃったんです。しみじみしちゃうというか。

その感覚を作品で残すなら、生で感じられているいましかないと思ったのが『零落』を描いた35歳のときでした。

─「しみじみしちゃう」というのは、どんな感じですか?

浅野:おかしかった、というか。ものすごくしょうもない生活を送っていて私生活はひどい状態だったんですけど、そういう自分のありさまが、面白くてしょうがなかった。

斎藤:人って、それくらいどうしようもなくなるときがありますよね。

浅野:そうですね。だけど最近の作品は、道徳や倫理観みたいなものを求められがちじゃないですか。だけど、「そうじゃない」みたいなことがほとんど。ぼく自身、綺麗ごとばっかりは漫画に描けないので、醜いとされる感情も漫画に乗せてしまう。

ぼくは自分のことをバランサーだと思っていて、みんなが明るい話を描いていたら暗い話を描く。いまもそうですけど、当時「頑張りすぎてしまった30、40代の人」の話があまりにもなさすぎると思っていたので、これは成立するんじゃないかと思ったんです。

─たしかに、少年漫画などは学生の主人公の漫画が多いですよね。

浅野:そうなんですよ。でも、10代の読者はかぎられている。このままではメディアとして振り幅が狭いし、ぼく自身も説得力を持って描けるだけの筆力がついてきた、ちょうどいいタイミングでした。漫画はエンタメなので面白く描かなきゃいけないんですけど、深澤のようなしんどさを描いたものも必要だと。

─無力感を感じていた時期から、どのようにして作品づくりに向き合うことができるようになったんですか?

浅野:「諦め」ですね。

─諦め。

浅野:いろんな種類の諦めが重なって、自分の身の丈を知りました。そうすると、自分の間抜けさみたいなものに気がついて、どんどん面白おかしくなってきちゃうんです。別に、黒歴史というわけではなくて、過去の積み重ねでいまの自分があることはわかっています。ただ、着地点が思っていたところよりも随分下がったところにいるなって気づく。でもそれも、諦めることで「まあいいか」っていう気持ちになれました。

漫画家だと、20代で頑張りすぎて燃え尽きる人って多いと思うんですよね。そこからもう一歩進むためにどうしたらいいのかっていうのは、『零落』の場合は露悪的な人間になるという解決の仕方でしたけど、それぞれ模索しながらじゃないと見つからないものだと思います。

─趣里さんはバレエ留学をされていましたが、怪我をして舞台に立てなくなってしまった当時の状況はバーンアウトに近いものだったのでしょうか?

趣里:バレエでいうと、燃え尽きる前に終わってしまったんですよね。挑戦さえさせてもらえなくて、いまでも思い出すと悔しいです。

斎藤:かれこれ、10年くらい前ですか?

趣里:そうですね。そこで、チャレンジできること自体が幸せなんだと思うようになりました。下を向いている場合じゃなくて、どうにかして次に挑戦できることを見つけたいって気持ちになりました。

浅野:趣里さんはこれからですね。朝ドラ(※)もあるし、今年がそのときだ。

趣里:ありがとうございます。でもそれで燃え尽きたくはないですね(笑)。

趣里:バレエは4歳の頃から13年くらい続けていましたが、やめる決断をするときに、次に自分が選ぶ道も同じ年数だけかけてやろうって誓ったんです。

でも、本音を言えば、バレエもやっていたかった。強制的に舞台から降ろされたことも、「私の人生はこういうもんか」と思う反面、「もうこんな後悔はしたくない」とも思うんです。これらの経験をもとに、「人生無駄なことはひとつもない」と言い聞かせてます。

浅野:バレエに関しては不完全燃焼だったんですね。

趣里:挫折でしたね。でも、そこで大きな目標を設定しすぎるとダメージも大きい、ということを学びました。達成できなかったときに、ものすごく自分を否定してしまう。なので、大きな目標はあるけれど、細かく目の前の目標をクリアすることに集中しようと思うようになりました。それは、「逃げ」ではないような気がしていて。

斎藤:逃げではないと思う。

趣里:そうですよね。そうやって、少しずつ実感を得ながら、生きる術を手に入れていっている気がします。

浅野:それは賢いやり方だと思います。ゴールが遠すぎると嫌になってしまう。超えられる程度の短期目標を設定して、それを乗り越え続けていくのが、一番病まない方法だって聞いたことがあります。

斎藤:趣里さんにそういう挫折があったなんて、少し驚きました。

ぼくが最初に趣里さんを認識したのは、山戸結希さんが監督したおとぎ話“COSMOS”のMusic Videoでした。銀座の街をゲリラで、バレエをしながら練り歩くっていう。好きすぎていまでもたまに見ちゃうんですけど、趣里さんの積み上げてきたものと表現力がうまく融合されてできたものですよね。歩むべくして歩んできた道だと思っていましたけど、葛藤があったんですね。

趣里:やっぱり、全部を手に入れようとするのは無理があるよなって思います。

怪我するなんて予想していなかったし、明日どうなるかわからない。なので、とにかくいま目の前のことを全力でやるしかない。この取材だって、全力で楽もうって!(笑)

─ありがとうございます(笑)。

趣里:全部が全部できるわけじゃないんですけど、なるべくそうありたいと思っています。

─斎藤さんにも挫折の経験はありますか? 個人的には、ゲスト出演されていた『アナザースカイII』で見た、パリ国際ファンタスティック映画祭での苦しそうな表情が忘れられません。

斎藤:あれは……全然受けなかったんですよね。会場にいると空気が伝わってくるので、痛感しました。フランス人になら受け入れてもらえるかなと思ってつくったんです。奇跡的に受け入れてもらえるんじゃないかって。でも、そうじゃなかったっていう。

たしかにあれは悔しかったけど、でも挫折という意味だとほかにあって。ぼく「ネクストブレイク俳優」みたいな特集に12年間くらいずっとノミネートされていたんですよ。ネクストブレイクの常連。

全員:(笑)。

斎藤:同じ時期にノミネートされていた人たちが、ものすごい勢いで売れていく姿を毎年眺めていました。その期間が長かったせいか、売れ出してからもわりと冷静に自分自身を見ていました。

タイミングでいうと『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』というドラマ作品でみなさんに顔を知っていただけて。追い風が吹いている自覚はあったんですけど、一方で「これはバーンアウトに向かっているんだな」とやけに冷静にとらえていました。

だから、燃え尽きたあとに備えて、肘当てや膝当てをしておこうって。『零落』的な状態を当たり前の未来予想図として持っていたんだと思います。

─斎藤さんが見つけた肘当てや膝当てというのは、具体的には「肩書きを増やす」ということですか?

斎藤:それもありますし、俳優の仕事をきちんと理解するということですかね。水物だとわかっていないと、勘違いしてしまいますから。

趣里:(うなずく)

斎藤:先ほど、漫画は10代の主人公が多いっておっしゃっていましたよね。映画業界にも青春枠はありますが、40代50代が主人公になるようなビターな作品も少なくありません。それは、主人公が生身の人間であることの面白さなのかなと思います。

浅野:なるほど。

斎藤:枯れていくのではなくて、年輪としてとらえられるんですよね。

浅野:芸能界で活躍していた人がしばらくテレビに出なくなると「落ちぶれた」的な扱いをされたり、歳を重ねた人に対して「劣化」という言葉を使ったりするじゃないですか。

歳を重ねればわかりますけど、人間にとって経年変化は逆らえないもので、むしろ歳を重ねる面白さがある。それをわからないのは、ちょっと感受性のレンジが狭いんじゃないかなとぼくは思ってしまいますね。

─映画『零落』では、深澤が長らく白紙のままにしていた原稿に向き合う長尺のシーンがありますよね。あの場面の息遣いには、バーンアウトを乗り越えるための「原動力となる感情」が込められていたと思うのですが、斎藤さんはどのような感情を持って演じられていたんですか?

浅野:ちなみに、あのシーンは原作だとモノローグが入っているんです。でも、映画だと台詞はない。最初の脚本の段階ではモノローグがあったんですけど、ぼくから「なくてもいいんじゃないか」とお伝えしたんです。

─浅野先生から、直々のお願いが。

浅野:原作にはぼく自身がかなり投影されているので、モノローグもぼくが思っていたことをそのまま描いています。だけど、映画は受け取る人それぞれの解釈があっていいものだと思いました。

なので、すごく気になりますね。斎藤さんがどういうふうに演じたのか。

斎藤:その経緯は初耳でしたけど、竹中(直人)監督と浅野先生がやり取りしてつくられた脚本だとは知っていたので、モノローグがないことには「意味」を感じていました。ただ、そうですね……取材という立場上答えなければいけないと思うんですけど、やっぱりぼくも浅野先生と同じで、観客の方それぞれで感じていただきたいと思っています。

「原動力となる感情」という話でいうと、ぼくのなかではサイン会のシーンが印象的ですね。誰も本当の自分を理解していないということに悲嘆し絶望するシーンです。ぼく自身も役者人生のなかで「こういうことを伝えたい」と思って表現したものが、まったく違う解釈をされるってことは何度も経験してきました。

趣里:……わかります。

インタビューを受ける深澤の様子 ©2023浅野いにお・小学館/「零落」製作委員会

斎藤:それでも表現を続けるか、あるいはやめてしまうか、という葛藤が深澤のなかにあって、彼は続けることを選んだ。自分の生業を肯定して歩みを進めたんです。それは、他者に迎合するということでもあったかもしれません。少し複雑ですけど、そういう感情を持って演じていました。

浅野:ちなみに、斎藤さんは怒りを原動力にしたっていう経験はありますか?

斎藤:めちゃくちゃあります。ぼくの場合、それこそが強い原動力になっていると思います。

─たとえば、どんなときにそう感じますか?

斎藤:6年前、大晦日にやっているガキ使の『笑ってはいけない』に出演させていただいたんです。そこで、サンシャイン池崎さんのネタをお借りして、自分の貯金残高をハイテンションで叫んだんです。

趣里:すごく覚えています(笑)。

斎藤:現場で3つ候補を提示いただいたんですけど、そのなかで一番想像できないと思ったものを選びました。それくらいぶっ飛んでないと出る意味がないと思ってて。

現場はすごい緊張感でした。ベテランの芸人さんがネタを飛ばしたり、頭真っ白になっていたり。そこでひとつギアが入ったというか、自分が失うものなんて何もないから、ブレーキをかけずに全力でやろうと思ったんです。趣里さんみたく、目の前のことにがむしゃらに。

趣里:ああ、はい。その感覚わかります。

斎藤:ドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』に出演したのが2014年だったので、世間ではその印象がまだ残っていて。不倫ドラマに出演したボソボソした男というイメージがあったと思うんですよね(笑)。でも、それが本当の自分ではないし、世間からいろんなことを言われて、半ば逆ギレみたいな気持ちでした。それは、『零落』的な怒りに近いものだし、往々にしてあるなと思います。

─すみません。ここでお時間が……。

斎藤:うわあ、申し訳ないです。ぼくの話ばっかり。ちなみにおふたりは?

趣里:私は「見返してやる」みたいな気持ちが強いかもしれないです。悔しさというか、負けられないという根性論的な感情です。

浅野:ぼくはそのときによるんですけど、『零落』を描いていたときは怒りしかなかったです。

斎藤:少しでも聞けてよかったです(笑)。