Text by 村尾泰郎
Text by 後藤美波
Text by タケシタトモヒロ
デヴィッド・ボウイの新作ドキュメンタリー映画『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』が3月24日に公開される。2022年に『カンヌ国際映画祭』でプレミア公開された本作は、数あるボウイ関連の映像作品のなかで唯一のデヴィッド・ボウイ財団公認作品。監督を『くたばれ!ハリウッド』『COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック』などのブレット・モーゲンが務めた。
本作はナレーションや、関係者へのインタビューなどは一切なく、ボウイの声と音楽、そしてコラージュ的に挿入されるボウイが影響を受けたさまざまな映画や哲学者、作家の映像から成る。そこからはミュージシャンとしてのボウイの軌跡だけでなく、ボウイの死生観や家族との関係、アーティストとしての姿勢、大衆との向き合い方など、「変化」を自分に課した表現者の哲学が浮き彫りになっていく。
生前「普通のドキュメンタリーにはしたくない」と話していたボウイの思いを受け継ぎ、本作を完成させたブレット・モーゲン監督。5年の歳月をかけて膨大なアーカイブ素材に目を通したモーゲンが、本作を通じて出会い直したボウイの姿とはどんなものだったのか。来日した監督に話を聞いた。
イギリスを代表する音楽誌『NME』が、2002年にデヴィッド・ボウイを最も影響力のあるアーティストに選んだ際、ボウイはインタビューでこんなふうに語っていた。
「自分はちょっと変わったアイデアを持っていて、それを作品にすると不思議なことに何年か後にほかの人たちが同じようなことをしている。まるでぼくが庭師で、蒔いた種が大きく育っていくみたいで最高の気分だよ」
ボウイはつねに新しい種を蒔き続けた。1960年代にデビューした頃はモッズの影響を受けていたが、1970年代に入るとグラムロックを独自に昇華したアルバム『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars』(1972年、邦題は『ジギー・スターダスト』)でブレイク。ソウルミュージックに挑戦したシングル曲“Fame”(1975年)が全米ナンバーワンのヒットになったかと思うと、いち早くシンセサイザーをロックに取り入れた『Low』(1977年)でアート色を強めて、後のニュー・ウェイヴに大きな影響を与える。
そして、1980年代に入ると、ファンク色を押し出したポップな『Let's Dance』(1983年)の大ヒットでロックスターとして頂点を極めることに。その後もボウイは新しい世界を探求し続けたが、彼の代表曲のタイトルそのままに「変化(Changes)」することがボウイのアーティストとしてのアイデンティティーだった。
『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
そんな謎めいたアーティストを題材にしたドキュメンタリー映画『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』は、ボウイのアーカイヴを管理するデヴィッド・ボウイ財団が公認した初めてのドキュメンタリーだ。監督を務めたのは、これまでカート・コバーンやThe Rolling Stonesのドキュメタリーを手がけてきたブレット・モーゲン。本作はこれまで制作されたボウイに関する映画、そして、どんな音楽ドキュメンタリーも似ていない。そこにボウイの作品に通じるクリエイティブな実験精神を感じさせるが、モーゲンはボウイの種が自分のなかに蒔かれた時のことをこんな風に振り返る。
「12~13歳の頃に学校でいちばんクールな子がいて、彼の家に遊びに行くと当時リリースされたばかりの『Scary Monsters (and Super Creeps)』(※)がヘビーローテーションされていて(収録曲の)“Ashes to Ashes”のミュージックビデオがずっと流れていた。それでボウイの存在を知ったんです。
ちょうど自意識みたいなものが芽生えていた時期で、それまでは両親と一緒にいることに安心感を感じていたんだけど、だんだん自分を一人の人間として感じるようになっていて。そんなときに、ボウイの音楽を聴いたら、自分と同じようなことを考えている人がいる、と思わせてくれた。ボウイは、自分は一人じゃない、と感じさせてくれるミュージシャンでした」
ブレット・モーゲン
ドキュメンタリーの分野で活動する映像作家。1968年、米ロサンゼルス生まれ。1999年に『On The Ropes』(原題)で『アカデミー賞』長編ドキュメンタリー賞にノミネートされ、注目を集めた。『ゴッドファーザー』などで知られる映画プロデューサー、ロバート・エヴァンスにスポットを当てた『くたばれ!ハリウッド』(2002)も好評を博す。The Rolling Stonesを扱った『クロスファイアー・ハリケーン』(2012)では、『ムーンエイジ・デイドリーム』と同様に膨大なアーカイブから貴重な映像を選り抜き、彼らの1960~70年代の激動の歩みを時代背景とともに浮かび上がらせた。同じく音楽ドキュメンタリー『COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック』ではニルヴァーナの故カート・コバーンをクローズアップ。2017年のテレビ作品『ジェーン』では『エミー賞』の監督賞を受賞している。
やがて映像作家として活動するようになったモーゲンは2007年にボウイ本人と初めて会い、ドキュメンタリーの制作を打診するが、当時ボウイは半ば引退状態で実現はしなかった。話が動き始めたのはボウイが亡くなった後。ボウイの遺言執行人が「ボウイは彼の人生にまつわる大量のものを保存していて、それをうまく活用できないか」とモーゲンに相談を持ちかけた。
「その段階ではまだ、具体的なプランはなかったけど、普通の伝記映画にはしたくないと思っていました。私は映画をつくるとき、映画的な体験を観客に与えるにはどうしたらいいのか、ということをつねに考えていて、本にはできないことをしたい。だから最初はテーマパークの乗り物に乗ったような迫力のある作品にしようと思っていたんです」
モーゲンはデヴィッド・ボウイ財団の許可を得て、大量のアーカイブ映像に目を通した。1日12時間、映像を観るという作業を週6日やって、すべて観終わるまで2年かかったとか。それでも「最後の日も最初の日と同じくらいワクワクした」そうだ。そして、モーゲンは「デヴィッドのインタビューを見直していくうちに、人生について語り、観客の魂に訴えかけるような映画にしたい」と思うようになった。
『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
アーティストのドキュメンタリー映画といえば、時系列にアーカイブ映像を構成して、そこに関係者や評論家のコメントを織り交ぜるものが多い。いってみれば、伝記本をそのまま映像にしたようなもの。一方、『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』は第三者のコメントは入れず、ボウイの発言だけで構成。そこにボウイのインタビューやライブなどのアーカイヴ映像、ボウイの曲がコラージュのようにミックスされて、まるでボウイの頭のなかに迷い込んだような映像世界をつくり上げている。
「私は日付や名前、情報から解放された印象派的な映画をつくりたかった。観客にデヴィッド・ボウイのミステリーとマジックのなかで泳いでもらいたかったんです。デヴィッド・ジョーンズ(ボウイの本名)の伝記映画をつくるつもりはなかったから」
モーゲンはそう語るが、言葉や映像を編集していくうえで自身の個人的な体験が大きく影響したという。映画の冒頭では「時間は最も複雑な表現だ」というボウイのモノローグが引用されているが、そこにはこんな経緯があった。
「映画の脚本に取りかかってすぐに心臓発作を起こして、一週間昏睡状態になったんです。ようやく回復して映画にふたたび取りかかったとき、人間の生命には限りがある、という当たり前のことを新鮮な感覚で捉えることができた。映画の冒頭のボウイのモノローグは、そういったパーソナルな理由もあってすごく心に響いたんです。
この映画は、そこで語られていることがテーマと言えるかもしれない。我々の人生というのは、ニルヴァーナ(涅槃)にたどり着くことではなく、そこにたどり着くまでの道のり。そのことを受け入れることができれば、デヴィッドがよく言っていたように『毎日がいろんなチャンスでいっぱい』なんです」
本作の魅力のひとつはボウイが残した数々の言葉だ。その言葉はボウイのキャラクターを紐解くヒントになるだけではなく、こちらにさまざまなトピックを問いかけてくる。
モーゲンは印象に残ったボウイの言葉をもとにして何度も脚本を書いた。しかし、脚本に沿った映画づくりはしなかった。本作の要となるのは編集。モーゲン自身が編集を手がけているが、それは即興的な作業であり、編集したものをもとに脚本を書き、さらにサウンドエフェクトを入れるときや色彩調整をするときなど、段階的に脚本に手を加えていったという。
『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
「この作品では、編集、脚本、サウンドデザインのすべてに携わりました。自分一人でいろんなことをやってみる絶好のチャンスだと思って。
まず最初に映画用のプレイリストをつくったのですが、そのときに『Transience(儚さ)』『Chaos(混沌)』『Fragmentation(断片化)』という3つのテーマを意識して、それを違ったかたちで掘り下げてくれる曲を選び、次に曲に映像を合わせていきました。
ひとつの曲、ひとつの映像を選ぶと次に選ぶものが自然に頭に浮かぶ。そうやって即興的に編集していく際には、何が正しいのか、ということは考えず、フィーリングが合えば何をやっても問題ないと考えていた。もし、何かを間違えたとしても、それはデヴィッドがよく言っていた『幸せなアクシデント』なんです」
本作で驚かされるのは、ボウイのオリジナル曲までも自由にミックスしていることだ。異なる曲を組みわせたり、ドラムのトラックだけを使用したり、ここまで監督に自由な権限が与えられるのも珍しい。モーゲンは音と映像を駆使して、インスピレーションの赴くままにボウイの肖像を描き出した。
「私はこの作品を手がけるまで、自分がアーティストだとは思っていませんでした。逆にアートは苦手だったんです。というのも、5歳まで言葉を話すことができなくて、16歳までセラピーを受けていたから、両親も私が映画監督になるなんて思ってもみなかった。
それなのに、こんなやり方で作品をつくり上げることができたのは、ボウイが励ましてくれたからです。あるインタビューで、ボウイは『Pretentious(自惚れた、仰々しい)』という言葉について、それが悪い言葉だと思わない、と答えていて。『Pretentious』の語源は『Pretend(ふりをする)』で、それは『To Play(遊ぶ)』からきている。自分がものを創造するときは、そういう姿勢でいたいと思っている、と語っていました。その発言を聞いたとき、私は大きな開放感を感じて、ようやく自分をアーティストとして思えるようになり、大きなリスクに挑戦する勇気が出たんです」
本作はドキュメンタリーというよりも、観る者が自由にとらえることができるアート作品としての側面を持っているのが大きな特徴だ。一見、脈絡なくミックスされた音と映像が、観る者ひとりひとりに違った印象を与え、無数のボウイのイメージを生み出す。つねに変化していったボウイのアーティストとしてのエッセンスを映画でとらえるには、本作のような独創的なアプローチが最適なのかもしれない。
そんななか、本作に使用された映像で印象に残ったのは、後半にたびたび使用される、ボウイが東南アジアの街を一人でさまよう姿だ。これは1984年に制作されたドキュメンタリー映画『ザ・プライベート・フィルム・オブ・デイヴィッド・ボウイ リコシェ』の映像で、『Let’s Dance』のツアーでアジアを回ったときに撮影されたもの。その異邦人的な佇まいは、かつてボウイが映画『地球に落ちて来た男』(1976年)で演じた異星人、トーマス・ジェローム・ニュートンを彷彿とさせる。
「『リコシェ』はボウイが街を歩き回っているだけの奇妙な映画で、この映像を使いたいと連絡したとき、財団の人たちは驚いていました。それくらいあまりちゃんと評価されていない作品なんですが、アジアの街を異邦人としてさまよう姿は、ボウイのアーティストとしてのイメージにぴったりだと思いましたす。私にとってボウイは文化人類学者的な感性を持ったアーティストですから。
それに『リコシェ』が『Let’s Dance』の時期に制作されたのも興味深い。映画で『Let’s Dance』の時期のシークエンスをどのように仕上げようかと考えていたとき、この映像を挿入することで、ボウイは8万人いるスタジアムでショーをやる一方で、夜の街を一人でさまよってクリエイティブな時間を過ごしている、というふうに見せられると面白いと思ったんです。私自身、ボウイがメインストリームで人気になってもそういう時間を大切にしている、と考えると心温まる感じがして。ボウイは『リコシェ』に、内省的なベルリン時代の曲を使っているんです」
『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
ボウイはつねに異邦人的な眼差しで世界に触れることで、さまざまな音楽やカルチャーから新しい魅力を引き出していったのだろう。『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』では、ボウイのアーカイブ映像だけではなく、ボウイが影響を受けた映画や人物の映像や音楽も盛り込むことで「ボウイ宇宙」を構築している。例えば最初のボウイの時間をめぐるモノローグの後、映画『ブレードランナー』(1982年)のクライマックスでレプリカントのロイ・バッティが呟く有名なセリフ、「すべての瞬間は時のなかに消えていく。雨のなかの涙のように」が挿入された時にはハッとさせられた。
「あれは編集をしている時に直感的に閃きました。デヴィッドの時間に関する考え方と通じるものを感じて、あのモノローグの後にぴったりなセリフなんじゃないかって。その後、調べてみたら、バッティの製造日と、ボウイの誕生日が同じだということを知りました(※)。それはまったくの偶然だけど、偶然のような必然とも言える。私は世の中に偶然なんてないと思っていますから。今回はつねにオープンな気持ちで作品に向き合って、幸せなアクシデントが起こる環境をつくることが大切でした」
モーゲンにとって本作は、監督としてのあり方だけではなく、人生を変えるほどのプロジェクトだったようだ。本作を制作する前と後ではボウイに対する印象は変わったかとモーゲンに尋ねる、彼は大きく頷いた。
「完全に変わりました。彼が偉大なアーティストであることは知っていたけれど、彼が地に足が着いた偉大な人物だったことは映画に関わって初めて知りました。私は彼ほど規格外の人生を歩んだ人をほかには知らない。彼は闇雲に突き進んだわけではなく、自分で人生をデザインして、そこで得たものをすべて自分のものにした。こういうアーティストには、生涯一度ぐらいしか出会えないでしょう」
ボウイの蒔いた種が、一人の監督、一本の映画として大きく育った。確かに、これほど影響力を与えるアーティストは滅多にいないだろう。『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』もボウイ本人のように、観る者をインスパイアするに違いない。そして、本作から新たな種が蒔かれるのだ。