Text by 常川拓也
Text by 川谷恭平
A24史上最高ヒットを記録している『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』。中国系移民でコインランドリー経営者のエヴリンの生活は、溜まった領収書の山のように乱雑だ──優柔不断な夫ウェイモンドとの関係は冷め切っていて、反発する娘は家出寸前、国税局の監査も入った状況である。しかし突如として、回る洗濯機のように彼女の人生は急転する。
全宇宙に混沌をもたらす闇の王ジョブ・トゥパキを中心に迫り来る多次元的な襲撃者たちに対抗するため、異次元に住む別の人生を送る自分にアクセスしながら、マルチバースを駆使して戦わなければいけなくなるのだ。
仏教は、物理学の多元宇宙論と親和性を持つといわれる。本作のタイトルが示唆するように、ここでは、過去、現在、未来すべてが同時に存在する。時間の概念が、西洋の直線的なものではなく、仏教の循環的な意識が基調としてあるのかもしれない。
カンフーアクション、コメディー、SF、ロマンス……あらゆるジャンルを超越する、ダニエルズ(ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート)による遊び心に満ちたカオスの世界を仏教思想から読み解くべく、元エンジニアで結婚を機に仏門に入った僧侶の小路竜嗣に話を訊いた。
小路竜嗣(こうじ りゅうじ)
1986年、兵庫県生まれ。2010年、信州大学大学院修了。元メカエンジニア。2014年から塩尻市の善立寺副住職。テクノロジー活用で寺院効率化を伝える、寺院デジタル化エバンジェリスト(伝道師)としてWEB サイト構築セミナーやネットリテラシー啓発活動など展開中。(写真提供:小路竜嗣)
※本記事は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のネタバレを含みます。
─まずは、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(以下、『エブエブ』)を観た感想から教えてください。
小路:とても面白い映画でしたね。個人的には、夫ウェイモンド役のキー・ホイ・クァンがウエストポーチで戦うシーンに感動しました。私は『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984)、『グーニーズ』(1985)の世代で、彼は両作品に子役で出演していたんです。
それ以降、映画出演が減り、あまり見なくなってしまったのですが、本作ではマーシャルアーツを駆使して闘う姿にとても興奮しました。
エヴリンを演じたミシェル・ヨーも以前はカンフーの師匠役などとしてよく目にしていましたが、今回はコインランドリーのおばちゃんの役で、こういったキャラクターの演技もできる人なんだとわかって面白かったです。
─さて、今回は仏教思想から本作を紐解くという趣旨ですが、最初に仏教の要素が感じられたのはどの場面ですか?
小路:序盤の用具室の場面からですね。正確にいうと、仏教はこの作品のエッセンスで、量子力学の考え方がベースにあると説明するのが適切かもしれません。
量子力学は現代物理学の理論で、私たちが生きるマクロな世界の力学と違って、この世界が波や確率によって構成されているという考え方をします。
―量子力学の「シュレーディンガーの猫」という実験は聞いたことがあります。
小路:シュレーディンガーの猫は量子力学における思考実験の1つですね。箱の中に猫を入れ、その隣に毒物が入った瓶を置くとします。ある確率によって瓶が割れ、猫が死んでしまうとする。量子力学では箱を開いて中を観測するまでは猫は生きた状態と死んだ状態が重ね合わさっている、と考えます。
つまり、この猫は私たちが観測しないあいだ──箱を開けるまで──猫は生きていて、かつ死んでいると考えるんです。
どうしたらこんな難しい内容が説明できるのかとなったときに、この世は私たちが存在する1つの世界だけでなく、パラレルワールドが無限に連なっていると考えるとつじつまが合う。これが、量子力学においてマルチバースが存在するという多世界解釈の基本的な考え方です。
―あの用具室の場面では、エヴリンは用具室の中にもいるし、外にもいますね。
小路:そう、まるで実験の猫のように、2つの状態が重なり合っています。用具室内でウェイモンドはエヴリンに「君が世界を救うんだ」と告げた次の瞬間、扉を破ってきた国税庁の監査官ディアドロに殺されてしまう。
エヴリンは、夫が殺害される場面を観察することによって、もう1つの世界の存在を知り、パラレルワールドが始まるという進め方になっています。
―あの場面、ディアドラの額には眼がありましたが、どのように解釈しましたか。
小路:あれは観測者の眼の証で、シュレーディンガーの猫を外から見る人の役を担っていると思いました。あの印は、異世界を旅する人、ほかの宇宙を移動する人の印を意味している気がします。
左から娘ジョイ、夫ウェイモンド、エヴリン、祖父ゴンゴン / ©2022 A24 Distribution, LLC. All Rights Reserved.
国税庁の監査官ディアドロ / ©2022 A24 Distribution, LLC. All Rights Reserved.
─たとえば、『パーム・スプリングス』(2020)では、タイムループから脱出するための方法として量子物理学のひも理論のことが言及されていて、劇中のパラレルワールドも物理学的なインスピレーションから生まれているイメージがありました(※)。
本作のマルチバースはエヴリンが石にもなり、輪廻転生の概念に通じるものがある気がします。仏教とマルチバースにはどのような共通点があるといえますか。
小路:先ほどお話したとおり、『エブエブ』は量子力学のインスピレーションがまずある。本作のなかでエヴリンは無数に同時に存在していますよね。じつは仏教自体も、そもそも宇宙がたくさんあるという考え方をしているんです。
―どういうことでしょうか。
小路:たとえば、お寺の参道に並んでいる六地蔵は、6人のお地蔵さんではなく、1人の地蔵菩薩が6つの異なる世界を守っているということを表しています。私たちが住むところにはお釈迦様という仏様がいて、ほかの宇宙には別の大日如来がいて、西の世界には阿弥陀仏がいる──このようなマルチバース的な考えができると思います。
また、仏教は過去にも、現在にも、また未来にも無数の仏様が存在していると考えます。いろんなところにいろんな仏様が別に存在しているというのが大乗仏教の考え方なんです。
地蔵菩薩像(写真提供:小路竜嗣)
─後半でエヴリンは銃弾をギョロ目に変え、それを彼女自身の額につけますが、第三の眼のようにも見えます。
小路:第三の眼は、じつは仏教の概念ではなく、ヒンドゥー教に由来するんですよね。人間ならざる者とか人間を超越した力を持っている人にその眼が出ます。エヴリンが額にギョロ目をつける行為は、そうしたヒンドゥー教的な人間を超えた存在になる意味合いで演出として加えられていると考えることもできるかもしれません。
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写真提供:小路竜嗣
─エヴリンはアジア系移民としてありえたかもしれない人生の「もしも」が本作のマルチバースには込められてもいます。彼女の冒険をどのように見ましたか。
小路:禅語に「放てば手に満てり」という言葉があります。私たちは両手に持てるものは決まっていて、手を握っていたら新しいものは掴めない。手を放てば、ほかの大切なものを掴むことができる、もしくはすでに持っていていた大切なものが見えてくる。心のなかの意固地な執着をなくせば、もっと本質的に大切なものが見え、心を満たせるというものです。
最初、エヴリンはコインランドリーの経営にも家族の問題にも頭がいっぱいで追い詰められていますが、最後まで見ていくと、それまで気づけていなかった大事なことに気づいていく。
彼女は、映画スターの夢を手放したからこそ、何ものにも代えられない娘を手に入れられた。そのことに気づく物語だと感じました。スターの世界よりもコインランドリーの世界を選んだ。エヴリンはそれまで執着していたものを放つことで、自分の幸せを見つけられたのだと思います。
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─ダニエルズが物語に込めた意図にかかわらず、本作はさまざまな部分で仏教的に解釈できますか?
小路:仏教は人間の感情の動きや心理を説明しているものが多いので、じつは、なんでもこれは仏教的だと言おうと思えば言うことができるんです。先ほどのエヴリンの物語を仏教思想でさらに補うとすると、「縁起説」も有効です。
―どういった考えでしょうか。
小路:縁起説は、物事に固定された概念や価値というものはなく、「縁」という原因や条件による関係から意味が決まっていくとする考えです。たとえば、コップは水を入れて飲むものですよね。でも、花を挿したらそれは花瓶になります。ということは、コップそのものが持っている固定的な価値というのはないと考えられます。
本作でもこうした縁によって、エヴリンの固定化された価値観の変化を見ることができると思います。
彼女はディアドロのことを嫌な監査官と思っていますが、縁起が違う世界では、恋人同士になっている。関係性が異なる経験を経たことで、同じ世界であっても、ラストシーンの2人は好意的です。相手は変わっていないけれど、ものの見方と経験によって価値観が変わり、そこに縁起が感じられます。
―エヴリンはマルチバースをとおして、きらびやかな映画スターやコックなどさまざまな別の自分を経験しますね。
小路:そうです。しかし、きれいなドレスを着てレッドカーペット歩く世界に、いまの家族はいないことに気づく。まったく別の自分を経験したことで、扱いに困っていたジョイも頼りないウェイモンドも大切で、差し押さえられそうなコインランドリーでの生活が自分の生きている幸せな世界だと価値を見出せるようになった。
エヴリンは、最後にコインランドリーの外で車に乗って家出しようとするジョイに対して、ほかのパワーを持つ異なるバージョンの自分ではなく、全エヴリンのなかでもっとも何も持っていない自分自身として声をかけることを選びます。
現在のエヴリンを形成しているのは、いままでこの宇宙を生きてきた自分の選択があるからで、ほかにいろんな人生を経験したとしても、成功も失敗もすべてをひっくるめて、いまの私がいると受け入れている。そのように解釈することも、仏教的といえるかもしれません。
©2022 A24 Distribution, LLC. All Rights Reserved.
─一方で、闇の王ジョブ・トゥパキは、異なる人生をすべて同時に体験でき、宇宙の無限さを知るがゆえに、何も重要でないと結論づける状態になっています。
小路:仏教では欲望のことを「渇愛」といいますが、娘ジョイがジョブ・トゥパキになってしまった理由として、「有愛(存在することへの渇愛)」があげられると思います。
思春期の子どもは、親から認めてほしいという気持ちを抱くものですが、ジョイは自分のセクシュアリティーを母に認めてほしい、母から自信を持ってガールフレンドを祖父に紹介してほしい、そのような有愛を抱えています。
しかし、親に認めてほしい気持ちが叶わないのであれば、いっそもうこの世ごと消えてしまえという感情になってしまうわけです。
ジョブ・トゥパキ / ©2022 A24 Distribution, LLC. All Rights Reserved.
―彼女の虚無の境地は、仏教の観点からはどのように説明できますか。
小路:この世なんて虚無であってほしいというのも「欲」だとするのが仏教の考え方なんです。ジョブ・トゥパキのこうしたニヒリズムは、仏教では「無有愛(非存在への欲望)」と見なせます。
彼女が世界を滅ぼそうとするのも、仏教の考えでは有愛と無有愛は表裏一体だからです。本作のベーグルはブラックホールのメタファーだと感じました。ブラックホールは、もとは巨大な質量の天体です。それが自らの重力に耐えられなくなることで、光をも飲み込むブラックホールになります。膨れ上がる有愛が最終的にジョブ・トゥパキの虚無感へと帰結しているのではと思いました。
─おっしゃるとおり、ジョブ・トゥパキは巨大なベーグルをつくり、それはブラックホールのような終末装置として登場します。一方で、黒い円に白い穴が開いたあのベーグルには「円相」のニュアンスはないですか。
小路:確かに円相の可能性もありますね。円相は、始まりがなく終わりがない、円満なものや完全なものという考え方ですね。すべてを包み込む宇宙全体を象徴します。通常、円相は肯定的にとらえますが、もしかしたら、ジョブ・トゥパキは、始まらなければ終わらない、出会わなければ別れもない、という虚無に陥ったのかもしれませんね。
─本作はニヒリズムへの対応がテーマとなっていますよね。ダニエルズはニーチェの永劫回帰(※)を主題としたタイムループ映画『恋はデジャ・ブ』(1993)からの影響を公言しています。
『恋はデジャ・ブ』や『パーム・スプリングス』でも、同じ1日を延々と繰り返すなかですべてが無意味だと悟った主人公が、ニヒリズムの克服に向かっていく姿が描かれます。ニーチェの哲学と仏教の類似や違いについては、どのように思われますか。
小路:仏教は「信仰」と「実践」を伴います。座禅をする宗派の人は座禅を組み、念仏をお唱える宗派の人は念仏をお唱えます。一方で、哲学の場合は、実際に何か行動を起こすことはないですよね。
仏教というのは、先ほどお話したように、縁起によって物事が成り立っているので、虚無ではなく、固定された価値がないだけであると考えます。
そのものの実体としてはからっぽだけれど、それは何もないという意味ではなく、からの器の中に意味を注いでいくのが縁起なわけです。虚でも無でもない状態なので、仏教とニヒリズムは明確に異なります。
─この映画では、対立が暴力ではなく親切で解決されます。仏教的な慈悲も感じられました。
小路:おっしゃるとおり、最後、ウェイモンドがエヴリンに「親切にしよう」と言って、温和に話し合いで解決します。これは他者をいつくしむ慈悲の気持ちだと思いました。彼は誰にでもわけ隔てなく優しい。エヴリンはディアドラのことが嫌いなため、ウェイモンドが彼女にクッキーをあげることに怒っていたけれど、それによって夜まで監査を待ってもらえるようになります。
頼りなく気弱な夫よりも異次元の武術ができる別の彼の方がかっこよく見えるときがあっても、だんだん後半に進むに従って、もとの世界の夫の方が自分のことを思ってくれていて、見捨てない人だとわかっていく。
でも、ウェイモンド自体がやっていることは変わりません。ずっと優しく、最初からディアドロにクッキーをあげる人。コインランドリーのお客さんにも倒そうとする敵にも優しくしようとするのは慈悲の心であり、エヴリンにとって優しさの象徴がウェイモンドだと感じました。
─小路さんは「MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)」もお好きとのことですが、近年MCUではマルチバースを扱った作品が増えています。今作のマルチバースの扱いはマーベルとはどのように違うと思われましたか。
小路:マーベルだと、みんなもとの世界からヒーローですが、『エブエブ』は一番どうしようもない人を起点にマルチバースが展開されるのでめずらしいです。
タイトルが示すように、「すべてのもの」と「すべてのところ」が1つの場所にある──基本的にコインランドリーと税務署のなかだけの話で、バースジャンプでマルチバースを経験するのは主人公目線、すべてエヴリンから見た世界の話ですよね。物語装置として、マルチバースの扱い方が異なっていると思います。
─なぜ物語の設定としてマルチバースの人気が高まっていると思いますか。
小路:もともとマーベルは、同一キャラクターのストーリーでさえも、いろんな人がストーリーを書いていて、物語の時系列や設定がつながらなくなったから、解決策として出版社の都合でマルチバースが導入されたという説があります。
でも実際に、量子力学の分野では、いま私たちが生きている宇宙が1つじゃないかもしれないという多世界解釈の話がここ50年ぐらいのあいだで出てきたんです。
世界の物理学者たちが、無限に並行世界が広がっている可能性を真剣に研究していることで、マルチバースというのが夢物語でなくなったといえるかもしれません。
―そういう科学的なあと押しもあると。
小路:あと増えている理由として、誰しもが「もしも、あのときああなってたら」って考えてしまうことも関係している気がします。いろんな選択肢が人生にはいっぱいあるけど、あのときあの選択をしなかったからもっと自分の人生は良くなってたかもしれないと人間って思っちゃいますよね。
マルチバースやタイムリープ、日本なら異世界転生ものが人気で、ほかの世界に行ったらこんなに活躍できましたみたいな話が多いです。
でも本作は、人生を「たられば」で考えるのではなく、そのときに自分が真剣に考えて決断したことであれば、そんなに悪いものじゃない、もう一度いまの自分を見つめ直して頑張ってみようと勇気を与えてくれる映画じゃないかと思います。