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「区切りってないでしょ」 津波に飲まれた妻の名入りプレートを毎週磨く美容師 #知り続ける

2023年03月11日 08:41  弁護士ドットコム

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「津波警報があったとしても、浸水しないと思われる安全な場所に自分の車を駐めるようにしています。もしものときは、お客さんをそこまで避難させて、髪を流せます」


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岩手県釜石市の美容師、片桐浩一さん(53)だ。12年前の東日本大震災で、妻の理香子さん(当時31)と、お腹にいた陽彩芽ちゃん(妊娠9カ月目)を亡くした。理香子さんは当時、被害の大きかった同市・鵜住居(うのすまい)地区の幼稚園で臨時教諭をしていた。



大きな揺れのあと、理香子さんは、他の職員や延長保育中の園児とともに、いったん幼稚園の庭に避難した。その後、避難所と指定されていた鵜住神社には向かわず、目の前にある「鵜住居地区防災センター」の2階に避難した。



しかし、防災センターは津波に襲われて、市の推計によると、162人の地域住民が亡くなった。地区の住民でないため、理香子さんら園の関係者はその数に入っていない。(ライター・渋井哲也)



●いまでも妻のことを思い出す



「今年は13回忌ということもあって、法要など、その準備もあって、妻のことを思い出します。去年よりも思い出す回数は多くなりました。思い出したとしても、現実問題として、妻に会えるわけじゃないんですが…」



片桐さんは何度も後追い自殺を考えた。



震災後に津波警報や注意報があっても避難しなかった。筆者が初めて取材したのは、津波浸水エリアの飲食店。取材中、津波注意報が出たが、避難する様子はなかった。



12年目を迎える中で、現在の心境はどのようなものか。



「自分が壊れてしまうような感覚は減ってきているとは思いますが、まだ、そうした感覚を持つことはあります。そこまで破滅的なものはないです。



ただ、いまの生活をしていく中で、コロナ禍ということもあって、商売的にマイナスなことが結構あったんです。一日一日を生きていくのに必死でした。



金銭的に辛いときに『なんとか助けてくれないか』と人に頼むことがありました。もちろん、助けられるものではないんですけど」



●「どうやったら助けられたのか」と考える回数が増える



震災直後は酒量が増えた。一時は希死念慮も強かった。しかし、いまは酒量をセーブしている。



「お酒は飲む量を抑えていますよ。なんか、そこに逃げちゃうと、もう自分が止められず、ずっと酒に浸ってしまうような気がして」



ただ、いまでも、妻を助けられなかったことを悔やんでいる。



「あのとき、どうやったら妻を助けられたんだろうと考える回数が増えてきています。ああすればよかった、こうすればよかったとか。あのとき何かできなかったのか、でも、こういう状況だったよな、とか。



しかし、お互いに、やるべき仕事があって、どうしても地震後にその状況下に身を置かなくちゃいけなかった。ということは、自分たちは自由に行動できなかった」



当時、片桐さんは美容室で働いており、客を避難させなければならなかった。一方、幼稚園で働いている理香子さんは園児を守らないといけない。その行動を変えることはできない。



「もし地震直後に、妻の安否を最優先にして、自分が車で迎えに行っていたら、助けられたのかな、と思ってしまう。実際、計算上は、行けるには行けたかもしれないが、俺も死んでいたかもしれない。



もちろん園児たちもいましたので、妻は放置して逃げるわけにはいかなかった。もし当時、そうした迎えに行って、妻に会えたとしても『じゃあ、俺も、(津波に被災のあった防災センターへ)一緒に行くことになっていたかもれない」



●独自の「避難マニュアル」をつくった



変えられるとすれば、避難の枠組みだという。



「組織の中にいる人たちは、枠組みを守らないといけません。つまりは、自分の行動だけでは変えられない。だからこそ、避難のシステムを変えるしかない。



だから、いまは『従業員がいたら』とか『お客さんがいたら』という前提で、どう行動するかを想定しています。従業員にも認識してもらっています。地震がなくても、常に考えられるようになりました」



冒頭の言葉の通り、もし津波警報が発令されたら、片桐さんは津波で浸水しないと想定できる安全な場所に客とともに避難する「独自のマニュアル」をつくっている。



「一応、持ち運び用の水を用意して、車に積んでいます。カラーを入れるお客さんや、パーマ中のお客さんがいる状況を考えて、それに合わせた薬剤を運べるバックも作りました。そのまま持っていけば、処理できるようにしています」



市の避難マニュアルでは、店のある地域の津波避難場所は、平和女神像のある薬師公園とされている。高台となっており、震災でも、近くの保育園児を含めて多くの人が避難した。距離としては、さほど遠くない。しかし、途中に県道がある。



「県道は車が多く通ります。その道を渡るという行為に危険が伴います。当時、薬師公園まで逃げる途中で亡くなった人もいました。そのため、注意しながら安全な場所へ避難することにしています。ただし、お湯は用意していないので、冷たい水ですが、そのときはお客さんに理解してもらうしかないですね」



●「相変わらず、この世に未練はない」



津波が襲ってくることを想定した行動を毎日のようにとるのは、大変な気もするが、片桐さんはそうは感じていないという。



「習慣にしないといけません。ほかの駐車場利用者も、そのスペースに俺が車を駐めるとわかっているのか、いつも空けておいてくれています。だからこそ、必ず、そこに駐めます。



万が一、いつもの場所に別の車が駐めてあったら、排水溝のある場所の近くを探します。実際、そういうことが何度かありました。



『なんで俺の場所にとめているんだ』と思ったりしました。もちろん、決まっているわけじゃないんですけど」



以前は、津波警報が発令されても、自分は避難しないと決めていた片桐さんだが、いまではどういう行動をとろうと思っているのか。



「お客さんがいるかいないかにもよります。もちろん、お客さんがいた場合は、避難しますよ。従業員だけだったら、津波到達の時間次第にもよりますが、その状況判断に任せると思います」



では、店に1人でいた場合や、自宅で過ごしていた場合は避難を考えるのだろうか。



「相変わらず、この世に未練はありません。仕事だけでなく、生きていること、やり残したことは一切ありません。津波に飲まれた妻の苦しさを知らない自分だけが残っています。



もちろん、自分が死ぬことで、妻に会えるわけじゃないかもしれない。でも、生きるのはもういいかな、という気持ちがある。もう、いつ自分の人生が終わってもいいかなと。



生きるのが苦しくなってきたというのも、(年齢を重ねるごとに)増えてきました。妻のつらさを知らないというだけじゃなくなってきました」



●毎週、妻の名が書かれたプレートを磨く

理香子さんが津波に飲まれた防災センターは、すでに解体されて、市内で亡くなった人たちの名が刻まれた「釜石祈りのパーク」となっている。



解体された防災センターの瓦礫も一部で使われており、片桐さんは毎週のように訪れて「片桐理香子」と書かれているプレートを磨いている。



「週に2回行くこともあります。もし子どもが産まれていたら、小学校を卒業するころです。同じような年代の子を見かけると、どうしてもパークへ行ってしまう」



防災センターの避難をめぐっては、国賠訴訟もあった。理香子さんの両親と片桐さん、ほかにも遺族1組が原告となった。



しかし、1審の盛岡地裁は、市側の過失を認めず、請求が棄却されて、理香子さんの両親だけが控訴した。その後、仙台高裁で和解が成立。行政上の責任を認めた。



市側は、理香子さんが亡くなったことについて「園児救命に向けた命懸けの行動に対して深い感謝の意」を表明するとした。



震災から12年、美容室が再開してからは、3月11日が定休日になっている。



「13回忌ともなれば、手を合わせにくる人は減ります。もちろん、その人なりの区切りはあるかもしれない。それに、思いの格差もあるし、被災や復興に格差があるからもあるでしょう。



お寺独自の法要も参加者が減っています。市の追悼式も年々減っています。多くの人が日常を取り戻しているのかもしれません。



3月11日がきても、14時46分がきても、仕事を中断する人や立ち止まる人が多いわけではありません。



でも、みんなに『区切り』と言われると、『区切りってないでしょ』と言いたくなります。復興イベントに来てくれる人もいますが、その日は一生、仕事を休むつもりです」