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映画『逆転のトライアングル』リューベン・オストルンド監督が語る「社会的立場が人間を変えてしまう」

2023年02月24日 09:01  CINRA.NET

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Text by 後藤美波
Text by 常川拓也
Text by 原里実

『第95回アカデミー賞』作品賞、監督賞、脚本賞にノミネートされ、日本でも2月23日から公開される映画『逆転のトライアングル』。豪華客船に乗り合わせたセレブたちが無人島に漂着し、ヒエラルキーが逆転したときに起こる人間模様をブラックユーモアたっぷりに描いた作品だ。

監督は、『フレンチアルプスで起きたこと』(2014年)で『カンヌ国際映画祭』ある視点部門審査員賞、『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(2017年)で同映画祭パルムドールを受賞し、本作でカンヌ史上3人目の2作品連続パルムドール受賞という快挙を達成したスウェーデン出身のリューベン・オストルンド。

これまでの作品同様、現代社会への風刺的コメンタリーになっている本作。格差や権力の腐敗、行き過ぎた資本主義といった現代社会の諸問題をどのように見ているのか、リューベン・オストルンドにたずねた。

リューベン・オストルンド / photo: © Tobias Henriksson
1974年、スウェーデン生まれ。長編デビュー作『The Guitar Mongoloid』(2005年、日本未公開)で『モスクワ国際映画祭』国際映画批評家連盟賞を受賞。その後に手がけた長編映画はすべて『カンヌ国際映画祭』でプレミア上映されており、同映画祭において2作連続でパルムドールを受賞した、史上3人目の監督。短編映画『Incident by a Bank』(2010年、日本未公開)は『ベルリン国際映画祭』金熊賞を受賞。『プレイ』(2011年)ではスカンジナビア半島において最も重要な賞である北欧理事会映画賞を受賞している。

リューベン・オストルンドは、人の成功よりも失敗に関心を寄せる。『フレンチアルプスで起きたこと』では雪崩を前にした夫が妻子を置いて逃げ去り、『ザ・スクエア 思いやりの聖域』では財布とスマートフォンを盗まれた美術館キュレーターの男性がGPSから割り出した住居に脅迫状を投函してしまう。

思いがけない危機に直面したときに、男たちは咄嗟に誤った行動を取り、その後、面子を保とうと狼狽する。登場人物を容赦なく追い詰め、観客を居心地悪くすることにあたかも喜びを感じているようでもあるが、彼は、ジェンダー(特に男性)に対する社会的期待を探り、人々が社会のなかで演じている役割や虚勢を剥がそうとする。尊厳を失った者たちの混乱は、評判や不名誉を恐れる私たちの現実の姿であり、観客は時に「登場人物たちと同じ立場だったら自分もそうしてしまったかもしれない」と思うだろう。

『フレンチアルプスで起きたこと』でアルプスの高級スキーリゾート、『ザ・スクエア』でアート界に着目したオストルンドが、『逆転のトライアングル』で目を向けたのはファッション界。モデルでインフルエンサーのヤヤ(チャールビ・ディーン)と男性モデルのカール(ハリス・ディキンソン)という美貌を通じてリッチになろうとするカップルを起点に、物語はランウェイから始まり、富裕層が贅沢を謳歌する豪華客船、そして無人島へと舞台を移していく。

無秩序な資本主義の退廃を見せたうえで、それまで価値を持っていた美や富が無効化し、社会階層が崩壊したときに起こる権力交替を考察するのである。これまでにも、たとえば『ザ・スクエア』や、実際に起きたいじめ事件を題材にした『プレイ』(2011年)では傍観者効果(※)を扱っており、オストルンドは一貫して「集団が個人の行動にどのような影響を与えるか」という集団力学をシニカルに調査することを好む。

このたび、Zoomを介して滞在先のスペインから質問に答えてくれたオストルンド。独自の映画言語を革新しながら、社会学的な観点で人々の振る舞いを痛烈に風刺する彼の映画は、予定調和の安い慰めも解決もなく、心休まるものではない。現実の人間の生存本能や社会規範を再検証する、写鏡として機能するのである。

─本作『逆転のトライアングル』は、権力構造が破壊され、社会秩序が反転する様子を描いています。あなたはいつも、ある種社会実験的な映画をつくられていますが、そのことにどのような面白味を感じられているのでしょうか。

オストルンド:私が本当に興味深く思っているのは、私たちの行動を生み出しているのがつねに「立場」であるということです。つまり、人間として自分が誰であるかという自分に対する考えよりも、金融や経済、社会といった構造における私たちの立場が、私たちの行動を変える。

これは間違いなく、階級社会について話すときやそれを変えようとするとき、あるいはより平等な社会をつくろうとするときに、念頭に置くべき非常に重要な知識だと思います。権力は私たちを腐敗させるのです。社会構造や経済構造に深く目を向けることで、唯物論的な社会の設定やそれがどのように変化するかについて、多くのことを知ることができると考えています。

『逆転のトライアングル』 Fredrik Wenzel © Plattform Produktion

─『フレンチアルプスで起きたこと』以降、特に男性性の危機が主題となっています。社会的期待や男らしさに対して、なぜ関心を持っているのでしょう。

オストルンド:それは私自身の、男性としての人生や状況に触発されてのことだと思います。対応しなければいけないことに対してジレンマに陥ったり、期待されていることに疑問を持ったりした経験を、作品に取り込みたい。単純な理由ですが、それを探求すること自体を面白く感じています。

─男たちは暴力性よりも脆弱性を露わにしますね。

オストルンド:いままでは、暴力が過剰に表現されてきたと思います。男性のサイコパスが女性を惨殺する映画はたくさんありますよね。加害者としての男性、被害者としての女性──それ以外の他の側面も私たち人間にはあるはずです。これまで描かれていたイメージをこれ以上再生産するのではなく、異なるものを表したいと考えています。

─今回、エンドクレジットでミヒャエル・ハネケ(1942年生まれ、オーストリアの映画監督・脚本家)に謝辞を捧げられていますね。たとえば、子どもたちのいじめを無慈悲な長回しで見据えたあなたの素晴らしい映画『プレイ』のバスの場面には、ハネケの『コード・アンノウン』(2000年)の地下鉄の場面との類似も見受けられますが、彼からどのような影響を受けていますか。

オストルンド:おっしゃるとおり、私はミヒャエル・ハネケにいまもとても影響を受けています。彼は偉大な映画監督だと思います。映画学校に通っていた当時の私にとって、『コード・アンノウン』は、最も強烈な映画体験でした。私の映画から、あの作品の地下鉄の場面が連想されたのは、間違いなく影響を受けていることのあらわれだと思います。

ミヒャエル・ハネケは、つねに観客の目を釘づけにする。プロットやストーリーテリングなしに、その場その場で監督としての集中力を発揮して、非常に強いサスペンスをつくり出すことができる。ハネケの演出はとても正確で、彼の映画を見るとき、観客は、「いま何か重要なことが起きている」と感じ、「映画の最も重要な瞬間がいつ起こるかわからない、それを見逃してはならない」という緊張感のなかにずっと身を置くことができるのです。彼の作品のそういったところに強いインスピレーションを受けます。

また、ミヒャエル・ハネケは、観客を見下したような態度を取らないところも魅力的です。彼は自分自身に自問するのと同時に、私たち観客にも問いかけている。作品で描かれていることについて、「あなたの意見はどうなのか」と聞いている。つまり、一方的な説教ではなく、対話が生まれるのです。

『逆転のトライアングル』 Fredrik Wenzel © Plattform Produktion

─あなたは『プレイ』以降、映画にスペクタクル性を導入されているようにも思います。『フレンチアルプスで起きたこと』では壮観な雪崩が入っていましたが、本作には壮大な嘔吐の数々が盛り込まれていますね。

オストルンド:『逆転のトライアングル』は、私が自分の表現をもう少し押し進め、よりワイルドなことを試みた映画だと思います。『プレイ』は、ヨーロッパのアートハウス映画と結びついたある種の美学を自分なりに限界まで押し進めた映画だったのですが、じつはそれ以降、映画作家としての自由をあまり感じられなくなり、これ以上この方法を続けても意味がないとも感じたんです。

そこで、ルイス・ブニュエルやリナ・ウェルトミューラーなど、1970年代、80年代の映画に目を向けるようになりました。それらは知的でありながら、ワイルドでエンターテインメント性がある。私は、伝統的なヨーロッパ映画の示唆に富むようなつくりに、観客を引き込んで楽しませるような伝統的なアメリカ映画の要素を取り入れた映画をつくっていきたいと考えるようになりました。ハネケからの多大な影響から脱却した映画づくりを始めたのです。だからと言って、もちろん彼からの影響が薄まったわけではありませんけどね。

『逆転のトライアングル』 Fredrik Wenzel © Plattform Produktion

─『逆転のトライアングル』では、共産主義者のアメリカ人船長と、ロシアの新興財閥「オリガルヒ」の資本家がイデオロギー論争を繰り広げるシーンがあります。あの場面はどのような意図を持って入れたのでしょうか。

オストルンド:東側と西側の視点、社会主義とリベラルがぶつかり合うようなディベートというのは、もともと私の家のなかで実際に見られたものでした。私は1970年代生まれで、母親が左翼、兄弟が右寄りのリベラルだったので、毎週日曜日の夕食時には、サッカーチームの対戦みたいにいつも政治談義が行なわれていたんです。それは、社会をよりよくするためというよりは、どちらが勝つかを目的とした試合のような議論でした。船長とオリガルヒの間で起こるあの議論は、そうした私の経験から来ています。

『逆転のトライアングル』 Fredrik Wenzel © Plattform Produktion

オストルンド:また少なくとも北欧では、1980年代には、「サッチャー(イギリス)とレーガン(アメリカ)」対「ソ連と東欧」というイデオロギーの衝突がありました。この映画のシナリオを書き始めたときは、そういう時代はもう終わったんだと思っていました。いま私たちは2つの異なるサッカーチームのように見るのではなく、ようやく、2つの異なるイデオロギーの最良の部分を選択しながら社会を構築することができるようになったのだと。

しかしそう思っていたところ、ロシアのウクライナ侵攻があり、かつての状況に引き戻されたような気がしました。いまのロシアはソ連とは無関係だとしても、ある種、ソ連時代の世界観に私たちを立ち戻らせてしまった思いがしたのです。

あのシーンをつくる際には、引用するレーガンやマルクスの言葉をあらためてリサーチしながら、彼らがどういった人物だったのかについて思いを馳せました。彼らの言葉にはユーモアがあるので、それ自体はとても楽しい作業でした。

─劇中で何度か「みんな平等」というフレーズがリフレインされる一方で、無人島ではマルクス主義的な革命ではなく、搾取とヒエラルキーの再生産が起こるように見えます。

オストルンド:無人島の場面では、「貧困層が権力を握れば誰もが等しくなる、というわけではない」ということを表現しています。革命があれば全員が平等な世界になるのかといえば、いままでの多くの歴史上の例を見ていくと、実際はそうではない。

たとえば南米では、独裁主義国家で育てられた国民が革命を起こしても、革命後すぐに汚職が起こるというケースが多く見られました。新しい人たちがヒエラルキーのトップの座に就いたとしても、彼らは腐敗し、権力を乱用するようになってしまうのです。それは、そういう文化のなかで訓練されてきた人たちだからです。

『逆転のトライアングル』 Fredrik Wenzel © Plattform Produktion

オストルンド:なので、社会に対して、あるいはその概念に対して、信頼を醸成することはとても時間がかかることだと思います。「権力を持った人は、その権力を自分のために使ってはいけない」「自分の地位を利用することは恥ずべきことだ」という考え方がしっかりと社会に浸透するまでには、長い長い時間が必要です。それでいて信頼というのは、もろく壊れやすい。他者に対しても、国に対しても、信頼は簡単に打ち砕かれてしまうものです。すぐにどうこうなるものではなく、なかなか育てるのが難しいものでもあると思います。

─原題「Triangle of Sadness」は眉間にできるシワを意味すると劇中で説明されますが、外科医が通常ボトックス注射を打つ位置だそうですね。あたかも資本主義が行き詰まった現代社会にはボトックス注射を打つように再活性化が必要だと示唆しているかのようですが、このタイトルについて教えてください。

オストルンド:とてもいい解釈ですね。このタイトルを考えていたときに、二番目に私が思い浮かべていたのがまさにいまおっしゃったことでした。私にとって「Triangle of Sadness」というタイトルは、三角関係のドラマを意味するものではありません。私たち人類は、ある種の見方にとらわれてループにハマってしまっているがために、人間が本来持っている美しい面ではなく、悲しい面を引き出してしまっている──そのことに対する思いが込められています。

─映画『ザ・メニュー』(2022年)やテレビシリーズ『ホワイト・ロータス』(2021年~)など、偶然にも同時期に富裕層を風刺した作品が登場しています。そのことをどのように感じていますか。

オストルンド:そのような作品は私も好きで、たしかにおっしゃるとおりだと思います。私の母は職業としてではなく、一市民として、長らく政治に携わっていました。たとえばスウェーデンがNATOに介入すべきかという問題に、反対の立場からよく取り組んでいました。母は社会主義的な考え方を持っているのですが、「環境破壊や気候変動の問題が出てきたときに、急に政治的な話題を次世代の人たちと話せるようになった」と言っていました。「現在の、グローバル企業が国家よりもはるかに力を持ってしまっているような規制の外れた資本主義社会だからこそ、若者は政治について語り始め、耳を傾け、関わるようになったのかもしれない」と。

環境破壊が新しい世代に政治的な議論をうながし、そのなかで、彼らは行き過ぎた資本主義社会に代わる別の選択肢について語り始めているのだと思います。何が他者との関係に影響を与えるのか、このままではいけないという意識を持った時代が来ているのかもしれない。いま富裕層を風刺した作品が公開されていることは、もしかしたら、若い人たちがそういった意識を持ち始めていることとも何か関係があるのかもしれません。