2023年02月20日 10:21 弁護士ドットコム
日本企業がバブル崩壊以降に活力を失い、「失われた30年」とも言われる中で、何かと「アメリカでは」と、米国流の経営をもてはやす意見がいまも絶えない。
【関連記事:社用車に傷をつけたら手洗い洗車?! 「罰」の法的問題は】
では、実際に米国企業の中枢に入り、トップマネジメントの意思決定を目の当たりにしたら、日本とのどのような違いが見えてくるのか。
事業再生の専門家であり、ミスミグループ本社名誉会長である三枝匡氏が上梓した「決定版 戦略プロフェッショナル 戦略独創経営を拓く」より一部抜粋・再編集して、三枝氏がかつて体験した現場感覚をお届けしたい。そこには、今も昔も変わらない、国による組織文化の違いがあった。
シカゴ郊外のテックス社本社(世界で約3万人の従業員がいた国際的なメディカル会社)で働く社員は2000人近くだったが、日本人は黒岩莞太(事実上、三枝匡を指す)だけだった。彼は国際事業部門のB社長の補佐役という肩書で、その特命プロジェクトを担当することになっていた。「米国経営の内側、それもできるだけ会社の中枢に入り込みたい」と志望していたことが叶った。
BCG(ボストン・コンサルティング・グループ)を経て、スタンフォードでMBAを取得したとはいえ、1970年代の米国において、そのようなポジションがなぜ日本人の黒岩に与えられたのか。
当時の米国企業は、急成長する日本市場に強い関心を抱いていた。多くの企業が日本に子会社や合弁企業を設立した。ところが、彼らの多くが日本で苦戦していたのだ。
日本の子会社に優れた日本人を据えたいのだが、多くの日本人が外資系に行くことを嫌っていた。そこで本国から外国人社長を送り込むのだが、不慣れな外国人にとって日本で成功と言える業績を生み出すことは至難の業だった。
黒岩自身、BCG東京にいた時、有名な米国企業が日本市場から撤退することを決め、そのプロジェクトにかかわったことがあった。事業に失敗した原因を見たところ、結論はこのようなものだった。
まず、米国本社が覚悟を持って本当に日本で成功するほどの経営資源を投入していなかった。次に、日本に来た外国人社長が腰掛け程度で短い年数で本国に戻ってしまうケースが多かった。そして何よりも、カギを握る日本人の経営幹部が、英語はうまいが経営者としての力量は疑問の人が多く、外国人上司の未熟な判断に従っているだけのことが多い、であった。
数多の米国企業が焦っていた。欧州ではうまく拡大してきたのに、日本では思うようにならなかったからだ。日本の子会社を成功させるためには、優れた日本人をリクルートして経営トップに据えなければならない。しかし、その日本人が容易に見つからなかった。
そこで彼らは一つの策を思いついた。米国本社の中に前からあった社長補佐役という職位を、日本人探しに利用しようとしたのだ。そのポジションに、有望な日本人を米国で雇い、本社で社長や経営陣に馴染ませ、その上で日本の子会社トップとして日本に送り込むのである。
黒岩は、まさにそのような意図をもって雇われた。それは、米国企業が日本市場に強烈な関心を抱いていた時代にのみ、つまり1970年代後半から80年代にかけての約10年間だけ、日本人に開放されたポジションだった。
しかも日本の社長候補者を一人雇えば、とりあえず当面の用は足りてしまう。だから米国企業に入社してこのポジションを経験した日本人は多くなかった。黒岩はその機会に行き当たったのだ。
黒岩がテックス社に着任して3カ月もしないうちに、驚いたことに、社内異動を命じられた。国際事業部門を離れて、コーポレイトと呼ばれる持株会社に移れという指示だった。世界を統括するA社長の補佐役になれというのである。
秘書の案内で社長室に入ると、A社長はソファーに向かい合って座り、いきなり切り出してきた。研究所の組織に問題があるという。彼の指示は、研究担当の副社長と相談の上、数週間かけて研究組織の改善点を洗い出し、報告せよという内容だった。
黒岩はエッと思った。不安になった。経営的なことは理解できても、メディカル分野の研究のことなど何も知らない。この仕事は自分にこなせるのかなと思ったが、最初からできませんとも言えない。
その研究所は、本社から車で30分ほどのところにあり、まだ会社が小さかった頃、本社として使っていた古い建物だった。約400人の研究員が働いていた。
黒岩の顔を見た途端、露骨に感情を顔に出す米国人もいた。しかし、彼がA社長のアシスタントだと知ると、そんな人に限って、コロリと親切になった。彼の肩書は、助さん格さんが振りかざす水戸黄門の印籠くらい効き目があった。米国にも現金な連中がたくさんいるということだ。
黒岩が作り上げた研究開発の研究テーマ連関図は、それまで研究所の人たちが見たことのない詳細な図だった。彼ら自身が、エッ、こんなところでこんなことをやっているのかという気づきや、複数の部署で似たテーマの研究がバラバラに行われているムダが見えた。
黒岩は予定通り分析をまとめ、改善の意見をA社長に提出した。彼は、A社長がその資料を参考にしながら研究所の幹部たちとさらに細かい検討をするのだろうと思っていた。
黒岩はA社長から命じられていた別のプロジェクトのために、翌日、ヨーロッパへの出張に出かけた。2週間後に戻ってくると、変な噂を耳にした。
本社の研究担当重役や幹部に大規模な人事異動と組織変更が発令されたというのだ。おかしな予感がした。すぐにA社長に会いに行った。黒岩の予感は当たっていた。
A社長は「君の仕事はよくできていた。ありがとう」と言った。
つまり、この多国籍企業の頂点に立つパワフルな社長は、黒岩が一瞬のまばたきをしている間に、彼の報告したことを実行に移してしまったのである。
黒岩は驚いた。一人のスタッフの仕事が、全社経営に及ぼす凄まじいインパクト。しかも外から来てまだ間もない社長直属の日本人の提言が、これほど簡単に実行に移されるのか。
この変更によって、米国人幹部の何人かは人生が変わったかもしれない。黒岩はあくまで社長の黒子であり、何の決定にも参加していない。しかしまるで自分自身がパワフルな権力者になったような錯覚を覚えた。日本企業の経営では、到底考えられないスピード感だった。
約1年間、黒岩莞太はA社長から他にもさまざまな任務を与えられた。あるときは、業績不調のイタリア子会社を閉鎖するかどうか決めるため、イタリアへの派遣チームに加わった。
低課税国でのメリットを得るために作った工場群を見るために、プエルトリコに行ったこともあった。あるいは日本の外資系企業から売りに出された小さな工場を買収するかどうか決めるため、幹部数名と日本に飛び、関西で現地調査をしたこともあった。
こうした仕事を通じて、黒岩は米国企業の経営トップの考え方や決定に触れ、多くの学びと教訓を得た。しかしその経験の中で、彼が違和感をもったこともあった。
米国企業の社長の意思決定の速さには、確かに驚かされた。だが同時に「変だな」と感じることもあった。正直に言えば、その決め方が「意外に大ざっぱ」という印象を抱いたのである。
簡単に決めるというパターンの典型は、アシスタントである黒岩莞太が持株会社のA社長と国際事業部門のB社長に連絡し、朝一番に会社のカフェテリアで会い、3人で朝食を取りながら何かを決めてしまうことだった。それが会社としての決定になった。若手で、しかも外国人と呼べる黒岩の立場で、2人の社長を招集することも、3人でトーストをかじりながら何かを決めてしまうことも、ほとんど冗談のような情景だった。
つまり、米国で黒岩莞太が見たのは「少人数で相談し、粗っぽい裏付けでもそれでヨシとして、その場でトップが決定を下す。下の社員は『デシジョンが下された』と言ってそれに従う。後で蒸し返すことはしない」というパターンだ。
一方、日本企業における一番悪い決定パターンをあえて言えば、「裏付けをとるために些細なことまで調べるのにやたら時間をかけ、そのため社員にたくさん残業をさせ、さして重要でもない関係者まで集めて会議を行い、その人たちは黙って聞いているだけで何も言わず、同じような会議を何度か繰り返していると、最終的にようやく議論が結論らしきものに収斂していき、それをもって決定とする」。
日本における非効率手順と言えばこの流れだ。上の者がさっさと決断すれば、それにかける人件費の削減と時間短縮が図られ、組織の動きもよくなる。
経営スピードにおけるこの日米の違いは、組織コストと時間短縮においてかなりの違いを生む。ただ、黒岩は手放しで米国経営を賞賛するのではない。速く決めれば効率は良く見えるが、その陰で何か大切な要素を見逃すリスクを冒しているのではないかと、疑問に感じることがあったからだ。
黒岩は日米の組織の違いを論ずる上で、この意思決定に関する観察は見逃せない論点だと考えてきた。
もう一つ、米国の経営で黒岩が違和感を覚えたのは、幹部や社員が会社を辞めるときの、無責任な辞め方だった。その弊害は、それを身近で見たことのない日本人には、想像ができない。大した引き継ぎもせずに人が消えてしまう。ひどいときは部下と一緒にグループでゴソッと消えてしまい、しかも、時には競争相手の会社に行ってしまう。
このように、黒岩が米国企業内部に入り込み、持株会社のA社長の補佐というポジションで働いてみると、普通の日本人なら体感できない米国経営の一面に触れ、多くの発見があった。