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ティモシー・シャラメらが人を喰う。『ボーンズ アンド オール』は禁忌と欲望の先で、何を描いたのか?

2023年02月18日 09:00  CINRA.NET

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Text by 山元翔一
Text by 木津毅

ルカ・グァダニーノが監督を務める映画『ボーンズ アンド オール』。ティモシー・シャラメが主演を務め、グァダニーノとは『君の名前で僕を呼んで』以来のタッグということで注目を集めると同時に、世界を賛否の渦に巻き込んでいる。

もうひとりの主演のテイラー・ラッセルとともに、本作ではなぜ人間を喰らう若者たちが描かれたのか。その背景にあるものをライターの木津毅が考える。

社会の片隅で生きる人々や権利を剝奪された人々に、私はえも言われぬ魅力を感じ、心打たれる。私のつくる映画はすべて、社会ののけ者を描いているけれど、『BONES AND ALL』の登場人物にも共感を覚えた。 - ルカ・グァダニーノの『ボーンズ アンド オール』へのコメントよりこれは、ルカ・グァダニーノが自身の7作目の監督長編作『ボーンズ アンド オール』に寄せたコメントである。「社会ののけ者」……。そう、たしかにグァダニーノは何らかの抑圧を受ける人間たちにまつわるドラマを多く描いてきた。

イタリアの家父長制のなかに閉じこめられていた女性が愛を発見する『ミラノ、愛に生きる』(2009年)、声を失った女性ロックスターが元恋人からの悪魔的な誘惑と対峙する『胸騒ぎのシチリア』(2015年、『太陽が知っている』のリメイク)、同性愛に寛容ではない時代に年上の男性と恋に落ちる青年を描いた『君の名前で僕を呼んで』(2017年)。

これら「欲望3部作」では基本的にブルジョワジーの世界を舞台にしつつも、男性や男性中心社会に押さえこまれた欲望を発露する女性やクィアにフォーカスすることで、彼女らや彼らがより自由に生きることの可能性を探っていたといえる。そこで解放されていたのはエロスそのものだ。

あるいは伝説的なホラー映画『サスペリア』のリメイク(2018年)で意図的にタナトス(死の欲動)をモチーフにしたときでさえ、グァダニーノはヨーロッパ社会で長く弾圧されてきた「魔女」なる者たちが力を発揮する様を映し出していた。

だから、人間を喰らう衝動を抑えられない子どもたちを描いた『ボーンズ アンド オール』はまず、これまでグァダニーノがたどってきたエロスとタナトスを合流させたうえで、社会からけっして許されない「欲望」をとらえた作品だと位置づけられるだろう。

もうひとつ本作と直接のつながりを見出せるのが、グァダニーノが全話の監督を手がけたミニシリーズドラマ『僕らのままで/WE ARE WHO WE ARE』(2020年)の存在である。

イタリア米軍基地のなかで出会い、絆を育んでいくフレイザーとケイトリン……10代のクィアの子どもたち。ふたりは親から受ける愛情と抑圧の両方に葛藤しながら、自分自身の生き方を模索していく。それは社会の規範に馴染めない子どもたちが生きるために手をとりあう瞬間を描いた物語であり、グァダニーノはふたりの交感をできるだけ純粋なものとして叙情的な映像に封じこめようとしていた。

カミーユ・デアンジェリスによる同名小説をベースとし、1980年代後半のアメリカをさまよう人喰いの若者たちを描いた『ボーンズ アンド オール』は設定こそ過激なものに思えるかもしれないが、グァダニーノ作品としてきわめて真っ当な発展形であり、そしてもしかすると、もっとも剥き出しに「欲望」を解放した作品である。

それがどれだけ許されないことであっても、子どもたちは欲望を止めることができず、しかしその欲望でこそ心を重ねていくことだろう……。これは、まったくもって『WE ARE WHO WE ARE』と連なるテーマである。

これまでのグァダニーノ作品とのもっとも異なる点は、こうしたテーマがある種のオーセンティックなアメリカのロードムービーとして立ち現れているところだ。

本作の脚本を手がけているデヴィッド・カイガニックはこれまで『胸騒ぎのシチリア』と『サスペリア』で監督とタッグを組んでいるが、本作では1980年代にオハイオ州の田舎で思春期を過ごした彼の原風景が重なるところがあると思われる。性的マイノリティーにまったく寛容ではなかった時代のアメリカの田舎でゲイとして10代を過ごしたカイガニックは、ホラー映画に夢中になっていたという。

バンパイア映画やモンスター映画で描かれる「怪物」の悲哀や情緒は、長らくクィアの子どもたちにとって共鳴する拠りどころとなってきた。彼らを罪深い者としているのは世界のほうで、本人たちはただ純粋に生き抜こうとしているだけなのだから。人喰いであることで家族や社会に見放される18歳のマレンもまた、カイガニックが10代のときに感じていた疎外感とつながるところがあったのかもしれない。

マレン ©2022 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All rights reserved.

それはグァダニーノにとっても近い感覚を共有できるものであっただろう。

現代以上にカトリックが同性愛に厳格だった時代、1980年代のイタリアでゲイとして10代を過ごした彼にとって、自らの欲望によって社会から忌避される若者の物語は遠くなかったはずだ。そして『ボーンズ アンド オール』では、ブルジョワジー社会という枠組みももはや消え失せ、アメリカの路上で寄る辺なく漂泊する子どもに寄り添うに至ったのである。

グァダニーノ映画における至福である柔らかい光や凛とした風が、家族やコミュニティーの代わりにマレンとリーの側にいる。いつになくアメリカーナ的な意匠を携えたトレント・レズナー&アッティカス・ロスの音楽は静かに、しかしたしかに感情的な響きとともにふたりの旅を彩っていく。

マレンとリー。『ボーンズ アンド オール』のサウンドトラックを聴く(Apple Musicで聴く / Spotifyで聴く) / ©2022 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All rights reserved.

ただ、本作における人喰いがクィアのメタファーであると言い切ることは難しい。性的マイノリティーに差別や偏見がまだまだ存在するからこそ、現代の映画ではクィアの性愛や官能を「禁忌」として描かなくなっているからだ。それは確実に表現の進歩である。

『君の名前で僕を呼んで』は、80年代という舞台設定にあってなお、同性同士のロマンスを讃える親の姿を描いていた。『ボーンズ アンド オール』においても同性愛はむしろフラットなものとして登場し、それ自体が特別タブーとして強調されてはいない。

いっぽうで、カイガニックやグァダニーノがかつて抱えていたであろう疎外感や孤独感と重なるものとして、人喰いが現れていることもまたたしかだと思える。カイガニックは脚本の執筆中に若い女性が経験する摂食障害や肉体改造について調べたそうだが、つまり、クィアに限らない思春期の苦悩がマレンには投影されており、それが「社会ののけ者」のドラマとして語られているのである。

映画『ボーンズ アンド オール』より ©2022 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All rights reserved.

そのように本作をアウトサイダーたちの物語として見たときに、「誰とともに生きるか」という主題が切実に立ち上がってくる。

多くのアメリカ映画で無条件によきものとして描かれがちな家族という存在は、ここでは子どもたちを庇護する絶対的な存在ではなく、むしろ彼らを棄て、傷つけるものとして登場しているからだ。

マレンの父親フランクは娘のことを思いやる心優しい父親ではあるが、人喰いを治療して彼女に「普通」になってほしいと願っており(これは悪名高い同性愛矯正セラピーを彷彿させるところがある)、最終的に彼女のもとを去る。リーの父親も彼や家族に暴力を振るうような男である。どこまでいってもふたりが「家族」という存在に救われることはない。

しかしだからといって、「同族」でもけっしてわかりあえることはない残酷さも本作は描いている。人喰いたちは匂いでお互いを見つけあうことができるが、マレンが出会った同じく人喰いである不気味な男サリーと暮らしをともにすることはない。彼女とリーがその後出会う「同族」もまた、ふたりを助けるものとしてではなく脅威として登場する。

サリー(マーク・ライランス) ©2022 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All rights reserved.

同じ属性やアイデンティティーであってもいっしょに生きるのは難しい。これは当然のことではあるのだが、簡単に仲間を見つけることができないマイノリティーにこそ、より重くのしかかる問題である。

だからこそマレンとリーの絆は強くかけがえのないものとなっていく。そこに明確な理由はなく、ふたりの関係はロマンスともいえるが、もっと大きな何かともいえる。

理由などなくとも、ともに生きていきたいと感じられるふたりのアウトサイダーたちの結びつき、ただその奇跡だけを捕まえようとした映画である。

観る者はそれが永遠のものではいられないことをどこかで感じることだろう。ずっと変わらず続く絆などない。だから『ボーンズ アンド オール』は、ある特別な瞬間を封じこめる芸術である映画として、ふたりが同じ瞬間に感じた頬に当たる光と風を映すのである。