トップへ

浜崎あゆみが表明する社会への「怒り」。フェミニズムの視点で歌詞を紐解く

2023年02月16日 09:00  CINRA.NET

CINRA.NET

写真
Text by 原里実
Text by 富岡すばる

1998年にCDデビューし、ファーストアルバム『A Song for ××』(1999年)がミリオンヒットを記録して以降、誰もが知る活躍を見せてきた浜崎あゆみ。社会現象と呼べるほどのものを巻き起こした、ある種パブリックな存在としての一面とは裏腹に、自身が内面に抱えるプライベートな葛藤や孤独を綴った歌詞に、深く共感してきた人も多いのではないだろうか。

浜崎が2023年1月にリリースした最新アルバム『Remember you』にも、現代社会を生きる私たちの胸に深く突き刺さるようなフレーズがあふれている。<見えてるのは全てでしょうか? 画面上だけで決めてませんか?><見知らぬ人よ 君のジャッジに興味はない><飾りじゃないって何回言わせるの><ねえbaby, just the way you are 変わらないでいい 世界中がもしもNoと言ったって>……。

彼女の歌詞に救われてきたひとりだと語るライターの富岡すばる氏に、ゲイというマイノリティーとして生きるなかで抱いてきた浜崎への共感にはじまり、彼女の書く歌詞やSNSなどでの発信から垣間見られる社会への「怒り」についてなど、浜崎あゆみというアーティストが私たちに伝えようとしているメッセージを紐解いてもらった。

ずっと言葉にできずにいた思いや、どう言葉にしたらいいかわからずにいた胸の内を、アーティストや有名人が代弁してくれたと感じた経験を持つ人は多いのではないだろうか。自分の抱える不安や生きづらさの正体がわからなかったり、わかっていても口に出したら自分を保てなくなってしまいそうな恐怖を感じていたりするとき、代わりに言語化してくれる誰かが現れたら、それは救いになる。ぼくにとって浜崎あゆみという人はそういう存在だった。

彼女がデビューしたのはいまから25年前の1998年のこと。そこから2000年代初頭にかけ、彼女が世間に名前を知らしめていった時期をぼくは中高生として過ごした。

当時はゲイという自分のセクシュアリティーと向き合い始めた頃であり、それゆえに孤独のようなものや、諦めのようなものや、劣等感のようなものと向き合わざるを得なくなった頃でもあった。そんなときに出会ったのがあゆの詞である。

居場所がなかった 見つからなかった
未来には期待出来るのか分からずに - “A Song for ××”(1999年)ぼくらはきっと幸せになるために
生まれてきたんだって
思う日があってもいいんだよね - “immature”(1999年)自分よりも不幸なヒトを
見ては少し 慰められ
自分よりも幸せなヒト
見つけたなら 急に焦ってる
- “End of the World”(2000年)あぁ、自分の歌がある。これらを聴いたとき、そんなようなことを思った。

男女のラブソングを同性同士に置き換えたり、異性愛者の何気ない光景に羨んだり、自分にとってのロールモデルが存在しない世界に対して想像力で埋め合わせをしたり。そうやって音楽を聴くのが当たり前になっていたなかで、初めて置き換える必要も、羨む必要も、埋め合わせる必要もない曲を歌ってくれたのが浜崎あゆみだったのだ。

その感動を覚えた瞬間からすでに20年以上が経ち、いまは代弁してもらう側から自分自身の言葉を綴る側になった。だが、彼女が今年久しぶりに出したオリジナルアルバム『Remember you』を聴いて思ったのは、ここには変わらず自分の歌があるということと、これはぼくひとりではない自分たちの歌でもあるなということだった。

表題曲の“Remember you”ではコロナ禍における人とのつながりの難しさや環境の変化に対する戸惑いに触れ、<あの頃はなんて昔話 出来る貴方だけは消えないでいて>と歌われる。それ以外にも、<見えてるのは全てでしょうか? 画面上だけで決めてませんか?>と問いかける“Nonfiction”や、<見知らぬ人よ 君のジャッジに興味はない>と言いきる“23rd Monster”など、この社会をサバイブするためのキーポイントになり得る言葉が並ぶ。

なかでも特に自分たちの歌だと感じたのが、アルバムのラストを飾る曲“Just the way you are”だ。他人と違うことを悪いことだと思って自分を押し殺し、隠れようとしていたという独白ののちに彼女はこう歌う。

ねえbaby, just the way you are
変わらないでいい
世界中がもしもNoと言ったって
- “Just the way you are”(2023年)誤解を承知で言うと、性的少数者の存在が可視化される一方で、政治家たちの発した酷い言葉がバックラッシュのようにメディアで流れるいまだからこそ、この曲を出してくれてありがたいと感じた。周囲とは違う自分を押し殺すのが生きのびる術となっていたぼくにとって、これは30代になってやっと出会えた自分たちの歌にほかならない。この曲が決して性的少数者だけに向けられた歌ではないとわかっていても。

ちなみにぼくは10代後半から徐々に自分のセクシュアリティーを受け入れ始め、ゲイコミュニティーにも積極的に出入りするようになったのだが、そのときに実感したのが彼女のゲイ人気の高さである。ゲイバーであゆが流れていたり、誰かがあゆを歌っていたり、みんなであゆについて語ったり、そういう光景を頻繁に目にした。またゲイに限らず、当時仲のよかったレズビアンの友達ともカラオケで一緒にあゆを歌いながら、<居場所がなかった>という歌詞に共感し合ったことを覚えている。

浜崎あゆみの曲はぼくたちの人生のBGMだったのだ。ほかの性的少数者の方々の内情を決めつけることはできないが、彼女の歌う寄る辺ない孤独に自分の気持ちを代弁してもらったと感じる人は少なくなかったように思う。

自身の内面に視線を向けながら個人的な出来事を歌いつつも、それを大勢の人に共鳴させていた代弁者としての浜崎あゆみにぼくたちは救われてきた。そして個人的な出来事を歌いつつも、その視線が大勢の人に向かっている現在の彼女には、時代の伴走者としての姿をぼくは見いだしている。

また、その背景を語るうえで触れておきたいものが彼女自身のマイノリティー性だ。彼女の発言の数々からそれが垣間見える。

ここで彼女をマイノリティーたらしめるものは一体何かと結論づけることはしないが、彼女が自身の属性によって直面する偏見や理不尽な扱いに対し、怒りを表した曲は実際にいくつかある。

そのなかのひとつが2004年に発表した“my name’s WOMEN”だ。もともと、2002年にはすでに“Real me”という楽曲で、<a woman never hides away in order to survive(女性は生きていくために隠れたりしない)>と歌っていたが、“my name’s WOMEN”では女性として抱いている憤りについてさらに言及している。

私達着飾っただけの
人形なんかじゃないから
- “my name's WOMEN”(2004年)
女性ゆえにぶつけられてきたであろう仕打ちに「No」を突きつける言葉の数々からは彼女の闘志が伝わってくると同時に、自分たちは都合よく存在している訳ではないのだと宣言する歌詞には社会的マイノリティーとしての視線も感じる。

そして、このテーマはその後も数々の楽曲を通して歌われ続けていく。<戦う乙女達>という言葉で女性の背中を押す“Beautiful Fighters”(2006年)、自分たちを話の聞き役のように扱ってくる男性をはっきりと拒む“Lady Dynamite”(2010年)、戦う同志との結束を掲げる“We are the QUEENS”(2016年)など。

また、アルバム『Remember you』に収録されている楽曲“VIBEES”にも、こうした彼女流のフェミニズムが貫かれている。

「オンナって団体行動好きだよね」って
そんなに一匹狼だったっけ?

どっちかってゆーと仲間で集まって
幼稚な夢見てるイメージそっちだけど
- “VIBEES”(2023年)
ステレオタイプな女性像の押しつけを容赦ない言葉で切り捨てる詞だ。そこには愛想笑いも気遣いもない。あるのは明確な怒りの表明である。そして、こうも歌っている。

<飾りじゃないって何回言わせるの>

女性は着飾った人形ではないと歌った“my name's WOMEN”から20年近く経ち、キャリアから見ても大御所と呼べる立ち位置にいる浜崎あゆみがいまもこうして怒っている。

マイノリティーのひとりとして一緒に歩みたいと語っていたとおり、自身の影響力を行使してメッセージを発信する彼女の姿からはエンパワーされているが、それは女性蔑視がいまもこの社会に根強く残っていることの左証でもあるだろう。その事実にはゲイというマイノリティーの立場からだけではなく、男性というマジョリティーの立場からもぼくは向き合わなければいけない。自分たちの問題として。

どれだけ仕事で成功を収めようと経済的に自立しようとも、社会的マイノリティーがその社会に存在する差別や蔑視と無関係でいられるかといったら、そうとは限らない。それは彼女自身の発言からも見て取れるし、例えばぼく自身に置き換えても、どれだけ楽しく日々を過ごしていようと政治家の放つ差別的な発言ひとつで無力感にさいなまれることは現在進行形である。

だからこそ、アルバム『Remember you』の曲たちの存在が力強くもあり、ありがたくもある。そこにあるのはたしかにマイノリティーの物語であるが、決して可哀想な人たちの物語ではないからだ。たとえ世界中から「No」と言われても今日という日を歩もうとするぼくたちの物語なのである。