Text by 岩見旦
Text by 稲垣貴俊
『パラサイト 半地下の家族』(2019年)で米国アカデミー賞に輝いたポン・ジュノ、『新感染』シリーズのヨン・サンホ、『哭声/コクソン』(2016年)のナ・ホンジン……。世界から熱い視線を注がれる韓国映画のトップランナーのなかでも、パク・チャヌクの存在感は長年にわたり際立っている。
『オールド・ボーイ』(2003年)や『お嬢さん』(2016年)などで知られるチャヌクにとって、最新作『別れる決心』は6年ぶりの長編映画。これまで得意技として知られてきた過激な暴力描写と性表現を封印した、静かなサスペンスラブストーリーだ。本作でチャヌクは『第75回カンヌ国際映画祭』の監督賞を受賞し、その卓越した演出力をあらためて知らしめた。
アクションやミステリー、サスペンスといったジャンル映画にこだわるかたわら、「私は『愛』についての映画を撮りつづけてきました」とも公言するチャヌク。今回の新境地開拓や、女性キャラクターの人物造形に対するこだわりなど、創作の姿勢について話を聞いた。
パク・チャヌク
1963年8月23日生まれ。1992年に『月は…太陽が見る夢』で監督デビューを果たす。『JSA』(2000年)は、当時の韓国歴代国内興行記録を塗り替え大ヒット。続いて2002年には『復讐者に憐みを』で、強烈で冷酷な自身のスタイルを打ち立て、世に知らしめた。『オールド・ボーイ』(2003年)が『第57回カンヌ国際映画祭』において、韓国映画として初となるグランプリを受賞、世界的に知られ成功を収める。『親切なクムジャさん』(2005年)、『サイボーグでも大丈夫』(2006年)とテーマ性のある作品を世に送り出し、『渇き』(2009年)では『第62回カンヌ国際映画祭』審査員賞を受賞。そして初めての英語作品『イノセント・ガーデン』(2013年)を発表。その後『お嬢さん』(2016年)で『第69回カンヌ映画祭』コンペティション部門上映だけでなく、『第71回英国アカデミー賞』で英語圏以外の作品賞を獲得。世界中から高い評価を得て、国際的な映画監督としての立場をさらに強固なものとした。 © 2022 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED
不眠症の刑事ヘジュン(パク・ヘイル)は、ある男性が岩山から転落死した事件の捜査を担当していた。容疑者として浮上したのは、中国出身である男性の妻ソレ(タン・ウェイ)。夫の事故死にもかかわらず、ソレは悲しむこともなく、淡々と日常生活を送っていた。しかし、ソレには確かなアリバイがあったのだ。ヘジュンは捜査のためにソレを追い、時には取調室で対面する。本当に、この女性が夫を殺したのか? やがて二人は少しずつ惹かれ合っていく……。
チャヌクが『別れる決心』を構想したのは、イギリスで手がけたドラマシリーズ『リトル・ドラマー・ガール 愛を演じたスパイ』(2018年)の製作終盤にあたる2018年8月のこと。イスラエル・パレスチナ抗争をめぐる複雑なスパイスリラーに没頭したことから、次回作は韓国に戻ってシンプルな物語を描きたいと考えたという。長編映画の前作にあたる『お嬢さん』が緻密なプロットを特徴にしていたことも、チャヌクを「シンプルな恋愛映画」に導いた。
タン・ウェイ
1979年10月7日、中国浙江省出身。香港の市民権を獲得している。
アン・リー監督の『ラスト、コーション』(2007年)のオーディションで約1万人のなかから主演に抜擢。暗殺の標的である政府高官の男に近づくために身分を偽る女スパイ役を好演し、国際的な女優としての地位を確立。台湾版『アカデミー賞』である『第44回台湾金馬賞(金馬奨)』で最優秀新人賞を獲得。その後、韓国のキム・テヨン監督の『レイトオータム』(2010年)では、ソウルの『第47回百想芸術大賞』で外国人初の最優秀演技賞を受賞し、鮮烈な印象を残した。2015年にはクリス・ヘムズワースの恋人役として出演したマイケル・マン監督の『ブラックハット』でハリウッドにも進出。主な映画出演作に、『捜査官X』(2011年)、『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』(2018年)など。 © 2022 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED
しかしながら、本作で暴力描写と性表現を抑えてみせたことは、こうしたプロセスとは無関係だったという。「そういう要素から卒業しなければいけない、いまがそのタイミングなのだと考えていたわけではありません」と語るチャヌクは、これがあくまでも自然な決定だったことを強調する。
チャヌク:たとえば『渇き』(2009年)をつくったときも、強烈な暴力や性的表現が必要な映画だと最初から考えていたわけではありません。物語をつくっていくなかで、そうした表現が必要だと感じ、それならばわざわざ避けなくともよいと思ったんです。『別れる決心』の場合もプロセスは同じで、あらかじめ方向性を決めることはしませんでした。いざ物語をつくり始めたら「今回は必要ないな」と思えた、だから自然にそうなったというだけなのです。 - 劇中には、刑事のヘジュンと容疑者のソレが惹かれ合い、ともすれば一線を超えてしまいそうになる瞬間もある。不眠症のヘジュンを寝かせつけるためだと言い、ソレがヘジュンのアパートを訪れるシーンがそれだ。
チャヌクも「二人にとって、あれはセックスできる最初のタイミングだったと思います」と認めつつ、物語の舵をそちらに切らなかった理由をこう語っている。「脚本を書いているとき、『ソレの目的はヘジュンを寝かせることなんだから、別にセックスする必要はないな』と思ったんです。ゆっくり寝かせてあげたい相手とはセックスしませんよね」。
パク・ヘイル
1977年1月26日、ソウル市出身。本作で初めて刑事役に挑戦している。
児童劇団員から演技キャリアをスタートさせ、2000年に舞台『青春礼賛』でデビュー。『ワイキキ・ブラザーズ』(2001年)で映画初出演。2003年『嫉妬は私の力』で高い評価を受けて、『韓国映画評論家協会賞』をはじめ各賞で新人賞を受賞し、映画界注目の若手として急浮上。同年ポン・ジュノ監督作『殺人の追憶』で広く知られる存在となった。2006年に再びポン監督と組んだ『グエムル-漢江の怪物-』が1,301万人を動員する大ヒット。『神弓 -KAMIYUMI-』(2011年)で『青龍映画賞』『大鐘賞』にて主演男優賞に輝くなど、演技派俳優として数々の映画で重要なポジションを担っている。主な映画出演作に、『22年目の記憶』(2014年)、『ラスト・プリンセス -大韓帝国最後の皇女-』(2016年)、『天命の城』(2017年)、『王の願い ハングルの始まり』(2019年)など。 © 2022 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED
チャヌクは、本作『別れる決心』を着想するきっかけとなった3つの要素を明かしている。ひとつはマイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーによるスウェーデンの人気推理小説『刑事マルティン・ベック』シリーズ。なかでも、第2作『煙に消えた男』(1966年)から大きな影響を受けたという。もうひとつが、イ・ボンジョ作曲の韓国歌謡“霧”。韓国文芸映画の巨匠として知られた、キム・スヨン監督の代表作『霧』(1967年)の主題歌だ。
そして3つ目のきっかけが、ソレ役にキャスティングされたタン・ウェイその人だった。デビュー作『ラスト、コーション』(2007年)を観て以来、ウェイとの仕事を待ち望んでいたチャヌクは、キャリア史上初めて、脚本を完成させる前にウェイへの出演オファーを出している。半ば冗談めかしつつ、「ソレを中国人の設定にしたのはタン・ウェイさんに出てもらうため」とすら言っているほどだ。
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ウェイ演じるソレは、夫を殺した嫌疑をかけられながら、担当刑事のヘジュンと惹かれ合っていく若き未亡人。往年のフィルムノワールやヒッチコック作品の影響も強く感じられる本作だけに、いわゆる「魔性の女」=ファムファタールらしい人物として登場するが、チャヌクはそれにとどまらない深みをソレという人物にもたらした。
チャヌク:そもそも、中国人の人が韓国で生きていくことは一種の弱みだと思います。言葉はあまり通じないし、韓国は外国人に親切な国とは言えませんから。ただし、ヘジュンは誰に対しても先入観を持たず、また差別をすることもなく接する人。その一方、ソレは弱者のように見える、哀れみを誘う境遇の人物として登場します。
しかし、もしかするとソレは殺人者かもしれないのです。彼女は夫の死に驚くことも、また悲しむこともせず、しかも結果的にヘジュンを魅了してしまう。すると、ただでさえ恐ろしいのに、彼女が刑事を誘惑し、利用しようとしているのではないかという疑いが生まれてきます。つまり、ソレは不審な人物であると同時に、純粋で堂々とした魅力を持つ女性でもある。そのあいだで、観客もヘジュンも右往左往することになるのです。 - この物語がミステリーである以上、ソレという人物がどのように変化していくかをここで明かすことはできない。しかし『お嬢さん』や『イノセント・ガーデン』(2013年)といった近作を挙げるまでもなく、チャヌクは今回も強い意志をもった女性像を描くことに力を尽くしている。
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本作のソレという主人公もまた、いわゆるジェンダーロールやステレオタイプを打ち破る人物像。言いかえれば、「ファムファタール」という既成概念を超えていくキャラクターなのだ。
チャヌク:私はステレオタイプからの脱却に強い関心があります。「男性はこういうもの、女性はああいうもの」という決めつけや社会的イメージは、実際の個人には当てはまらないことが多い。にもかかわらず、現実世界ではステレオタイプが維持されつづけています。だからこそ、それらを脱却する人物を描きたいんです。
たとえば、強い主張を持ち、自分の欲望などをはっきりと表現して追求する女性。あるいは、いかにも弱々しくて優柔不断な男性。私は自分の映画にそんな人々を登場させることで、「性格はジェンダーによって決まるわけではない」ということを描いているつもりです。もちろん、女性をいつも完璧な存在として描くことはしないし、女性は誰もが善人でつねに美しいと考えているわけでもありません。欠点が多い女性もいれば、愚かなことや悪いことをする女性もいますから。 - © 2022 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED
『別れる決心』を含むパク・チャヌク作品で登場人物の造形に貢献してきたのが、『親切なクムジャさん』(2005年)以降、長編映画のほぼ全作品で共同脚本を務めてきたチョン・ソギョンだ。近年は『毒戦 BELIEVER』(2018年)やテレビドラマ『シスターズ』(2022年)など、チャヌク以外とのコラボレーションも多い才人である。
チャヌクがソギョンとの共作に踏み切ったのは、自身の代表作である『JSA』(2000年)と『オールド・ボーイ』の反省があったためだったという。
チャヌク:『JSA』や『オールド・ボーイ』では、女性の描き方が男性に比べると少々おざなりだったので、個人的には満足できないところがありました。そこで『親切なクムジャさん』では、女性を主人公として、さらに『JSA』に出演してくださったイ・ヨンエさんをキャスティングすることにしたのです。映画2本ぶんの借りをまとめて返したいと思いましたし、そのためには女性の脚本家が必要でした。 - 『親切なクムジャさん』以前のソギョンは、まだ商業映画の経験がない新人脚本家だった。『オールド・ボーイ』で世界的評価を受けたチャヌクとはキャリアに大きな差があったものの、ソギョンによれば、チャヌクは当時から対等な立場で接してくれたという。
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二人の執筆プロセスは独特なもので、はじめに共同で全体の設計図を作成したのち、ソギョンが初稿を執筆。その後、お互いが顔を合わせ、パソコンの画面を共有しながら、同じファイルに同時に手を入れるかたちで改稿を行なう。そして、最後にチャヌクによる仕上げ作業を経て完成稿ができあがるのだ。
執筆の過程では、チャヌクとソギョン自身も、お互いの執筆した箇所をだんだん見分けられなくなっていくそう。ソギョンが書いたと思われがちな女性の台詞が、実際にはチャヌクの手によることもあれば、逆もまたしかり。チャヌクによれば、こうしたスタイルで執筆された脚本には、興味深い「クセ」が表れるという。
チャヌク:執筆中に彼女(ソギョン)とよく議論することがあって――これは面白い話なんですが――私には男性の人物を情けなく、そして女性の人物をかっこよく描く傾向があるんです。けれども、ソギョンはまるで逆なんですよね。互いにそうした部分を補い合っていくと、結局、男性も女性も情けない人物になってしまいます(笑)。 - © 2022 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED
ちなみに『別れる決心』も、チャヌクによる代表的な作品のいくつかと同じく、物語の前半と後半で展開がガラリと変わる2部構成を採用している。物語に秘められた謎と、ソレという人物のありようの変化を、チャヌク自身はこのように説明した。
チャヌク:第1部から第2部の間で、この映画の謎は変化しています。第1部の謎は、「本当にソレは夫を殺したのか?」ということ。これは第1部のうちに解決しますので、第2部に入ると謎でもなんでもなくなります。ただし第2部にはまた異なる謎があり、そして、その謎の果てにはヘジュンという人がいる。そのときのソレは、もはやラブストーリーの主人公であって、決して男性を食い物にする悪女ではないのです。 - チャヌクの次回作は、気鋭の製作会社A24とタッグを組み、ロバート・ダウニー・Jr.を主演に迎えたドラマシリーズ『ザ・シンパサイザー(原題)』。ふたたび韓国を離れ、テレビでの仕事となるが、きっとこの作品でも複雑かつ多様な女性像を描き出してくれることだろう。自身の作品における女性登場人物の変遷について尋ねたとき、チャヌクはこうも語った。
チャヌク:きちんと自分の主張を持っている女性を描くのは、とてもエキサイティングで楽しいこと。同時に、やらなければいけない仕事が非常に多いことでもあります。これからも丁寧に掘り下げていきたい、深めていきたいと考えています。 -