Text by 森谷美穂
Text by 石垣久美子
アート・ヒト・社会の関係性やアートの可能性を学ぶ「Study:大阪関西国際芸術祭 2023」が、2023年1月28日に開幕した。本芸術祭は、大阪万博が開催される2025年に世界最大規模の芸術祭として本開催することを目指し、プレイベントとして昨年から実施されている。
その始まりは、古くから大阪経済の中心地として栄えた船場エリアの若き経営者たちと株式会社アートローグによる都市再生の取り組みだ。老朽化し立て直しが予定されている船場のオフィスビルを、アートの場として活用したことがきっかけとなり、アートを介して人、企業、教育現場などが連携しながら街を元気にするという構想につながった。
2月13日(月)までの会期中、JR大阪駅前の商業施設「グランフロント大阪」や飛田新地の飛田会館など、大阪のキタからミナミまで全12会場を舞台に、地域密着型のアートプログラムが行なわれる。
本芸術祭の特徴のひとつに、出展しているアーティストの多くが関西に縁があることが挙げられるだろう。本稿では、そのなかでもとくに街に溶け込み活動を行なっている、大阪・西成区を拠点とするアーティストの2つのプロジェクトを紹介する。
通天閣からほど近い西成区山王に、会場のひとつkioku手芸館「たんす」がある。元タンス店だった店舗を活用したクリエイティブスペースだ。ここでは、「装い」をテーマに活動している美術家の西尾美也が地域の女性たちと立ち上げたファッションブランド「NISHINARI YOSHIO」の作品を展示、販売している。
地元の人たちが持ち寄った端切れや、思い出のある古着をリデザインした服はどれも個性的で、どこかなつかしい印象だ。
現在は週に2度、6名ほどの固定メンバーが西尾とともに、服やアクセサリーの制作を行なっているのだが、みんな70代から90代の女性たちだというから驚かされる。西尾と彼女たちの懸け橋となっているのが、「たんす」を運営する一般社団法人brk collective(ブレコ)の松尾真由子だ。
松尾:2012年に美術家の呉夏枝(お はぢ)さんと一緒に編み物をほどくワークショップを行なったのがきっかけで、地元の高齢女性たちとの交流が生まれました。このワークショップの参加者がその後も自主的にこの場に集ってくれたことが、いまのプロジェクトにつながっています。2016年から西尾さんが加わり、アートとファッションの両方を行き来するプロジェクトとしてファッションブランド「NISHINARI YOSHIO」が誕生しました。
女性たちがやって来る日、「たんす」には明るくにぎやかな話し声が響く。思い思いのおしゃれを楽しんでいる様子が見られるが、ファッションを仕事にしていた人は一人もいないという。裁縫やものづくりが好きな女性たちが集まり、西尾から出されるさまざまなお題に応えるかたちで衣服を縫っていく。
松尾:おばあちゃんたちに「アートをつくっている」という感覚はないと思います。ここに来たらみんなと会えるし、何かつくるのが楽しいという感じです。私たちもあえてアートについて話しませんが、一人ひとりのもつスキルや魅力を引き出すことで、結果的にアート作品になっているのかもしれません。
世代も生い立ちも違う西尾とは、たびたびコミュニケーションのズレも生じているそうだ。
松尾:西尾さんが意図するものと違うものができあがってきたり、お互いのイメージが違っていたり。ただ、そういうズレが「NISHINARI YOSHIO」のコンセプトであり魅力です。
「たんす」のある西成区は、高度経済成長期に多くの日雇い労働者が集った街だ。現在は街全体の高齢化が進み、日雇い労働者自体が減ったことで、労働者向けの簡易宿泊所が観光客向けの小綺麗なホテルにリノベーションされるなど、街の雰囲気は変わってきている。そして、近年この街では技能実習生や留学生など、主に中国やベトナムからの外国人移住者が多く見られるようになったという。
松尾:地元の方たちも外国からの移住者の方たちも、同じ場所に住んでいるのにもかかわらず、ほとんど接点がありません。そのためそれぞれの暮らしや地域の文化を知る機会がなく、すれ違いが生じてしまっているように感じました。
また、「NISHINARI YOSHIO」の共同制作者である地域の女性たちはみな高齢です。今後懸念される活動の担い手について考えていくためにも、「後継者問題(仮)」と題して、数年に渡るプロジェクトを立ち上げました。まずは地域に暮らす外国からの移住者の方たちと出会う第一歩として、モデルになっていただくことをお願いしました。
初公開となる「たんす」の3階では、「NISHINARI YOSHIO」の新作コレクションの服を着た外国からの移住者たちのポートレートが展示されている。街で声をかけ、その場で撮影したというポートレート作品には、商店街や街角でポーズを取る若者たちが映っている。彼らのプライバシーへの配慮からほとんどの作品が撮影禁止となっており、名前やプロフィールも明かされていない。
松尾:服やアートを通じて、かつておばあちゃんたちと築いてきたような関係をこの街の外国人の方ともつくっていきたいです。この街にはとても複雑な事情を抱えた人や、困難な状況にある人がいますが、その一方で、人と人のつながりが強く、助け合いがあるあたたかな場所でもあるんです。
次に紹介する会場も、西成区が舞台になっている。「たんす」からも歩いていける商店街の一角にある、詩人の上田假奈代が主催する釜ヶ崎芸術大学だ。釜ヶ崎とは西成区北東の一部の地域を指す通称で、正式な地名ではないため地図には書かれていない。
目と鼻の先にある通天閣や、大阪一の高さを誇る商業ビル「あべのハルカス」の賑わいをよそに、釜ヶ崎だけは時間が止まったようにレトロな下町の雰囲気を残している。地図にない釜ヶ崎という場所を上田は、「人生のなかで寄る辺がない、ひとりぼっちのような気持ちになったりする状況なのかもしれない」と表現した。
かつて西成区でもひときわ多くの日雇い労働者が集まった釜ヶ崎だが、バブル崩壊後に失業者が相次ぎ、90年代後半からは路上生活者や生活保護者が多い街として知られるようになっていった。
上田:私は奈良出身で、2003年に大阪に来ました。当時の釜ヶ崎にいた路上生活者が置かれた状況は私にとっては驚くことで、どうとらえたらいいのか、すぐに答えは生まれませんでした。
親しくなった路上生活者のなかには、「もともと音楽をしていたけれど阪神淡路大震災がきっかけですべて失ってしまった」という人や、「本当は何か表現をする活動をしたかったけどできなかった」という人もいて。そういう方たちに声をかけて一緒に舞台をしたこともあります。その後、釜ヶ崎にアートの団体がないことを知って、釜ヶ崎芸術大学の前身となる場をつくりました。
あいりん総合センターが閉まる直前に労働者が捨てていった般若心経。段ボールに書かれている
上田は20年にわたり釜ヶ崎の変化を見つめ地域の人々と交流を続け、誰もがフラットに表現しあう場として釜ヶ崎芸術大学を開いた。習字や演劇、音楽など、ここでさまざまな講座を通じて人々の交流が生まれてほしいと願って活動を続けている。
また、釜ヶ崎芸術大学と同じ建物にカフェとゲストハウスの機能も持たせ、地域の人も旅行者も、あらゆる人がこの場所に集える仕組みをつくっている。
さまざまな背景を持つ釜ヶ崎の人々と向き合い、コミュニティーをつくる。その原動力はどこにあるのだろう?
上田:釜ヶ崎芸術大学は労働者も路上生活者も旅行者もみんなで一緒に表現活動をする場ですが、私は人助けをしようとか、社会貢献をしようという気持ちで動いているわけではないんです。
私は詩人ですが、現代において詩を仕事にするってとても難しいことですよね。では、詩人の仕事ってなんでしょう?
これまでいろいろな境遇の人たちと出会ってきたなかで、私は詩人の仕事って、詩や詩集をつくることだけじゃなくて、命がその人のなかにあると本人が気づけるよう、人や社会の傍らに寄り添うことなんじゃないかと思うようになったんです。
釜ヶ崎芸術大学に足を踏み入れてみると、誰かが半紙に書いた詩や文字、スーパーのチラシやビールの空き缶でつくった作品などが所狭しと置かれており、訪れた人はその物量とエネルギーに圧倒されることだろう。
なかでも印象的なのが、「森村泰昌ルーム」と呼ばれるゲストハウスの一室だ。壁一面に大阪出身の美術家、森村泰昌のセルフポートレート作品と、鹿児島出身の元日雇い労働者、坂下範征の詩が飾られている。二人は釜ヶ崎芸術大学の活動がきっかけで出会い、意気投合したのだという。この部屋では境遇や立場を超えた表現者二人の交流に直に触れられるようだ。
名画や歴史上の人物に扮する森村泰昌のセルフポートレート作品
坂下さんの言葉を、釜ヶ崎にゆかりのある人びとが書にしたためた作品
大阪関西国際芸術祭のメイン会場のひとつである船場エクセルビルには、釜ヶ崎芸術大学の雰囲気をそのままに移設した展示会場がある。
窓ガラスからの自然光がのびのびとした空間をつくるなか、雑多な表現が混在している
同会場に作品が展示されている堀江日出男は、釜ヶ崎のNPO団体「ひと花センター」への来所がきっかけで60代から絵を描き始めたという西成の住民だ。2022年5月には初個展を開催。クレヨンや色鉛筆で描かれる動物や街並みは、表現することの無垢な喜びを感じさせる。現在、釜ヶ崎芸術大学を通じて堀江のもとには全国から画材が届けられているという。
上田:この20年、とくに芸術について勉強をしてこなかった、どちらかというと縁遠かったような人たちと一緒に表現をする場をつくり続けています。みんなが尊厳を認め合って公平でいられる場があってこそ、人は表現ができる。何を表現するかより表現できる場をつくるほうがよっぽど大事なんじゃないかと思っています。それは学校の先生とかじゃなくて、釜ヶ崎で出会ったおじさんたちに教わったんです。
釜ヶ崎の住人、堀江日出男の作品。1年半あまりで600枚を制作した。全ての作品を一挙に展示している
釜ヶ崎の人々とともに活動をしてきた20年のあいだで、街の様子は変わっていき、「釜ヶ崎のおじさんたち」も一人また一人と亡くなっているのだという。
上田:この街の記憶や存在を未来に伝えていきたいと思っています。表現と出会いの場、そして表現と仕事が結びつくアートセンターができないものか構想を巡らせていて、それが今回の展示の「釜ヶ崎アーツセンター構想」なんです。どんなものをつくればいいのかまだ答えは出てないけど、ずっと考えているんです。
「大阪関西国際芸術祭」の会場には、ひとつも美術館が選ばれていない。大阪のギャラリー、ホテル、老舗料亭、レストラン、大学、そしてスタートアップ企業などが民間レベルで強く連携しているのが特徴だ。それはこの芸術祭が船場の若き経営者たちの声がけによって始まった草の根の取り組みだということの表われなのだろう。大阪の街、人、社会にアートが何をもたらすことができるのか、引き続きその活動を注視していきたい。