Text by 野中モモ
Text by 後藤美波
もしこの人がいなかったら、英国のファッションとポップカルチャーは、現在わたしたちが知っているのとはまったく違ったものとして発展していたかもしれない。思わずそんな「もし」を考えてみたくなるほどに大きなインパクトを与えてきた特別な存在、ヴィヴィアン・ウエストウッドが、2022年12月29日に亡くなった。81歳だった。
1970年代、「パンクの女王」として名を馳せた後に、80年代には本格的にモードの世界に進出。自らの名前でブランドを確立した後、最晩年までファッションデザイナーとして活動すると同時に、環境保護をはじめとする社会正義のためのアクティビストとしても積極的な発信で耳目を集めた。その驚くべきバイタリティーで駆け抜けた挑戦の生涯を振り返ってみよう。
ヴィヴィアン・イザベル・スウェアは、イングランド中部ダービシャーのグロソップで、1941年に生まれた。第二次世界大戦の最中、英国の人々が配給制の厳しい暮らしを強いられていた時代だ。スウェア家の父は軍需品を製造する工場で働くことになって徴兵を免れ、母は織工として働いていた。ヴィヴィアンは父母に愛され、妹と弟とともに田舎で自然に囲まれてのびのびと少女時代を過ごしたようだ。
一家が郵便局経営の仕事に就くため、ロンドン郊外のハローに引っ越してきたのが1957年。この年、ヴィヴィアンは教師の励ましもあり、ハロー美術学校に入学した。そして基礎コースでドレスデザインと銀細工を学んだものの、一期でやめてしまったという。「芸術家として食べていけるわけがない」と思い悩んでのことだった。
「問題は、女の子が思いつく職業が4つしかなかったこと。教師か、美容師か、看護師か、それとも、よくある秘書職か」と、本人は当時を振り返る(『ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝』ヴィヴィアン・ウエストウッド、イアン・ケリー著、桜井真砂美訳 DU BOOKS P.91)。そこでコダックの工場に就職し、タイピスト養成学校と迷った末に教員養成学校に通いはじめた。この時19歳。教員資格をとった彼女は、幼児学校や小学校で子どもたちに美術を教えて生計を立てることになった。
50年代後半にティーンエイジャーとしてロックンロールの流行を経験した彼女は、60年代のロンドンでさまざまなポップカルチャーが花開くのにも立ち会った世代だ。ダンスに夢中だった彼女は、モッズやテッズなどの若者たちのトライブ(族)が生まれては、「最新流行」が目まぐるしく移り変わってゆく様を目の当たりにする。そんなロンドンの夜に遊びに繰り出すうちに、ヴィヴィアンは最初の夫となるデレク・ウエストウッドと出会った。1962年には結婚し、翌年、息子ベンが生まれた。
しかし、結婚生活はうまくいかなかった。ヴィヴィアンは、ベンが生まれて数か月後に離婚を決意する。実家に戻り、ポートベロー・ロードの露店でアクセサリーを売るぐらいしか収入がなかったという彼女にとって次の転機となったのは、弟の友人だった美術学生マルコム・マクラレンとの出会いだった。
国の制度を利用し、美術学校を転々として奨学金で生活していたマルコムは、ヴィヴィアンの5つ年下で、フランスのシチュアシオニストをはじめとする反体制の思想から影響を受けた作品を発表していた。1967年にはふたりのあいだに息子ジョーが生まれた。
このカップルが70年代後半にパンクの立役者として脚光を浴びる以前から10年余りにわたってお互いに刺激を与えあっていたこと、そして幼い息子たちを抱えていたということは、見過ごされがちだが重要な事実だ(マルコムは父親としての務めをほぼ果たさなかったと語られているが)。
ヴィヴィアン・ウエストウッド(右端)、1976年、自身のショップ「SEX」にて David Dagley / Shutterstock
ふたりは1971年、ロンドンのキングス・ロード430番地にはじめての店「レット・イット・ロック(Let It Rock)」をオープンさせる。ロックンロール・リバイバルのブームに目をつけ、はじめは50年代の古いレコードや古着を販売していたが、ヴィヴィアンは次第に既製品のリメイクやアレンジを通じてデザイナーとしての才能を発揮しはじめる。
翌年には店名を「トゥー・ファスト・トゥ・リヴ、トゥー・ヤング・トゥ・ダイ(Too Fast To Live, Too Young To Die)」に変更。1974年には「セックス(SEX)」にふたたび変えられ、その頃にはSMを想起させるラバー製のアイテムなど、その名の通り社会で隠されてきた性の要素を強く打ち出す服を販売するようになっていた。
ヴィヴィアンとマルコムは1973年にはじめて渡米し、大西洋の向こうで活動していたバンド、New York Dollsの、グラムロックのように中性的でありつつ独自の鋭さのあるスタイルに感化された。バンドを世に送り出して社会に衝撃を与えたいというマルコムの目論見は、ロンドンでSex Pistolsを誕生させることになる。
よくできたプロらしいポップスや重厚長大なプログレッシブロックが流行していた時代にあって、新鮮な荒々しさと切実さを備えたピストルズは、ボーカルのジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)のカリスマ性もあって熱い支持を集めた。彼らの存在は化学反応を生み、さらに大きなパンクムーブメントを引き起こすことになった。
ヴィヴィアンは衣装担当としてピストルズのイメージづくりの大いに貢献し、大胆なグラフィックTシャツ、ボンデージパンツ、タータン、安全ピンといった、パンクの代表とされるスタイルが生まれた。
ちなみにヴィヴィアンは、安全ピンを最初に使ったのはシド(・ヴィシャス)かジョニーで、服を破られた際に縫うのが面倒だったからそうしていたのだと証言している。キングスロードの店は1976年「セディショナリーズ(Seditionaries)」(「扇動者たち」の意)に改名され、パンクスたちの目指すところとなった。
ヴィヴィアンは、「政治活動としてのパンク」についてこんな発言をしている。
「わたしたちはようやくバカな政治家が人民を苦しめている現状に気づきはじめた。たとえば、ピノチェトのことを考えて。そう、世界は今おぞましい状況にある。残虐で、汚職にまみれ、危険をはらんだ世界。それを操っている愚かな人間がたしかに存在している。とにかく最初から、パンクは軽蔑の的だった。そう言ってしまうと、表現がきつすぎるかもしれないけど、本当にそうだった。大人世代からみれば恥知らず以外のなにものでもなかったの。だって、それまでの自分たちの発想にないことばかりやるんだから。現社会という恐ろしい殺人マシーンの車輪に若者の力で輪止めをつけようというのが、そもそものきっかけだったの」(『ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝』P.247-8)
だが、ピストルズは1978年にロットンが脱退し、1979年にベーシストのシド・ヴィシャスが亡くなったことで完全に崩壊する。しかし、ヴィヴィアンが本格的にファッションの世界で活躍しはじめたのは、パンクの嵐が過ぎ去ってからだった。
彼女はインスピレーションの源を古典的な美術や歴史に求めるようになり、現在も語り草となっているコレクションを次々と発表していった。キングスロードの店は1979年より現在も営業中の「ワールズ・エンド」となる。ヴィヴィアンとマルコムは1981年に決別し、83年には共同経営者としての関係も解消した。
たまたま見かけた海賊の彫刻やフランス革命期の服装や絵画からヒントを得た1981年の「パイレーツ・コレクション」は、パンクの後に現れたニュー・ロマンティックと呼ばれる若者たちと共振した。18世紀フランス絵画のコレクションを誇る壮麗な美術館ウォレス・コレクションに通い、服飾史の本を参照して掘り起こされた過去が、当時のストリートの気分と重なりあって新しいスタイルができあったのだ。
1985年の「ミニ・クリニ」コレクションの「クリニ」は、クリノリンから来ているのだろう。19世紀後半に流行した、針金や鯨ひげなどを用いた輪の連なりがスカートをふくらませる下着だ。その「ミニ」ということで、つまりボリュームのあるミニ・スカートだが、ヴィヴィアンは現代らしく、より扱いやすい素材を使用している。
これは、80年代のウィメンズウェアで主流だった、肩パッドとペンシルスカートによる逆三角形のシルエットに対し、自然な肩とウエストラインに注目を集める流れをつくったと評価されている。また、このコレクションではコルセットも登場。シャツの上にブラをつけるなど、もともと下着として生まれたアイテムを上に着用する手法も、彼女がいちはやく提案したあとに広く見られるようになったスタイルだ。
翌年の「ハリス・ツイード」コレクションでは、スコットランド名産のツイード素材に注目し、伝統的な仕立てをさらに追求。歴史と戯れ、伝統を引き継ぎながらも遊び心をもって意外性を呼び込むアプローチで、ファンを増やしていった。
この時期、イタリア企業のバックアップを得ることができ、また日本を筆頭にアジアの国々での人気を高め、ヴィヴィアン・ウエストウッドはブランドとして本格的に地盤を固めていった。その業績が認められ、1990年、1991年と2年連続でブリティッシュ・ファッション・カウンシルから『デザイナー・オブ・ザ・イヤー』賞を授与されている。
私生活にも大きな動きがあった。1989年からウィーン応用美術大学で月に3日ファッションを教えていたヴィヴィアンは、そこでの学生だった25歳年下のアンドレアス・クロンターラーと1993年に結婚。以降、ふたりは密なコラボレーションを続けた。この年には、パリ・コレクションのランウェイで、高さ27センチにおよぶプラットフォームシューズを履いたスーパーモデルのナオミ・キャンベルが転んだアクシデントも話題になった。
このように70年代から一部でカルト的な信奉者を集めていたヴィヴィアンだが、日本などでのライセンスビジネスが軌道に乗ってようやく経済的な安定がもたらされたのは、90年代に入ってからだったと自伝では語られている。つまり自身が50代に入ってからのことだ。2004年には、名実ともに英国のトップデザイナーとして生き抜いてきた彼女の業績を称える回顧展が、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博術館で開催された。
2010年代には、気候変動をはじめとする社会・政治問題に、以前にも増して熱心に取り組むように。2012年のロンドン・パラリンピックの閉会式に出演した際には「クライメイト・レヴォリューション」と書かれた大きな垂れ幕を広げて地球環境の保護を訴えるメッセージを伝えた。その後も最晩年まで、さまざまなアクションや月に複数回のブログの更新で気候変動への迅速な対策を求め続けた。
2020年には、ウィキリークス創設者ジュリアン・アサンジ被告の米国への身柄引き渡しをめぐる裁判が進行中だったロンドンの中央刑事裁判所の前で、黄色いスーツ姿で大きな鳥籠に入るパフォーマンスをおこなった。「炭鉱のカナリア」に耳を傾けよ、籠の中の鳥を解放せよという訴えだ。
ブランドの公式サイトに掲載された訃報では、「資本主義は罪。それは戦争、気候変動、腐敗の根本的原因」という彼女の言葉が紹介されている。ファッションの世界で上り詰めながら、反資本主義を呼びかけ続けた生涯だった。矛盾を抱えながら大きな成功を収め、つねに自らの信じるところを全力で発信し続けた。
彼女の有名な発言に、「もっと印象に残る服を着ればもっと面白い人生を送れる」という言葉がある。これほどの説得力をもってそう言える人物は、他にいないだろう。