Text by 天野史彬
Text by 山元翔一
Text by 松永つぐみ
そのサウンド感覚においても、言語感覚においても、いまだ色褪せない鮮烈な衝撃を与えた『午後の反射光』(2019年)、世界と擦り切れ内省を深めながらも、新たな仲間たちとともに刺激的な音楽的ダイナミズムを獲得した『縫層』(2020年)、自らの音楽家としての原初に回帰した『袖の汀』(2021年)――ソロアーティストとして私たちの前に現れて以降、刺激的なサウンドと、その時々の自身の命の動きに実直な詩情をもった作品をリリースし続けてきた音楽家・君島大空が、ついに1stフルアルバム『映帶する煙』を完成させた。
以下に続くインタビューの冒頭で語られているとおり、君島が本作をつくりだす前提には「なにを出しても流されてしまう」という時代への危機意識があった。
なにをつくりだしても、必要以上に「意味」を求められてしまうこと、そして、即座に消費されてしまうこと……そうした状況を前にして、本作で君島が試みたのは、自らの音楽家としての轍を振り返りながら、自分という生きものの、その魂のかたちを音楽によって浮き彫りにすることだった。だから、このアルバムは歪だ。
本作『映帶する煙』には、君島大空という人間のさまざまな表情が刻まれている。記憶に光を当てる眩いベッドルームポップがあり、「合奏形態」による喜びのバンドアンサンブルがあり、そして、怒りと苛立ちが破裂する異形のブルースがある。整合性や統一感などない。君島自身の言葉を借りるならば、「自己矛盾」を隠すつもりもない。生きている、生きてきた――その事実が、ひたすら刻まれている。『映帶する煙』は、そういうアルバムである。
これまでの作品がそうであったのと同様に、極めてパーソナルなアルバムだ。しかし、これまでの作品がそうであったのと同様に、どうしようもなく、聴き手である私やあなたを映し出す鏡のようなアルバムでもある。この魂の律動に、あなたはどう応えるだろうか。
君島大空(きみしま おおぞら)
1995年生まれ 日本の音楽家。2014年からSoundCloudに自身で作詞/作曲/編曲/演奏/歌唱をし、多重録音で制作した音源の公開をはじめる。2019年3月13日、1st EP『午後の反射光』を発表。同年7月27日、『FUJI ROCK FESTIVAL 19 ROOKIE A GO-GO』に合奏形態で出演。2020年11月11日、2nd EP『縫層』を発表。2021年4月21日、3rd EP『袖の汀』を発表。2023年1月18日、1stフルアルバム『映帶する煙』を発表した。
-君島さんにとって今作『映帶する煙』が1stフルアルバムということになりますが、まとまった作品としては『袖の汀』から約2年ぶりとなります。今回のアルバムは、『午後の反射光』以降、君島さんの歩みを追体験するような作品だと個人的には感じたのですが、本作の制作はどのように出発したのでしょうか?
君島:『袖の汀』を出したあとなので、2年前、コロナ禍真っ只中の時期、「なにを出したらいいんだろう?」と考えはじめるタームがきてしまって。
なにを出しても流れていってしまうような感覚があったんですよね。この感覚はおそらく、個人差はあれど、この時間を過ごした人たち、特にぼくと同世代以下のミュージシャン、みんなにあった感覚なんじゃないかと思うんですけど。
いろんなアーティストが何人か集まってひとつの曲を出すとか、クラウドファンディングで音源をつくるとか、すごく有名な方がTikTokでなにかやってみたりとか……そういう瞬間的な爆発のような、わかりやすい力で紛らわせないと気がどうにかなってしまうような感覚があって。お酒をやたらに飲むみたいなことに近いと思うんですけど(苦笑)。
君島:でも、ぼくにはそこまでのエネルギーもなかった。それは「流れていってしまうもの」を見ているからというのもあるし、「残っていかない」ことに対しての怖さがすごくあったんです。
―SNSやストリーミングサービスが前提となったことで、音楽の聴かれ方も変わっただろうし、選択肢が無数に広がった時代環境では、音楽家やものづくりをする人にとって葛藤や困難も多いのだろうなと思います。そのうえ、そこにコロナ禍も重なってしまった。
君島:『袖の汀』以降、自分の目に映るものがなにも残らず、すべてが零れ落ちていってしまう気がしたし、たとえばフェスのことなんかでも、音楽の見えなくていい部分がすごく見えた瞬間もあった。魔法だと思っていたものが、ハリボテに見えて、すごく醒めてきたりして。
そういうなかで「なにをつくったらいいのかわからない」という状況になってしまったんですよね。でも、雑な考え方ではあるんですけど、「じゃあ、残るものをつくったらいい」と思ったんです。ただ、それは瞬間的な爆発力のあるもの以上のエネルギーを使わないと到底できることではないし、「これは時間がかかるな」と。
―具体的なとっかかりはどこだったのでしょうか?
君島:とりあえず自分に残っている古い曲……アルバムの真ん中に入っている“19℃”と“都合”という曲なんですけど、この2曲を録ってみようと思いました。
ぼくは自分の曲を寝かせてしまいがちなんですけど、何周か回って、「いま」の自分の感覚のまま、過去の曲に対峙できる瞬間があったんです。「この曲なら、いま正視できるな」と思ったものを録ってみた。そこから、このアルバムははじまりました。
-“19℃”と“都合”は、これまで作品に収録されてはいなかったものの、SoundCloudでも公開されていましたし、ライブで演奏される機会も多かった曲です。この2曲は今回、合奏形態でレコーディングされていますが、手応えはいかがでしたか?
君島:いま録っておいてよかったなと思いました。つくってから5~6年経っている曲ですし、あらためて歌詞を読んでみると、他人事みたいに思えて。なんというか……すごく親しい友達に言葉をかけてもらっているような気分になりました。
あと、この2曲は合奏で一発録りをしているんですけど、そういうことを自分の曲でやったことがなかったので、「こんなに清々しいことがあるんだな」と思いましたね。「いままで俺は、1曲つくるのに何時間かけてたんだろう?」って(笑)。
君島:そうやって自分の曲に瑞々しさが生まれたのはすごくいい経験でした。合奏形態はみんな当たり前に上手い人たちなので特別演奏面での話なんかはせずに、気持ちを合わせて2~3テイクで録りました。健康体験でした(笑)。
-ただ、結果的に“19℃”や“都合”のトーンがアルバム全体を覆っているかというとそういうことではなく、それはあくまでも一部ですよね。君島さんがひとりでつくりこんだと思しき曲たちも収録されているし、君島さんがこれまで見せてきたさまざまな音楽的要素が盛り込まれたアルバムになっている。アルバムの全体像に関してはいかがですか?
君島:まずアルバムのタイトルが、『袖の汀』を出す前くらいからずっと決まっていたんです。『午後の反射光』と同じことをいっているようなタイトルなんですけど、ちゃんと「自分の続きをつくる」というか、いままでの自分のひとつの清算として、アルバムをつくろうという思いはあって。
-『映帶する煙』というタイトルを見たとき、ニュアンスとして『午後の反射光』に近いものなのだろうというのは思いました。『午後の反射光』のリリース時、初めて取材させていただいたとき、君島さんは「世界は煙のように実体のないもので満ちている感覚がある」とおっしゃっていたので。
君島:「煙のように感じる」というのは、近年は、自分に対しても思うんですよね。不在感というか……自分がどれなのかわからない、どこにいるのかわからない。「どこにいるのかわからないまま生きていくんだろうな」って、最近思うんです。
なんだろう……「ふたしかである」ことの、「たしからしさ」みたいなもの。いろんな角度から見たときに、やっと像がわかる、みたいな……『映帶する煙』というのは、そういう感じの意味です。人のこと、という感じがします。誰しもが「映帶する煙」であるし、非常に自分のことでもあると思う。
君島:SNSとかがそうですけど、いろんな物事を一面的にしすぎていて、人の存在を情報のように扱ってしまう……最近、そういう感じが全然合わなくて。だけど自分にもそういう傾向はあって、人をすごく冷たく見てしまったり、自分に対してもそういう目を向けたりする。
……でも、人ってもっと、肉体以上に立体的であるはずで。それを自分で認めることがすごく大事なんだと思いはじめた瞬間がありました。人は、いろんな面があって然るべきだし、本音がいっぱいあって矛盾しまくっていても、それがその人だろうし。
肉体から離れたところにある本音というか、すごく矛盾した塊が魂だといまは思います。音楽もそういうものだと思う。そういう考えと、「自分がこれまでやってきたことを全部入れてやろう」って思いが結びついたのがこのアルバムだと思います。
-「映帶(えいたい)」というのは、辞書的な意味でいえば、「互いに映し合う」ということで、そういう部分は「反射」という言葉にも通じていると思うんです。君島さんの音楽は、なぜこうしたものを内包していくのだと思いますか?
君島:自分のことを話そうと思っても、どうやっても自分だけの話にはできないってことは、このアルバムをつくっているときもずっと思っていて。……矛盾しているけど、ぼくはすごく人が好きで、でもめっちゃ嫌いな時間もある。
ぼくは人との距離の取り方がめちゃくちゃ下手で。仲よくなりすぎることも多いし、気づいたら相手に「嫌われてると思った」と言われることもあって、本当に「人づき合いが向いてないな」と思うんです。
君島:でも、こういう「人との距離」がないと、音楽はできない気がするんですよね。孤独という状態はひとりきりだと成立しない、みたいな話に似ていて、属することのできる集団があって初めて孤独が成り立つように、この「人との距離」がないと、ぼくはどんどんとひとりきりになって、本当に天涯孤独になってしまうと思う。
-一方で、「自分だけの話にはできない」という部分は、この『映帶する煙』というアルバムが持つ、どうしようもなく他者と接していくような部分に宿っている気がします。
君島:ああ……ぼく、フィービー・ブリジャーズが大好きで、『Punisher』(2020年)ってアルバムをめちゃくちゃ聴いていて。
最初はブレイク・ミルズやジョナサン・ウィルソンのようなトッププロデューサーたちが集結してつくった、あのサウンドデザインが最高だなと思って聴いていたんです。フィービーが同い年というのもあって(※)、何を歌っているのか気になって歌詞を読んでみたら、自分の内省と社会のことを見ていて。
その立ち姿がすごく美しいというか、まっとうだなと思ったんですよね。いまの時代にぼくが音楽に求めるもの、音楽のあり方にフィットしている気がして。そこは、今回のアルバムをつくるうえで影響を受けましたね。
-このアルバムをつくり終えて、ほかにあらためて自分自身について気づいたことはありますか?
君島:「この音はずっと使っているな」とか、「ここは絶対に同じ処理をするよな」とか、そういう自分のなかでの変わらなさと、逆に刷新もあった気がしていて。
-大きく「変わらない」と思った部分は?
君島:やっぱり、ほとんどを自分でやったことですね。ミックスも全部、人に任せてみようかなと思ったんですけど、結果的に、合奏の一発録りやドラムの録音以外は全部自分でやりました。
変わった部分はやっぱりバンドで録ったことですね。バンドの一発録りとほとんどのドラムの録音をSTUDIO Dedeというところで録ったんですけど、そこのエンジニアで、今作のマスタリングもしてくれてた吉川(昭仁)さんがミックスに関していろいろ教えてくれたんです。
-そのことを通じてどんな気づきがありましたか?
君島:……『午後の反射光』のときとかは、本当になにも考えてなかったんだなって。「恥ずかしい~」みたいな感じです(笑)。
今回、アルバムのラフミックスをスタジオのデカいスピーカーで聴かせてもらったんですけど、そのとき「このミックスだと魅力が2割しか出ていないから、やり直し」って言われたんです。でもぼくも、そのままそこで、録って何も処理をしていないラフミックスと自分のミックスを聴き比べてみときに、録った時点でいいとしたはずのテスクチャーや温度、湿度感が失われているのも明瞭にわかったし、「本当に2割しかよさが出てない」と思ったんですよね(笑)。
君島:ただ、感覚はそこまで間違っていなかったんです。そういう気づきがあったことで、また制作が楽しくなりました。それで合奏のみんなにラフミックスの状態をバンバン聴いてもらうことができるようになったり。
前まではそんなこと絶対にできなかったんです。納品まで誰にも聴かせなかったこともあったくらいで。でも今回は、「厳しい意見が欲しいな」と思って制作中に友だちに聴いてもらったりして。
ミックスや宅録のことについて人に習うことがなかったので、いまになってある種、師匠のような人が現れたことで、自分がオープンになっていることに気づきました。そこは一番変わったなと思います。最終的にはひとりでどんどんやってしまう部分は、変わらないんですけどね。
-あらためて伺うと、君島さんはどうして最終的には、ひとりでやろうとするのだと思いますか?
君島:……ずっとひとりでやってきたから、ということ以外に、いまのところ説明はつけられないです。
君島:ひとりでやっていて、泣きながら曲ができて、「嬉しい、最高だ!」となった瞬間のことは、ずっと覚えているんです。曲を録って感極まってしまった実家の6畳の部屋のこととか、すごく覚えている。そういう体験があるがために、ひとりでやるんだろうなと思います。
-冒頭にも少し言いましたが、本作はどこか、『午後の反射光』から『袖の汀』までの君島さんの歩みを追体験するような曲順になっていると思ったんです。曲順に関してはどのように考えられていましたか?
君島:おっしゃっていただいたように、いままでやってきたことを追体験するような流れの組み方にした部分はあります。
「『午後の反射光』からの続き」が最初のテーマではあったので、その時間の話をし続けたいということは考えていて。たとえば3曲目の“装置”は“午後の反射光”とほとんどBPMが同じで、拍子も同じ8分の6で、構成もほとんど一緒なんです。
君島:アルバムが進むにつれて、もともといた場所に戻っていく感覚が個人的にはあって、『袖の汀』のときのように海のことに帰っていくような感覚がある。「また、ああいうものをつくりたいんだろうな」と思いながら、最後のほうの流れはつくっていました。
-最後に収録されている“No heavenly”は、これもすでにライブで披露されてきている曲ですが、君島さんにとってはどういう曲なんですか?
君島:この曲は、自分の言葉がスッと出てきて、パッと書いた曲ですね。2020年の暮れの新木場STUDIO COASTでのライブに向けて書いた曲でもありました。
当時、自分を取り巻く状況や、自分に関係なさそうで関係ある世界の様子に、すごく苛々していたんですよね。それで、バンドで3コードのブルースみたいな曲をやりたいなと思って、自分のなかでは、特に前半は、ブルースとして書いた曲ですね。
-では、後半の部分はあとから書き足したんですね。特に、最後のギターとドラムの音はほとんど叫びのようで、かなり印象的です。
君島:ぼくがすごく好きな世田谷RECというスタジオがあって。そこのドラムの音がすごく好きなんです。“遠視のコントラルト”のときに、初めて(石若)駿さんが叩いてくれたスタジオなんですけど、そこに2022年の初め「今日、“No heavenly”を録る」と決めて、夕方から朝方まで駿さんと入ったんです。
最初は曲の前半の部分しかなかったんですけど、スタジオに入る直前に「もっと複雑な、ぐちゃぐちゃした気持ちでつくったはずなのにな」と思って、静かな部分を書き足して、終わり方のイメージもつくっていったんです。
最後の部分は、駿さんと酒を飲みながらぼくもドラムブースに入って、「石若、もっとだ! 足りない、足りない!」とか言いながら指揮の真似事をしながら録りました(笑)。「絶対ほかでは出さない、めちゃくちゃな石若駿を出してくれ!」って(笑)。すごく楽しかったです。
-このアルバムの最後を“No heavenly”で締めくくることは決めていたんですか?
君島:そうですね。“No heavenly”はぼくにとってすごく現実的な曲なんです。自分のなかにある矛盾、自己矛盾みたいなものを隠して生きるのはすごく不健康だとは思うけど、そうしないと社会と折り合いをつけづらいし、それを理由に生きられなくなっている人も知っている。
そういうなかでも、「ここでなら隠さずにいられる」というものが自分にとっては音楽なんです。「本当はこうだろ?」って急に胸ぐらを掴むように人と距離を詰めて、グロテスクさも含めて現実を見るような表現をしたかったというか。この次に進むには、ドリーミーな終わり方ではダメだなという意識があったんですよね。
-なるほど。あくまでも、次があるからこそ。
君島:「絶望しているけど、終わらないよ」っていう、一番キツい終わり方(笑)。「よくも悪くも、まだまだあるよ」ってことを、自分にも見せたかったんだと思います。最後の3曲くらいの流れは、そういう感じですね。
-なぜ最後を“No heavenly”にしたかったのか、いまのお話を聞いてすごく腑に落ちました。“No heavenly”は、サウンド的にもそもそもバラバラなこのアルバムのなかでも極端に異色というか、先行配信された“世界はここで回るよ”などとはまったく違う世界観だよなと思っていて。
君島:そうですね。“世界はここで回るよ”はほぼ打ち込みなんですけど、くつろげるけど緊張感があるような、自分の部屋にきてもらうような気持ちでつくったんです。
前提として、今回のアルバムはアルバム全体として音数を少なくして、一つひとつの音の情報量を多くするということを考えていたんです。これまでは音を重ねていくことしか考えていなかったけど、今回は余白をつくりたかった。
ほとんどの曲でボーカルのいる真ん中がいままでより空いているミックスをしているんですけど、空間があって、聴いている人が入り込む余地というか、ちゃんと招き入れる場所をつくりたかったんです。
-『午後の反射光』から『袖の汀』に至る期間というのは、君島さんにとってどのような期間だったと思いますか?
君島:あまり実感がないんですよね。そもそもは『午後の反射光』で自分のキャリアを終わりにするつもりだったので。でも、そこからスタートしてしまった。「じゃあ、やっていくか」と腰を上げようとしたら、コロナになってしまって。
そのなかでも出会いや気づきは大きくあって、会えないと思っていた人に会えたんですよね。友達や先輩ミュージシャン、思ってもみなかった人と一緒にやることになったり、その人といまでも一緒にやっていたり……すごく不思議です。
君島:性格的に「人と一緒に音楽をやるべきじゃない。向いてないよ」と思うこともすごくあるんですけどね。そんななかでも、出会った人に救われる部分がいちいちあって「やっていてよかったな」と、つくづく思います。
今回のアルバムを出そうと思ったのも、「ちゃんとはじめよう」と思えたからなんです。思い返すと『午後の反射光』って、自分にとってジョン・フルシアンテの『Niandra Lades & Usually』(※)みたいな作品だったんです(笑)。
あのアルバムに「はじまりの希望」みたいなものはないし、自分にとって『午後の反射光』もそういうものだった。極端ですけど、グシャーっと家のなかでつくったものをえいっと投げて「俺はこんなんです。じゃあね」と言って去っていく、みたいな作品で(笑)。
君島:「ここからやっていくぜ」とか「ここからフェスに出るぜ」なんて燃え上がった気持ちは1ミリもなかったからこそ、このアルバムをつくって「ここから、ちゃんとはじめよう」と思ったんです。自分の人生の起点として、アルバムというもので仕切り直しをしようって。
-ぼくは『Niandra Lades & Usually』のような作品も『午後の反射光』も大好きな人間ですけど(笑)、いまこのアルバムで君島さんが「ここからはじめよう」と思っているということも、納得します。
君島:最初に「残るものをつくったらいいと思った」と言いましたけど、「これは残るものだ」として、ものをつくることは不可能ですよね。でも、その未来に対して、残ると確信できるような、ワクワクする感覚や瞬間が昔からあるんです。「これは、どこかに残っていく気がする」って思えるというか。根拠のない自信、勢いに近いのですが(笑)、つくっているものが急に、発光するような。
ネットの海のなかに残るとかそういうことじゃなくて、ちゃんと誰かの心にひっついて、残っていくものなんじゃないかって。このアルバムも、30年後とかに15歳くらいの少女が急に出会って、彼女の世界のなかでずっと息をしてほしいなと思います。