2023年01月01日 07:31 弁護士ドットコム
早期退職制度などを活用し、セカンドキャリアへの転身を目指すミドルシニア層が増えている。前職の経験を生かして転職や独立に向かう人も多いが、中には全く新しいキャリアに転じる人も。
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2014年、48歳で朝日新聞社を退職した及川敬子さんも、新聞記者から保育という全く畑違いの業界に飛び込んだミドルの一人だ。コロナ禍での人事管理などに苦労しつつ、3つの保育園を運営するに至った及川さんに、転身を支えた「軸」について聞いた。(ライター・有馬知子)
「おかえり~!」
東京・文京区の小規模認可保育園「ちいさいおうち小石川」で、運営事業者の及川さんは、散歩から帰ってきた1~2歳の子どもたちを笑顔で迎え入れた。座り込んで靴を脱ぐ子、保育士の助けで手を洗う子らで、にわかに園が活気づく。及川さんは隣の部屋へ行くと、泣いている赤ちゃんを笑顔で抱え上げ「ほら、でんしゃだよ~」と絵本を開いて見せる。
記者時代は人に恵まれ、楽しく仕事ができたと振り返る及川さん。しかし退職して初めて「競争に心身をすり減らし、すごいストレスだった」と気づいたという。
「今も苦労はありますが、子どもたちの笑顔を見ると、ストレスが吹き飛びこちらも笑顔になります。自分の子はやがて成人してしまいますが、毎年0歳児を迎え、日々成長する子どもたちに囲まれて過ごせるのも、保育の仕事のいいところです」とほほ笑んだ。
及川さんは1991年に朝日新聞社に入社。旧姓の森川敬子の名で芸能担当や子育てなどの分野を取材してきたが、40代半ばに差し掛かると会社人生について「そろそろ潮時か」と考え始めたという。
「記事を書き続けたいと思う一方、やりたいことはひと通り経験できたという達成感もありました。80歳くらいまで生きるとしたら、当時が概ね折り返し地点。新しいことに挑戦するなら、体力・気力を強く保てる40代のうちに始めるべきではないかと考えたのです」
ちょうどこのころ、異動を打診された。50代に入ると編集以外への異動の可能性も高まる。会社人生は、やりたいことができる時期と我慢の時期の繰り返しだと分かっていたが、今後もこの「ループ」を続けることに、限界も感じるようになった。
腰の重いベテランとして会社に居続け、フットワークの軽い優秀な若手の「次の席」をふさぐより、彼らに新しい視点で新聞を作ってもらった方がいいのではないか―。そんな思いもあった。
「悩んでいた時、自分の中から『辞めたら?』という声が聞こえました」。
この時、セカンドキャリアとして頭に浮かんだのが「0~2歳児の保育」だ。
及川さんの長男が保育園児だったころ、同区内の保育園に民営化の計画が持ち上がった。保育の質は保たれるのか、疑問を抱いた及川さんは他の保護者とさまざまなデータを集め、区と話し合いを重ねた。その結果、民営化は見送りに。
「この時、保育を行政に任せず、私たち住民自身が関わることの大事さを痛感しました」
子育ての取材を通じて、多子世帯や外国人家庭、ひとり親などがさまざまな困難を抱える様子も目の当たりにしてきた。保育への関心から、2008年には保育士の資格も取得した。
「0~2歳は、人への信頼感や自己肯定感など、人生の土台が作られる時期。親にすべての責任を負わせるのではなく『斜めの関係』の保育者として関わり、親子の力になりたい」
そう考えた及川さんは、退職を決意。退職日までほとんど有給休暇を消化せず、「記者」の名刺をフル活用して保育周りの情報収集に駆け回った。
及川さんは在職中に、0~2歳児を対象とした小規模保育を制度化するという政府の方針を知り「小規模保育なら、自分にもできるのでは」と考えていた。まずボランティアで親子が過ごせる居場所をつくり、志ある仲間を集めつつ開園の準備を始めた。
しかし、ことはそう簡単には運ばなかった。保育園の運営はおろか、保育の現場経験もない及川さんが認可保育園をつくるにはたくさんのハードルがあった。新耐震基準や二方向の避難経路確保といった、認可保育園の要件を満たす物件探しも難航した。さらにやっと見つけた物件は数カ月分、数百万円の敷金・礼金がかかった。
実績がある保育事業者とコンサルタント契約を結び、退職金の一部を敷金礼金に充てて物件を確保するなどして、2017年9月、ようやく開園にこぎつけた。当時は待機児童が多く、0歳児と1歳児、各6人ずつの定員に、それぞれ60人ずつ応募があったという。同区が制度化されてまもない小規模園への補助を手厚くしたこともあって、経営的にはおおむね順調に推移し、2020年には区内に2園を新設もできた。
保育の世界は、新聞記者とは求められるスキルが全く違う。特に初年度は、行政へ報告するための膨大な書類作業に悩まされた。「制度に関する文書を読んでも分からないし、説明してもらっても分からない。監査で指摘されて初めて『そういう意味だったんですか!』という始末でした」と及川さんは苦笑する。ただ、やり方を飲み込んだ2年目からは、何とかこなせるようになった。
最も苦労したのは、人事管理と育成だ。特に2020~21年は、コロナ禍に新園開園も重なり「人事管理の素人だった私にとって、本当に大変な時期でした」。職場の人間関係が悪くなったこともあった。
「能力やスキルが均質的な新聞社内で張り合って仕事をしてきたので、人はそれぞれ違うという当たり前のことにも配慮できず、最初はつい、自分の価値観を押し付けてしまうこともあったと反省しています」
一方で、記者時代に鍛えた文章力や記事の企画力は、保護者向けの「園だより」やアンケートの作成・分析、イベントの企画などに役立った。説得力ある申請書を書くことで、企業の助成金も獲得できた。
朝日新聞社在職中は自他ともに認める『ゆるキャラ』だったという及川さんだが「ストレスフルな競争社会の中で鍛えられ、緩いなりに強くなった」とも話す。
「会社に育てられていなければ、保育園経営者としての私もなかったでしょう」
記者から保育者への転身を支えたのは「理念」だったと、及川さんは語る。
子ども支援には、保育以外にも子ども食堂や学童保育などさまざまな選択肢がある。物件探しに苦労している時、無認可保育園をやらないかという話も持ち掛けられた。
「どれもやりたい思いはありましたが『0~2歳児の保育』という軸があったからこそ、小規模認可園の開園にこだわり、実現できました」
一方で「おカネも大事」とも指摘する。特に住宅ローンを完済していたことは、退職の決断を大きく後押しした。それでも無収入になった時の不安は大きく、必死で開園準備に取り組んだという。
ちなみに記者時代に同業だった夫とは「独立採算制」で、家計に入れるお金以外は各自管理している。転職の意思を伝えると、夫は最初こそ「50歳まで頑張れば、退職金の額も増えるのに」と渋ったが、結局は及川さんの決意を尊重してくれた。
もう一つ、キャリアを通じて及川さんが持ち続けているのが、学びへの意欲だ。朝日新聞社在職中に保育士の資格を取っただけでなく、開園後、人事管理に悩んだのを機に、産業カウンセラーの資格も取得した。「コミュニケーションなどの勉強は、今後も続けたい」と話す。
将来は近くの小石川植物園を活用して、自然を体験できる「森のようちえん」のような保育園をつくりたい、3歳児以上の受け入れもしたいと、及川さんは抱負を語る。
「最後は駄菓子屋のおばあちゃんとして、店先で子どもたちに見守られながら逝く。そんな『ラストシーン』を思い描いているんです。そうしたら、最近、駄菓子を置いた子どもの居場所づくりを始めるという人が現れて。近い将来、保育士兼駄菓子屋のおばちゃんになっているかもしれません」