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3歳の時、赤ちゃんポストに「ちょこんと座っていた」 いま思う「ゆりかご」のこと

2022年12月29日 10:21  弁護士ドットコム

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熊本県熊本市の慈恵病院で、親が育てられない子どもを預かる『こうのとりのゆりかご』(通称・赤ちゃんポスト)がスタートして、今年で15年になる。


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このゆりかごに初めて預けられた熊本県立大学1年の宮津航一さん(19歳)は、高校卒業を機に実名を公表して、これまでの思いを語り始めた。主宰する『ふるさと元気子ども食堂』代表の名刺には、「こうのとりのゆりかご 出身」「里子・普通養子縁組 当事者」などの肩書が並ぶ。



「ゆりかごには賛否両論あるが最終的に評価するのは子どもたち自身。預けられた子どもは僕も含めて161人。社会の現実を良く表していると思う」と話す。今後はゆりかご出身の他の160人の子どもたちが繋がれる道筋を作っていきたいという。(ルポライター・樋田敦子)



●「他者のために何かをしよう」と多忙な日々

熊本空港にほど近い田園風景が広がる地域に航一さんが育った家「宮津ファミリーホーム」がある。鶏やヤギを飼い、野菜を育てる自然豊かで子どもたちが育つ環境としては絶好の場所だ。現在も親と一緒に暮らせない里子の子どもたち5人と、祖母、両親とともに9人で暮らしている。



航一さんは大学での授業に加え、陸上同好会の部長、月に1回の子ども食堂、月に2回の大学生・専門学校生への食料配布を開催して活動の場を広げる。また県警の本部長から委託された少年サポーターとして、子どもたちの居場所づくりを支援するなど、「他者のために何かをしよう」と多忙な日々が続く。





さらに熊本ファミリーホーム協議会への参加や父の美光さん(65歳)、母のみどりさん(64歳)と一緒に里親フォーラムなどでの講演、シンポジウムへの登壇など活動は多岐に渡り、「子どもたちのための居場所づくりや地域のつながりづくり」を目標にして奔走する。



講演会では「家制度や血縁が重んじられるけれど、里親や特別養子縁組で育つのも、家族のひとつの形だとわかってほしい」と訴える。



●「ゆりかごのベッドにちょこんと座っていた」

航一さんはゆりかごが初めて受け入れた子どもだった。「ゆりかごのベッドにちょこんと座っていた」と、開設当時の看護部長だった田尻由貴子さんは述懐する。航一さんの実の親のゆくえは分からず法律上は「棄児」として扱われた。





幸山政史熊本市長(当時)によって「航一」という名がつけられ、熊本市が戸籍を作ってまもなく児童相談所に収容され、ほどなくして宮津家にやって来た。宮津家には男の子ばかり5人の実子がいたが、末子が高校生になったことで、両親は里親に登録した。その初めての里子が児童相談所を通じてやってきた航一さんだった。



目がくりくりで少しウェーブのかかった髪が可愛らしく、母親のみどりさんは「天使がやってきた」と喜んだという。



「ゆりかご出身ということを委託直前に聞き、事情を聞いてかわいそうにと思いました。でもそんなことは関係なく、みんなでかわいがって育てようと話し合い、お兄ちゃんたちもかわいがって一緒に遊んでいました」



夜になると両親と3人で川の字になって寝た。ところが最初のうちは夢を見て泣く。指しゃぶりもひどかった。「心に傷を負っているんだろうな」と改めて夫婦で話した。全てが手探りだったが、お好み焼き店を営む夫婦は航一さんを伴って出勤し、店が忙しいときはひとり遊びをさせて、忙しいランチタイムが終わると草滑りに美光さんが連れだした。



子ども好きな美光さんがボランティアをしている先にも航一さんを伴い、地域の子どもたちと遊ばせた。教会のミサにも連れて行き、人前で聖書を読んでも動じなかった。「地域の人がたくさん関わってくれて、それが自信になったようだ」とみどりさんは分析する。



●ニュースで映し出され「僕ここに行ったことがある」

保育園も小学校も中高も、学校側の好意で「宮津航一」の通称で通った。



「字を覚えた時に初めて書いた文章がすごいのです。僕はこの子は天才だ、と驚きましたよ」と美光さん。そこには「ぼくのいちにちは とてもたのしいいちにちで おかあさんを おとうさんととりあいます」と微笑ましい様子が書かれてあった。夫婦はできるだけ航一さんを一人にしないよう、家族の誰かが常に関わるようにしてきた。



4歳の頃、ニュースでゆりかごが映し出されると「僕ここ行ったことがある」と言い出した。記憶に残っていたらしい。みどりさんは「そうなの?良かったね。ここで救ってもらったんだよ」と答えた。あなたの親は別にいて事情があって育てられないので今私たちが育てている、という養子の「真実告知」も航一さんが質問を投げかけるたびに、きちんと答えてきた。



「改めて聞いたことはなかったのですが、ゆりかごに預けられたのが3歳だったので、僕の記憶の中にはあったんですよね。宮津家にきたことも知っているし、血がつながっていないということもうすうす気づいていました。疑問に思ったことはその都度答えてくれていたし自然の流れのなかで告知を受けてきたという感じです。やっぱり自分の生い立ちなので知りたい気持ちはありました。僕の場合は宮津の家に来る前の3年間ですが、自分の中で1つピースが埋まらないという思いは、今考えてみるとあったような気がします」(航一さん)



●明らかになった実母のこと

小学2年生のとき、ゆりかごに託した東日本に住む親戚がみつかり、生い立ちがわかった。その親戚は、ゆりかごに置かれていた「お父さん、お母さんへ」という手紙を持っていたので、預けたことは間違いなかった。



その年の夏、美光さんと出生地を訪ねた。実母は航一さんが5カ月の時に事故で亡くなっており、寺で消息を尋ねると、父親はわからなかったが、実母と住んでいたアパートや食事をしていた店も分かった。母親は航一さんをとても可愛がっていたという。墓参りをして、墓に近いところにあった石を拾って持ち帰った。実母は自分を棄てた訳ではなかった、という思いを持って……。





「お母さんが亡くなっていて、お父さんはわからないということは悲しい事実でしたけれど、航一は小さかったので、ありのままを受け入れたという感じで、帰ってきてからもいつも通りでした。その頃は店をやめてファミリーホームをしていましたので、里子たちはそれまで育ってきた環境は違うけれど、旅行に連れて行ったりして、みんなが楽しく暮らせるようにしていましたね」(みどりさん)



「父がいろいろ実母に関することを調べてくれました。すでに真実告知を受けていましたし、欠けている1ピースを探してくれる努力をしている姿を見ましたので、生い立ちを事実として受け入れられました。今では、一般的に養親さんが協力すれば、出自を知るハードルはそんなに高くないと思います」(航一さん)



●「元気なうちに養子にしたい」

家族に愛され、健やかに成長していった。



兄たちから話を聞き、側でみて育った影響は大きかった。兄がそうであったように、中学校で生徒会長を務め、高校では陸上に励み、100m走に励んだ。高3の時には10秒96を記録し、充実した学生生活を送ることができたようだ。反抗期もなく、両親と共に地域ボランティアを続け社会に目を向けることを学んだ。



状況が変わったのは、高2の時、美光さんが脳梗塞になり入院を余儀なくされた時だった。



「そのときに夫がベッドの上で“元気なうちに養子にしたい”と言い出したのです。いつかは養子にするつもりだったんですが、もう少し大人になってからと思っていたのです。小学6年生の時ですかね、書くことが好きな航一が家系図を書いていて、5人の兄の後に“6男、航一“と書いたのです。この子は宮津家の子どもになりたがっているのだと思いました。夫が“この子に悪いけん早くしよう”と言い出して、手続きにとりかかり、年内には裁判所から許可するという連絡がきました」(みどりさん)



「もちろん本当の親子という思いはずっとあったので、正式に養子になっても何も変わりません。違和感はなかったです」(航一さん)



今年、高校を卒業して成人になった。ゆりかご出身ということを明らかにしないという選択もあったはずだが、なぜカミングアウトしたのだろうか。航一さんが話す。



「小学生の頃から地元紙などの取材に匿名でこたえてきました。“預けられた時のことを憶えているか”“ゆりかごについてどう思うか”“ゆりかごは必要か”といった内容でした。18歳になって成人としての節目でもあったし、自分の発言に責任を持てる年齢になりましたので、当事者である自分の言葉できちんと伝えていかなければならないと思い決めました。両親は基本的に僕が実名で話したいと思えば話せばいい、というスタンスで見守ってくれ、最終的に実名でゆりかご出身者であることを話し出したわけです」



ゆりかご出身を公表し、何かが変わったのだろうか。公表後のある日、高校時代の友人から連絡が入ったという。同級生たちは、生徒会長やったり、陸上で記録を出したり、トントン拍子でうまくいっている生徒とみていたようだ。「宮津も大変な思いを抱えて生きてきたんやな」といった予想以上に温かいメッセージが届いたという。



「隠していたというより伏せていたという感じですかね。ゆりかごのことも養子縁組も里親制度のことも周りがまだ理解してくれていなかったので言えなかった。一人一人説明するのも大変なので、言わないで普通に過ごしていたほうが楽かなと思っていたんです。しかし公表したことで、生い立ちを隠さずに、フタをせずに話せるようになったのは大きかったです」(航一さん)



●「どんな気持ちでぼくを生んでくれたのかな」

実母の墓の近くで拾った石とゆりかごに入った時に着ていた洋服とスニーカーを見せてくれた。写真の実母はウエーブがかった髪が航一さんに似ている。



「どんな気持ちでぼくを生んでくれたのかなと思いますが、生んでくれたことに対する感謝はあります。しっかり真面目にやっていれば天国から見てくれて守ってくれているのかなと思いますね」(航一さん)



ゆりかごについてどう思うか、と航一さんはよく聞かれる。ゆりかごについてのアンケートでの反対派の意見は「育児放棄を助長する」が大半だ。そういう意見があることを航一さん自身も受け止めているが、結果的に15年で161人の子どもたちが預けられたわけで、「この数字が社会の現実をよく表している」と考えている。



「ゆりかごの扉は重いです。皆ある意味覚悟を持ってその扉を開けます。ゆりかごで命を救われた子どもは、僕以外に160人います。僕はほんの1例にすぎないけれど他の子どもたちがフランクに話せるようになるための突破口になれればいい。僕のようにメディアに出て話すのもひとつの方法かもしれないけれど、そうではなくて子どもたち一人一人が当事者の会の中で話すだけでもいいのです。話したいようになったら話せばいいし、話したくない人は話さなくてもいい。満足いくように話せるようになるまでは時間がかかりますが、僕もそれにかかわっていけたらいいと思っています」



子ども食堂にはたくさんの子どもたちがやってくる。単に貧困だけではなく、精神的に悩みを抱えた子もいて、この子たちとどう関わっていくかを考えている。



将来は子どもにかかわる何かをしたいと考えているが、大学時代の4年をかけてじっくり考えていくつもりだという。



ゆりかごは命を救ってくれたが、その後の人生を幸せに送れるかどうかは本人と周囲の人たちの理解も必要である。ゆりかごの賛否よりも、そこから先の時代をどう生きていくのか。航一さんが他の160人の子どもたちと交流し、そのロールモデルとなって活躍して欲しいと考えている。



美光さんとみどりさんは「航一には自分の家庭を持って、幸せになってほしい」と。それが唯一の願いである。



【プロフィール】 樋田敦子。ルポライター。明治大学法学部卒業後、新聞記者を経てフリーランスに。雑誌でルポを執筆のほか、著書に「女性と子どもの貧困」「東大を出たあの子は幸せになったのか」「コロナと女性の貧困2020-2022」等がある。