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『エルピス』が描く、組織のおかしさを呑み込んでしまう人、抗おうとする人。渡辺あやが鳴らす警鐘

2022年12月26日 13:00  CINRA.NET

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Text by 西森路代
Text by 生田綾

長澤まさみ主演のドラマ『エルピス —希望、あるいは災い—』(カンテレ・フジテレビ系)が、12月26日に最終回を迎える。

テレビ局を舞台にした同作は、脚本の渡辺あやによる2018年放送の「京都発地域ドラマ『ワンダーウォール』」、2021年のドラマ『今ここにある危機とぼくの好感度について』と連なるようなところがある。大学を舞台に「組織」というもののあり方やおかしさを問うてきた渡辺が、『エルピス』で描くものは何なのか。最終回を前に、その連なりについて考えてみたい。

『ワンダーウォール』は、京都にある大学の学生寮を舞台に、老朽化によって建て替えを望む大学と、それに反対する学生寮の住人たちを描いた作品だ。こう書くと単なる学生と大学の対立に見えるかもしれないが、むしろ同作では、正当な手段をとっても声がどこにも届かないむなしさを描いている。

主人公のキューピー(須藤蓮)は、高校生のときに100年以上の歴史を持つ京宮大学の学生寮「近衛寮」にひとめぼれのような感覚を持ち、学生たちが寮の自治をしているところにも惹かれて京宮大学を志望した。寮生たちは自分たちで考え、自分たちの合意のうえでその寮を運営していた。年齢問わず敬語は禁止、トイレはオールジェンダーなど寮独自のルールが形成され、だからこそ、寮の学生たちは好きなように暮らし、そこには自由があった。

近衛寮の存続をめぐる大学側と寮生の議論は約10年にわたって続いていたが、やがて変化が訪れる。新しい学生課の部長は勝手に入寮募集を停止し、団体交渉には一切応じないと宣言。議事録には、その決定に至った経緯について一切の記録がなかった。そして、キューピーたちは一方的に退去通告を告げられるのだった。

大学内にある学生課には、学生たちと対話をする気はないと言わんばかりに、以前はなかったアクリルの壁が立ちはだかるようになっていた。さらに、退去通告を告げられたキューピーたちは学生課に抗議に行くが、ベテランの窓口は突然、派遣社員の若い女性に変わってしまった。彼女にはまったく裁量がなく、戸惑うばかりで「担当者がいない」としか答えられない。担当者はつねに不在で、学生たちの声はどこにも届くことなく、宙に浮いてしまう。

キューピーたちは、大学から対等に話を聞く相手ともみなされず、そのため何に対して動けばいいのかわからない。誰にも何も届かないというもどかしさを感じていた。このような状況は、何も学生たちに限ったことではなく、日本の組織や政治にもあてはまるだろう。学生たちの葛藤もリアルだが、そんな青春物語に日本の2018年当時の葛藤が重ねられていると感じられた。

その後渡辺が手がけたドラマ『今ここにある危機とぼくの好感度について』(2021年、NHK総合。以下『ここぼく』)も大学の話である。主人公はテレビ局のアナウンサーから国立大学の広報担当者に転身した神崎真(松坂桃李)だ。

彼はアナウンサーでありながらも、好感度を気にするあまり芯を食ったコメントがひとつも言えないでいたため、その職に限界を感じていた。恩師の推薦で転職するも、大学の上層部は彼の「何も言わない」ことを広報担当者として好ましいことだと思っていることが1話から示され、見ている側は情けなくて脱力してしまうほどだ。前作の『ワンダーウォール』にはない、シニカルな笑いが散りばめられているのである。

タイトルにもあるように、神崎は「好感度を気にして」何も言えない人物とされているが、むしろ「好感度」というより、何か発言したことで炎上をして、その責任をとるようなことをしたくないから「何も言えない」という感覚に近い。そしてその考えが、何があってもうやむやにしたいと思っている大学側の思惑と一致しているのだ。

そんな神崎のまわりではさまざまなトラブルが巻き起こるのだが、ここでは第3話で描かれたエピソードを紹介したい。

大学は、あるネットジャーナリストを招いてイベントを開く予定だったが、日本の衰退を指摘するそのジャーナリストの言動が「日本をディスっている」と炎上し、爆破予告の脅迫状まで届いたため、大学は彼のイベントを中止してしまう。

「言論の自由」を訴えるジャーナリストは外国人記者クラブで会見を開き、大学側を批判。対応に追われ記者会見を開いた大学の総長(松重豊)は、炎上を避けたい一心から「安全確保が大事」とだけ何度も繰り返すのだが、かつての教え子でもあった記者からの質問により、目が覚める。

記者はキング牧師の「最大の悲劇は、悪人の暴挙ではなく、善人の沈黙である」という言葉を引用したうえで、「私がとても残念に思うのは先生のその『沈黙』です」と述べ、総長の真意を尋ねた。その言葉を突きつけられた総長は、好感度や自身の安全確保(つまり保身である)のために「あたりさわりのないこと」を言うのを辞め、「批判や脅迫に屈することなく」ネットジャーナリストのイベントを開催することを断言するのだった。このネットジャーナリストの役を、『エルピス』の村井喬一役の岡部たかしが演じていることも注目である。

村井喬一役を演じた岡部たかしは、『ここぼく』にジャーナリスト役として出演していた。 / ©️カンテレ

『ここぼく』第3話には、国や財界と太いパイプを持つ大学の理事が、総長に向かって「国立大学というのは大学人のものじゃなく国のものだと釘を刺されましたよ。この熾烈なグローバル競争のなかで、日本が勝ち残っていけるようにしっかり社会に貢献してほしいと」と話すシーンもある。表向きには間違っていないように思えるかもしれないが、国の思い通りの教育を進めないならばどうなるのかと、大学を脅しているようにも受け取れる。

実際に、国が研究に係る補助金をカットし、大学・研究機関がギリギリの状況に追い込まれるという事例もある。信州テレビが制作したドキュメンタリー『カネのない宇宙人 閉鎖危機に揺れる野辺山観測所』では、利益重視を求められ財政難に陥り、潤沢な助成を得るために軍事研究の検討を迫られる国立天文台の研究者らの苦悩が描かれていた(現在もHuluで視聴ができる)。

『ここぼく』と『ワンダーウォール』が浮き彫りにするのは、大学なり組織なりは「自治」によって健全に運営されなければならない、ということだ。

経済至上主義を過剰に求められたり、すぐに利益になる教育だけが重視されたりするべきではないし、もしもそれが求められたときには「対話」がなければならない。一方的な通達に従わせようとすることは民主主義をおびやかす行為である、という警鐘が描かれているように思えるのである。

©️カンテレ

そして、組織や権力のあり方やおかしさを問うという主題は、『エルピス』にも共通している。『ここぼく』と『ワンダーウォール』は大学組織を舞台に、その組織の内部のあり方を問うような作品になっていたが、『エルピス』はテレビ局の内部のあり方を見つめようとしている。

『ここぼく』の主人公は好感度を気にして何一つ芯を食ったことを言えないアナウンサーであったが、『エルピス』もまた、主人公が女性アナウンサーである。そしてそのアナウンサーの浅川恵那は、おかしいと思ったことも口にできずに吞み込んできた。

2人とも、言葉を使って伝えることを生業としているのに、自分の思ったことを口にできないという意味で共通している(『ここぼく』の神崎は当初、何も言えないことから逃避していた一方、『エルピス』の浅川は言えないことで摂食障害になるほど苦しんでいるという意味で、少し発露の仕方は違うものではあるが)。

このドラマを見ていて思い起こされるのは、東海テレビが制作した『さよならテレビ』(2018年)だ。筆者がデジタルメディア「TOKION」で『エルピス』の佐野亜裕美プロデューサーに取材した際にも、渡辺あやと『さよならテレビ』を視聴し、「すごい番組だ」と言い合い、力をもらったと語っている。

『さよならテレビ』は、東海テレビのディレクターが同局の報道フロアに反発を受けながらもカメラを向けたドキュメンタリーである。

そのなかには、同局のローカルワイド番組で起きた2011年の不祥事も扱われていた。番組内のコーナーでお米のプレゼントの当選者を伝える際、「怪しいお米 セシウムさん」と書かれたテロップが誤放送された事件だ。その番組のMCを務めていた男性アナウンサーは批判にさらされ、それ以来、自分の意見をテレビで言うのが怖くなってしまっていた。

このように、リアルな世界にも自分の言葉を呑み込んでしまったアナウンサーがいることに、いまになってハッとさせられる。現実のことだけに、テレビのなかで矢面に立っている人のことを簡単にジャッジすることはできないとも思った。

©️カンテレ

『さよならテレビ』には、子ども向けに同局が開催した(と思われる)スクールで、社員が報道の使命についてレクチャーする場面もあった。そのなかには「権力を監視する」という文言があった。このシーンを見ていると、このドキュメンタリー自体が、「それがはたしてできているのか」と問うているようにも思えた。

テレビだって組織なのだから、ほかの組織と同様に、おかしなことはたくさんあるだろう。しかも、報道部の記者などは(『エルピス』で鈴木亮平演じる斎藤正一しかり)、取材を通じて直接的に権力とも近しくなってしまう性質上、残念ながら忖度もタブーも生まれてしまうのだろう。

©️カンテレ

そのなかで、憤りを感じながらもおかしさを抑え込んで呑み込んでしまう人(浅川)や、当初は真実をねじまげたくないと思っていたとしても「才能」により政治の世界に呑み込まれてしまう人(斎藤)も、うまく呑み込んで生きることがそこでの最適化や賢い生き方なのだと諦めている人(近藤公園演じる名越公平)も、実際にも存在しているのだろう。

第9話では、テレビ局のなかで一度はうまく呑み込み最適化をしてみた岡部たかし演じる村井が、やっぱりそれでは嫌だと反乱を起こしていた。そして、新米だからこそ組織におかしな構造があることも、それが権力とつながっていることにも無関心であった岸本拓朗(眞栄田郷敦)は、彼のなかで何かが起こり、ひとり組織からも追い出されても真実を突き止めるために奮闘している。

彼らの姿を見ていると、最終回を前に、少しだけ希望を感じられるのだが、はたしてどのような結末を迎えるのだろうか。