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人気小説家・寺地はるなを囲む座談会 注目作『カレーの時間』から紐解く寺地作品の魅力とは

2022年12月24日 08:11  リアルサウンド

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 2022年の注目作である寺地はるなの小説『カレーの時間』(実業之日本社)。祖父と孫息子である桐矢との物語で、終戦後と現在、ふたつの時代を「カレー」がつなぐストーリーとなっている。寺地はるなの小説には、いつも市井の人々、それぞれの人間らしい感情が丁寧に描かれる。本作にも人間が営む日常や生活、会話の情景が瑞々しく書かれていて、リアリティある作品に感動の声が多く寄せられている。


 そんな寺地作品について、書店員の久田かおりさんと文芸の書評や橘もも名義で小説執筆も行うライターの立花ももさんが寺地さんを囲んで座談会を行った。寺地作品はどうして、多くの人を感動させる力があるのか。『カレーの時間』を紐解きながら、作品の魅力に迫っていく。


■「寺地はるな作品に裏切られたことがないんです」(久田)


久田かおり(以下久田):寺地さんの小説を初めて読んだのが2015年の『ビオレタ』。それから私の中で寺地はるなは「裏切らない」というのがあって(笑)。寺地さんの小説を読んで、これはちょっと合わないなという思いをしたことが今までに一度もないんですよ。毎回新刊を読むたびに「好きだ‼︎」ってなりますし『カレーの時間』を読んだ時もまさに「裏切らない」って思いましたから。


立花もも(以下、立花):ずっと裏切られないってすごいですね。今作では、元レトルトカレーの営業マンで、昭和の価値観そのままの祖父であるおじいちゃんと、現代っ子の桐矢が同居するところから物語が始まります。どんなところに、そう感じたんですか?


久田:まずカレーを題材にしたのが大正解だったなって思ったんです。私、今までの人生でカレーを嫌いな人っていうのは1人しか会ったことがないんです(笑)。大体みんなカレー大好きですよね。誰がいつどこでどういう風に作ってもそれぞれ個性はあるけど美味しい。これ、寺地さんの小説どれにも当てはまると思うんです。それぞれちゃんと個性があって、裏切らない。その中で、今回はカレーを間に挟んでおじいちゃんと孫息子の関係を描いていったところが見事だし大好きな小説になりました。


寺地:ありがとうございます。


「寺地さんの作品を読んで改めて小説の力を感じた」(立花)


立花:いきなり別の作品の話で恐縮ですが、私は、最近刊行された寺地さんの『川のほとりに立つ者は』を読んで、小説の力を信じることができるような気がしたんです。というのも、ここ数年、言葉の無力さを痛感する機会がとても多くて。異なる価値観をもつ人と対立したとき、互いの信じる正しさをぶつけあうばかりになってしまい、言葉を尽くせば尽くすほど遠ざかってしまうケースを、いくつか見てきたので……。そんなとき『川のほとりに立つ者は』を読んで、「これだ」と思いました。何が正しくて何が間違っているのかなんてわからない。それでも迷いながら、多種多様の他者と手をとりあっていこうとするこの物語に描かれた優しさと希望を、きっと読者は現実に映し出していけるはずだ……と。直接的な対話とはまた違う、小説だけがもつ力というものを改めて信じさせてもらえたのが、すごく嬉しかった。


 『カレーの時間』には、異なる立場の人たちを結びつける「橋」の役割をもつ人が登場しますが、寺地さんの小説そのものが橋であるし、寺地さんは今までずっとそういうことを書かれてきたのだと、今さらながら気づきました。


「書店を回って着想を得た橋というキーワード」(寺地)


担当編集:作品の中で、おじいちゃんは戦後に、食品会社に勤めレトルトカレーの営業マンになります。桐矢もカルチャーセンターの社員としてお客さんが色々な講座を学ぶために橋渡しの仕事をしています。おじいちゃんと桐矢の共通点は人に何かを届ける仕事で「橋」が一つのキーワードとして出てきます。


久田:私もこの点で深く共感するところがありました。書店員は本を売る最前線で、直にお客様に本を渡すのは私たちだっていう思いがいつもあります。この本を読んで、自分もおじいちゃんや桐矢と同じようにまさに人と人をつなぐ「橋」なんだなと思いました。


寺地:「橋」というキーワードを思いついたのは去年の10月なんです、そのことは、はっきりと覚えてるんで、私は別の新刊が出たタイミングで、書店訪問をしていたんですね。その時にお会いした書店員の方たちは本に対してみんな愛情を持って語られるんです。こういう風にしたらいっぱい買ってもらったみたいなことを熱心に話されていてすごいと思いました。私の場合、書店訪問はめちゃくちゃビビリながら行くんです。みなさんとても忙しそうにされてるので。でも実際に話をしてみるとみなさんすごく親切ですし、ゲラもしっかり読んでくださっていて本当に嬉しい気持ちになりました。そうやって書店員さんが本を売ってくださることがとてもありがたくてそのことが一つの着想になったんです。


「分かり合えないままでもいいんだよって言ってくれる」(久田)


寺地:『カレーの時間』って本当はおじいちゃんがもっと変化する話だったんです。孫という異物みたいな新しいものとぶつかって変わっていくという話を最初は構想してました。でも書いていて、ちょっとおかしいと思ったんです。


 人は自分がずっと大事にしてきたものを簡単に捨てたり変えたりできるのかなって。それに「今はこの考え方が正しいから合わせなきゃ」っていうのは、暴力的なことだと思って。それから予定していた話を大きく変えて今の物語になったんです。だから人を変えたいとか、人の考えを否定するみたいな行為の重さについて、すごく書きながら考えました。


立花:久田さんが、デビュー作『ビオレタ』から作品を追い続けてきたからこそ感じる、寺田さんの進化、あるいは変わらない核のようなものはありますか?


久田:寺地さんの作品は、分かり合えない思いを変えるのではなくて、それを丸ごと受け入れて、そのままでいいんだよって言ってくれるような気がするんです。社会で生きていると、カテゴライズされることがいっぱいあると思うんです。だけど、その枠からちょっとはみ出している自分でも大丈夫だよって。背中を優しくさすってもらっているような、そんな読み心地がずっと続くんです。私このままでいいんだなって肯定してくれる、そういう小説なんだと思います。


立花:私はひねくれたところがあるので、あまりにも大団円に物語が終わってしまうと、現実ではそんなにうまく人とわかりあえないよ、と冷めた気持ちになってしまうことがあるんです。でも寺地さんの小説には、それがない。もちろん物語としてちゃんと前向きに終わるんですが、わかりやすいハッピーエンドには着地しないというか……解決しきれていないことも、わかりあえないまま終わることもあっても大丈夫、それでも前に進んでいけるんだという希望を描いてくれる。そこに、私はいつも救われたような気持ちになるんです。


「自分が嘘だと思うことは書いちゃいけない」(寺地)


寺地:ハッピーエンドには、すごく憧れる気持ちもあるんですよね。でも小説ってフィクションなんですけど、やっぱり自分が嘘だと思うことは書いちゃいけないというか。「こんなのあり得ない」と思いながら書くのはダメだと思ってます。


久田:『カレーの時間』の話に戻すと小説に出てくる三姉妹がすごい好きなんです。それぞれの個性がすごいはっきりしてる。私の身の回りにいる三姉妹は、若い時にはいろいろぶつかることが多いんですよね。でも歳をとっていくとみんなすっごく仲良くなっていく。この感じがすごいリアルで。こういう姉妹関係は、寺地さんの実体験なのですか?


寺地:私、三姉妹ではないのですが兄と姉がいるんです。姉が10歳上なんですよ。なので一般的な姉妹よりはちょっと違うのかなと思うんですけど。私の母にも姉がいて、若い頃は仲がそれほど良くなかったらしいんですが、母たちが70を過ぎたぐらいからよく電話したり、一緒に遊んだりするようになったみたいです。


立花:そんなことあるんですね。


寺地:でも仲良いけど姉妹ゆえのちょっとした軋轢みたいなのを母と伯母の会話の端々に感じたことがあって。それらの経験を基に書きました。


「私は、日常や生活というものが好き」(寺地)


立花:私、主人公が従姉の恋人に引き合わされるシーンがすごく印象に残っているんです。従姉の母親である叔母は、ふだん自分がシングルマザーであることになんの引け目も感じていなさそうに逞しく生きている人なのに、娘の幸せを願うときにはあんなにも脆くなってしまうのか、と。ああ、むしろ脆いからこそ、一人で娘を守るために強く生きてきたんだな、と一瞬の描写でうかがい知れたところがとても好きでした。『カレーの時間』は基本的に主人公と祖父の物語なんだけれど、そんなふうに、本筋ではない人間模様も丁寧に描かれているところも好きです。


寺地:私たちの日常は、たくさんの雑多なことがらで構成されていますよね。なんてことない出来事に思えるものが、じつは私たちの言動をかたちづくっている。だから小説の中にも一見本筋には直接関係なさそうな場面が入っていることがあると人間らしくていいのかなと。日常が見えることは、すごく大事なのかなと思ってて。私自身が小説を読むときも、日常や生活というものを大事に描いた作品が好きなんですよね。


立花:どなたか、影響を受けた作家さんはいらっしゃいますか?


寺地:私、井上荒野さんがすごく好きなんです。井上荒野さんの作品には、日常の思いの積み重ねの描写がすごく多い。ある事柄について、普段からこんな風に考えている人だからこそ、この発言が出たんだ、この結末なんだ、みたいなところが、すごくリアリティがあるんです。


「許さないことは絶対許さなくて良いことを書いている」(立花)


立花:リアリティで言うと、寺地さんの作品では「いやな奴/悪い奴にもそれなりの事情がある」ということをちゃんと描きながら、それでも許すべきではないところは絶対に許さないとしてくださるところも好きです。そのバランスを探るのがとても難しいのではと思いますが、寺地さんはいつも必ず、しっくりくる落としどころを見つけて描いてくださっている。


寺地:たとえばAさんという人がいて、Bさんにパワハラをしているという話を聞いて、ある人が「Aさんにも色々事情があるんだろうね」って言ったとしますよね。それって事情はみんなにあるからBさんにそれを飲み込めというのは倒れてる人に対して追い討ちをかける行為だと思うんです。


立花:『カレーの時間』では、主人公の上司がわりと「飲みこめ」と追い打ちをかける人でしたよね。そんな上司に対して、主人公が「苦手な人だったけど、館長ともっとちゃんと話せばこんなことにならなかったのかも」と悔いる場面もありましたが、難しいですよね……。


寺地:そう、難しかったんです。私も館長のことを書きながらすごく腹が立ってきて、最後に絶対ひどい目に遭わせようと思ってました(笑)。この箇所は、本当に夢に見るぐらいまで悩んで、入稿ギリギリまで考えてました。


「本筋とは関係ないエピソードがあるから立体的に読める」(久田)


立花:久田さんは印象に残っているシーンやセリフはありますか?


久田:印象に残ってるセリフはいっぱいあって本が付箋だらけなんですけど。終盤、幼い三姉妹を残して出奔した祖母の秘密が明らかになる場面があります。桐矢が傷つくことや傷つく権利を奪ってはいけないって、桐矢の母たち三姉妹に本当のことを伝えるシーンはとても印象に残っています。読みながら「はっ!」となって、ここに寺地さんの真摯な思いが込められているなって思いました。


寺地:私は、実体験として「そんなことで傷つくのはおかしい」と言われることがあったんです。もっと強くならないとやっていけないよみたいな感じで。それに「守ってあげたい」みたいな言い方をされたこともあるんですが、それって結局相手を弱い者だと見做しているから出てくる言葉だと思うんです。桐矢くんが「傷つく権利がある」って言えるってことは、相手がたとえ傷ついたとしてもそれを自分でちゃんと乗り越えられるって信じてるからなんです。自分も傷つくけど、それは人に守ってもらうものではなくて、弱さを肯定してる。それは相手の弱さに対しても。嫌ですよね、実生活でも傷くことを否定されるっていうのは。


立花:傷ついたとしても、勝手に自分で立ち直るから放っといて、って思っちゃいます(笑)。


寺地:そうなんですよね。


立花:守ってあげたいと思うのは、悪意ではなく善意だから厄介なんですよね。寺地さんの小説を読んでいると、世の中には嫌な人や苦手な人はいるけど悪人ってそうそういないよね、と思います。でも、仮に善意だったとしても、ちょっとした言動が誰かを致命的に傷つけることもあるし、積み重ねが大きな被害に繋がることもあるんだよなあ、と。


寺地:そういう意味でも登場する悪人は、主人公の物語を盛り上げるために、あるいは妨害するためだけに登場させちゃうのは絶対にダメなんです。


久田:悪人ひとつとっても本筋には関係ないエピソードの積み重ねがあるからこそ、立体的に読めることに繋がってるんですね。


「寺地さんの小説は、福音の書」(久田)


久田:寺地さんの小説って、わかりやすい幸せが書かれてないですよね。それぞれに屈託を抱えたまま生きていくことが最後まで書かれている。でもそれが現実だと思うんです。だからそれぞれ自分が本当に立ち上がれないぐらい打ちのめされてる時の救いの1冊になるんですよね。寺地さんの小説を読むと、こんな私でもいいんだっていう風に思える。だから倒れてる人のそばにいて起き上がらせてくれるんじゃなくて、倒れてるけど立ち上がってもう一歩こっちにきたら、手繋いであげるから、ずっとそばにいてあげるからって言ってくれる小説。倒れた自分さえ肯定してくれる。だから寺地さんの小説は、福音の書だって私いつも思うんです。


寺地:ありがとうございます。福音、めっちゃいい言葉。日記に書いておこうと思います(笑)。