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岸井ゆきの×マキヒロチ。『ケイコ 目を澄ませて』は好きなことに夢中になる人たちの背中を押してくれる

2022年12月16日 18:00  CINRA.NET

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Text by 羽佐田瑶子
Text by 川谷恭平
Text by 玉村敬太

「昨日できなかったことがある日突然できるようになる。あらためてですけど、人は続けることでしか強くなれないんだなと実感しました」と話すのは、三宅唱監督作『ケイコ 目を澄ませて』に主演した岸井ゆきのさん。

生まれつき耳の聞こえないプロボクサー小笠原恵子をモデルとした主人公ケイコを演じた岸井さんは、「とにかく強くなりたい」という思いで練習に打ち込んだという。それは、自分自身との闘い。本作には主人公のケイコが惑いながらも自分に打ち勝っていくひたむきな姿と、好きなことと素直に向き合う喜びが映し出されている。

本作を試写で見て「ケイコが好きなことに夢中になっている姿がすばらしかった」と共感を覚えたのは、漫画家のマキヒロチさん。マキさんもケイコ同様に、スケートボードに打ち込むガールズスケーターたちを自身の漫画『スケッチー』で描いてきた。ボクシングとスケートボード、それぞれに夢中になった岸井さんとマキさんに、好きなことに打ち込むことの魅力について話を聞いた。

岸井ゆきの(右)
1992年生まれ、神奈川県出身。2009年、女優デビュー。「愛がなんだ」(2019年)で日本アカデミー賞新人俳優賞。今年は「やがて海へと届く」「大河への道」「神は見返りを求める」「犬も食わねどチャーリーは笑う」が公開。放送中のTBS系ドラマ「アトムの童」でヒロイン。
マキヒロチ(左)
第46回小学館新人コミック大賞入選。ビッグコミックスピリッツにてデビュー。『いつかティファニーで朝食を』では「朝食女子」というワードもブームに。現在は人生の岐路に立つ女性たちが新しい街で一歩を踏み出す姿を描く『それでも吉祥寺だけが住みたい街ですか?』、スケートボードに魅せられた女子の挫折と再生の日々を描いた『SKETCHY』(ともにヤンマガサード)を連載中。

─マキさんは『ケイコ 目を澄ませて』を試写で拝見されて、とても感動されたとうかがいました。

マキ:素晴らしかったです。ほんとに感動したので、今日岸井さんにお会いすることができて、とてもうれしいです。

岸井:ありがとうございます。

マキ:私が連載している『スケッチー』は、スケートボード未経験だった川住憧子(アコ)という30代の女性が、あるきっかけでスケボーを始めるという物語です。『ケイコ 目を澄ませて』との共通点としてスポーツドラマという側面もありますが、大人の女性が働きながら好きなことに打ち込み、自分を見つけていくみたいなところが同じ状況だと思いました。

主人公の社会的な立場も似ているんですよね。言葉を選ばず言うと、社会にある階層で上に位置する人たちではない。職業的には、ケイコは駆け出しのボクサーで、ホテルの清掃で生計を立てている。アコはレンタルビデオショップ屋の店員で単調な毎日を過ごしている。

そういう人が、仕事につながるかわからないことでも夢中になって、必死にやっている姿というのはやっぱり素敵だなと思いました。

─具体的には描かれませんが、ケイコもアコも人生に何かしらの生きづらさを感じていて、そのなかでボクシングとスケボーに出会い、自分自身と対峙します。ストイックに夢中な姿というのは、たしかに心打たれるものがありました。

マキ:ケイコ自身にも物語にもどんどん引き込まれていって。私は漫画家として物語をつくることはあっても役者として役をつくる感覚はわからないので、今日は聞きたいことがたくさんあります。

マキ:今回は役柄として備わっていなきゃいけないことが多いですよね。聴覚障害者として手話を習得しなければいけないし、プロボクサーとしてボクシングができる状況から撮影がスタートしたと思うので、どういうふうに習得していったのかというのがすごく気になります。もともとボクシングはやったことがあったんですか?

岸井:キックボクシングをしたことはありましたが、エクササイズのようなものだったので、クランクインの3か月前から本格的に練習を始めました。

トレーナー役で出演されている松浦慎一郎さんについてもらって基礎的なことから。でも、基本中の基本の「ボクサー跳び」でさえも全然できなくて、早い段階でつまずいてしまいました。「ボクサーなら絶対に、誰でもできるよ」と言われるんですけど、私にはできなくて。

マキ:「誰でもできるよ」という技ができないと悔しいですよね。私もスケボーをやっているのでわかります。

岸井:あと、身体づくりもしました。というのも、映画として「引きで撮りたい」という監督の要望があったので。つまり、ボクシング姿が全身映ってしまうので、基礎ができていないとプロボクサーには到底見えない。

プレッシャーはあったんですけど、この映画に参加する以上、ボクシングをしているフリをするわけにはいかないと覚悟していたので、3か月間みっちりジムでも家でもトレーニングをしていました。

『ケイコ 目を澄ませて』より、三浦友和演じるジムの会長と、岸井ゆきの演じるケイコ

マキ:トレーニングをしていてつらい局面もあったと思うのですが、どのように乗り越えられたんですか?

岸井:そうですね……練習あるのみ、という感じでしたけど、トレーニングをするなかで自分が得意なプレーが見つかるとうれしかったです。たとえば、複数のパンチをリズムよく打つコンビネーションとか。あと、三宅唱監督やスタッフさんがずっと練習に付き添ってくださったので、その後援は大きかったです。

マキ:私も『スケッチー』の漫画連載が始まる前に1年半ほど、週4でスケボーをやっていたんです。でも、上には上がいるから、自分なんかがスケーターを名乗っていいのか、みたいな不安がつねにありました。

でも、岸井さんの場合は短期間でも作品に落とし込まなければいけないし、映像にも映ってしまうし、すごいプレッシャーだと思うんです。今回は「これはできるようになろう」という目標を決めて練習していったんですか?

岸井:いや、これは果てしない自分との闘いになるだろうなと思ったんです。トレーニングの項目ごとに一つひとつクリアしたい技はあったんですけど、「ここまでできればプロボクサーとして完成する」みたいなものは絶対にないと思いました。

なので、とにかく全力で練習して、自分がそのとき習得できる最大限を目指そう、という思いでした。強い人たちの試合をたくさん見たり、映画『ブラックパンサー』で身体の使い方を研究したりしながら、クランクイン前日までトレーニングしていましたね。

あと、ケイコは毎日の練習をサボらないんですよ。劇中にもありましたけど朝日が昇る前から走り込みを始めて、シャドーをして、仕事に行って、またジムに行く。私自身も練習したら練習したぶんだけ強くなっていると実感できたこともあって、ケイコのように「もっと上手くなりたい」という気持ちだけでやっていました。

マキ:それは表情からも感じました。私は総合格闘技を時々見るんですけど、夢中になって見てしまう試合ってものすごく表情に目が奪われるんですよね。それは、ケイコからも感じました。表情がすごく自然で、本気で。

岸井:あそこは、顔の演技をしようとしていたわけじゃなくて、本気で「勝ちたい」と思っていたんです。

─「勝ちたい」「強くなりたい」という気持ちが、映画にも映し出されていると思うのですが、そういう気持ちは練習を重ねていくと湧き上がってくるものですか? それとも最初から、そういうモチベーションで?

岸井:最初は自分のできなさに愕然としてどうしたらいいかわからなかったです。最初の頃の練習風景を見返すと、パンチとか、どこに打とうとしているんだろう! と恥ずかしくて見られないほどです(笑)。

そもそも人を殴ることに対して、あまり前向きになれなかったんです。でも、練習を続けていくうちに、殴り合うスポーツではあるけれど、結局は自分自身との闘いなんだと気づけたんです。そこから「とにかく強くなりたい」という思いが大きくなり、ケイコと自分の差がなくなっていったのかなと思います。

─手話はどのように習得されたのですか? ほぼ発語のセリフのない役柄だったので、手話というのはケイコを演じるうえでとても重要な部分を担っていたのではないかと思います。

岸井:手話もボクシングと同じで、まずは基礎的なことを学ぶことからスタートしました。「手話あいらんど」の先生方に指導いただいて、挨拶や手振りなど、セリフとは関係のない言葉も一通り習得しました。

手話そのものの型を覚えるというよりも、そのシーンを読み解くことから始めて、手話の手振りを覚えて、という順番でした。

マキ:手話の手振りがかなり早かったですよね。日常会話だとこれくらいのスピードなんだと思って。

岸井:そうですね。私も実際にろう者の方の生活を教えていただいて、発見がたくさんありました。

『ケイコ 目を澄ませて』より

─手話のセリフしかなく、基本的にケイコの表情や息づかいで魅せる映画でした。なので、ケイコの鋭いまなざしを見ていたら、映画越しに自分自身が見透かされているような、生き方を問われているように感じることもありました。

マキ:すごくわかります。

岸井:うれしいです、ありがとうございます。今回の映画は、自分が感じている以上に表情を脚色しないようにしようと意識しました。表情で演じるというより、まずは「ケイコでいる」ことをやってみる。三宅監督たちもそれをとらえてくれる場所にカメラを置いてくれるんですよね。

マキ:へえ!

岸井:それが、本当に感動的でした。毎日感動していました。

マキ:女優さんは事前にカメラ位置を把握しているわけじゃないんですね。

岸井:監督によるんですけど、今回は一度リハーサルをやってみて、そこからカメラ位置が決まっていきました。もう私は、ケイコとして存在することに集中力を使っていたんですけど、撮られたシーンを見てじんわりすることが多かったです。

マキ:岸井さん自身の性格はケイコに近いんですか?

岸井:私はケイコに近いと思います。私もあまりおしゃべりが上手ではなくて、自分の考えをうまく言葉にできないんですよね。じつは私もケイコと同じように日記を書いているんです。毎日の出来事を記録するものではなくて、思ったことを書き綴るノートですね。そこに書いて、自分の気持ちを整理しています。

─マキさんはどういった魅力をスケボーに感じて、夢中になっていかれたのですか?

マキ:スケボーに付随するカルチャーに惹かれていったことが始まりです。カルチャーを知れば知るほど、白人と黒人の交流の歴史やスケーターたちのファッションなど、ほかのスポーツとは違う奥深さに魅力を感じるようになりました。

あと、ボクシングと共通する部分だと、好きな時間に一人でできる気軽さというのも、続けやすいポイントだったと思います。いまはスケートスクールもすごく増えていて、40歳で始める人も結構いるんです。

岸井:そうなんですね。ガールズスケーターが増えているのは私も知っています!

マキ:そうなんですよね。スケボーは男性中心のカルチャーというイメージがありますが、いまはガールズスケーターもたくさんいる。女性たちがカルチャーを自分のものにしていく、そういった近年の流れも魅力に感じますね。

─そこから漫画にしようと思ったのはなぜなんですか?

マキ:『スケッチー』を描き始めるとき、私は37歳だったんです。どんな作品だったら描きたいかと考え、人生においてやり残したことはないか、振り返っていたんです。そこで、中学生の時からスケボーをやりたかったことを思い出しました。

岸井:そんなに前からやりたかったんですね。

マキ:そうなんですよね。好きだった音楽とスケートカルチャーがすごくリンクしていて、漠然とした憧れがありました。だけど、始めるには道具をそろえるのも大変そうだし、男の子がやっているイメージが強くて。でも、せっかくなら挑戦してみようと思って、スケボースクールに通い始めたんです。

─それぞれボクシングやスケボーを未経験からスタートして、練習を積み重ねるなかでどのような瞬間に喜びを感じますか?

マキ:先ほど岸井さんもおっしゃっていましたけど、スケボーも練習すればするほど上達していく、というのがすごく面白くて。こうした努力が結果につながるような体験って、大人になると、あまり経験できないじゃないですか。

最初はできなくても練習すれば絶対にできる。そういうことを繰り返していくうちに自己肯定感もすごく上がっていきました。

岸井:ボクシングでも同じことを感じました。やればやるだけ上手になるし、練習を続けていればパンチが早くなっていく。目に見えて結果がついてくるというのは、自分の自信になりますよね。

マキ:スポーツでもなんでもいいんですけど、新しい趣味を始めるっていうのは活力になるなって思います。

─先ほどジェンダーの話が出ましたが、体格や筋肉の違いなど、男性との差はどうしても存在してしまう競技だと思うのですが、そういう部分にジレンマは感じませんか?

マキ:そこは仕方のないことなのかなと思います。私自身は生活に紐づいたような地味なジレンマと戦っている人にグッときますし、スケートができればなんでもいい、と割り切っているような女の人も意外と多くて、その潔さがいいなと思ったりします。

岸井:私は、この作品に関わるうえでは、その差は気にしなかったですね。『ケイコ 目を澄ませて』に登場する男性キャラクターのセリフに「女ばっかりかまって」とありますけど、あれはジムのトレーナーがケイコばっかりかばうことへの嫉妬だったと思うので、私自身が性別を気にすることはなかったです。

マキ:『ケイコ 目を澄ませて』は対個人に寄り添ってくれるような人たちが多く登場しますよね。私はケイコの弟がすごく好きですね。個々人の暮らしがあるんだけど、必要なときに寄り添ってくれるいい子だなと思いました。

─未経験で何かを始めたとき、最初は失敗がつきものだと思います。失敗することに対する恐怖心や、羞恥心のような感情から、続かなくなることもあるはずですが、お二人にはそういった気持ちはありましたか?

マキ:もちろん、個人競技だからうまくできなくて挫折する人もいると思いますけど、私は恥ずかしさというのはあまり感じなかったです。

スケボーを始めたばかりの人は、失敗してこけるのが恥ずかしいと思うかもしれませんが、こけるのはあたり前なんです。むしろ「上手なこけ方」を習得することも技術の1つなんですよね。上手い人を見ているとこけても痛くなさそうなので、失敗も練習をすることでとらえ方が違ってくるのかもしれません。

岸井:私も恥ずかしさはなかったですね。失敗してナンボだと思うので。

─ボクシングとスケボーは、失敗すると両者ともに痛みや怪我を伴いますよね。それはどのように乗り越えてきましたか?

岸井:ケイコのセリフにもありましたけど、痛いのは嫌でした。

マキ:私も痛いのは嫌です。精神的にもきますね。コンクリートの路面でこけた場合、打ち所が悪いと意識が朦朧としてしまうこともあります。

昔アメリカで、急な坂道をスケボーで滑り降りる「ダウンヒル」という技をトライしたんですけど、滑っている途中で派手に転んでしまって、腕が傷だらけになったんです。

―え、危ない……!

マキ:かなり痛かったんですけど、それはそれでうれしい気持ちもありました。「怪我の勲章」じゃないけど、上手いスケーターたちにもある傷が自分にもついた、同じ地点まで来たんだって思えて。

岸井:わかります! ボクシングも最初は拳にテーピングをちょっとするだけでよかったのに、練習を重ねていくうち、何重もテープを巻いても拳の皮がむけて、皮膚が少しづつ硬くなっていきました。それは、自分が強くなっていっているんだなと実感できてうれしかったですね。

マキ:そこまで自分もできるようになったんだ、って思いますよね。

岸井:はい。先輩の仲間入りみたいな、世界が変わった感じがありました。

─好きなことに打ち込んでみて、自身の変化は感じますか?

マキ:街を見る目が変わりましたね。初めて降り立った街でも、「ここは路面がいいから滑れるな」「こんな技ができそうだな」っていう視点で街を見るようになりましたね。

なんてことのない街が一気にエンターテイメントになるんです。スケーターから街の話を聞くと意外な発見も多くて、毎日に楽しいことが増えますね。

岸井:私はあらためてですけど、続けることでしか人は強くなれないっていうことが、よくわかりました。昨日できていたことが、1日練習しないだけでできなくなる。逆に、ある日突然できることもあって。最初はできなかったボクサー跳びが、ある日突然できるようになったんです。

マキ:へえ!

岸井:すっごくうれしくて、松浦さんや監督とハイタッチしてよろこびました。

マキ:私もずっと練習していた技が突然できるようになったことがありました。うれしいですよね、まわりも喜んでくれますし。この映画を観たら、ボクシングじゃなくても、何かやりたかったことに挑戦したくなるのかなと思います。

岸井:そうだとうれしいですね。ボクシングを通じた「生き方」の話だと思うので、たとえ生活がままならない人だとしても、自分の心に、素直に生きていきたいという気持ちを持ってもらえるんじゃないかと思っています。