2022年12月16日 13:01 弁護士ドットコム
立憲民主党の前衆院議員・尾辻かな子氏のツイート投稿で話題となったJR大阪駅のポスター。対戦型麻雀ゲーム『雀魂』(じゃんたま)とテレビアニメ『咲-Saki-全国編』のコラボ広告だったが、一部ネット上では「性的だ」という声があがり、ジェンダー論や憲法論にとどまらず、燃え広がった。
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今回の「萌え絵」をめぐる議論について、行政事件や憲法訴訟に取り組む平裕介弁護士に聞いた。
――今回の広告は「法的」に問題があるのか?
法的に問題はありません。問題となった広告は、刑法175条のわいせつ文書にも、自治体の青少年保護育成条例のわいせつ文書にも、いわゆる児童ポルノ規制法の児童ポルノにも該当しないことは明らかです。
また、電車内の広告放送に関する判例「とらわれの聴衆」事件判決(最高裁判所第三小法廷昭和63年12月20日判決)に照らすと、広告を見たくない人が広告を見たことにより精神的苦痛を受けたなどとして、広告の掲載者側に損害賠償を請求しても、そのような請求はまず認められないでしょう。
この判決の解説で、紙谷雅子教授(学習院大学)は、「見たくないものを見ない自由」の問題は「聞きたくないものを聴かない自由」の問題の場合とは異なり、「『とらわれの聴衆』の議論がなされない」と指摘しています(長谷部恭男ほか編『憲法判例百選Ⅰ 第7版』(有斐閣/2019年)45頁)。
この解説は、「聴覚よりも視覚の方が外部からの表現を回避しやすい」(同頁)ことから、視覚の場合には、より「憲法上保護されない自由」だと位置付けられることになるので、広告表現を含む「表現の自由」(憲法21条1項)のほうがより優越するということを意味しています。
この判決に照らせば、憲法は、駅など人々が行き交う公共の場所において「性的」な広告によって一瞬あるいは数秒でも不快な思いをせずに公共空間を出歩きたいとか、見たくない「性的」表現を一時的にであっても見たくないといった利益を手厚くは保護しておらず、他方で、開かれた公共空間においてこそ、効果的である「メッセージを聞かせたい聴衆の探索」(同頁)という広告表現(憲法21条1項)の価値を手厚く保護しているということになります。
これが「とらわれの聴衆」事件判決から導かれる帰結です。
――今回の議論について、どこに問題があると考えるか?
法的に問題がないということであれば、まず、国会議員等は憲法尊重擁護義務(憲法99条)を負っているのですから、憲法で保障された自由・人権の行使を合理的な理由なく妨げることを支持する発言をすべきではありません。地方議会議員も権力者側ですから、基本的には国会議員と同様に考えるべきです。
また、元国会議員であっても、同じ政党の現職の国会議員への影響力や支持者への社会的な影響力の大きさを考慮すると、そして特にこれから政界に復帰される意思があるというのであれば、憲法99条の理念を尊重して発言をすることが「立憲」的であるといえるでしょう。そうではない発言は「非立憲」的であるといえます。
私たち市民も、上記のような「非立憲」的な動きを有権者・主権者として監視すべく、国会議員等が憲法判例や憲法学の専門家の意見を尊重した政治をおこなっているのか見極め、そうでなければ萎縮することなく表現の自由を広く行使して批判すべきでしょう。
これは私たちの憲法やその価値を守ることに資する「不断の努力」(憲法12条前段)でもあります。
先に述べた「とらわれの聴衆」事件判決の伊藤正己裁判官は、補足意見の中で、(1)聞きたくない音を聞かないことにより「心の静穏を害されない自由」は表現の自由等のような「精神的自由」には該当せず、(2)「広い意味でのプライバシー」と呼ぶことができるとし、そのプライバシーも「公共の場所にあっては」家などにいる場合と比べて、より多くの「制約を受ける」ものだと述べています。
また、この伊藤裁判官は、別の判例(最高裁判所第三小法廷昭和59年12月18日判決)で、「駅前広場」など「一般公衆が自由に出入りすることができる場所」については「具体的状況によってはパブリック・フォーラムたる性質」を有することになり、その場合には「表現の自由の保障を無視することができない」と述べています。
すると、駅前などは、パブリック・フォーラムたる性質が認められうることに照らしてみても、公共の場所での表現の自由(広告の自由を含む)は憲法上、特に保護されるべきものということがいえます。
これらの補足意見の考え方に立つと、「公共の場所」「公共空間」「公共スペース」であるという事情は、むしろ、聞きたくない音を聞かない自由や見たくないものを見ない自由を主張する者の側に不利に働くはずのものです。
にもかかわらず、一部の国会議員・元国会議員、ジャーナリストなどは、この「公共の場所」概念を表現規制(法的規制・自主規制)を強める、あるいは表現を抑制すべき方向の議論の根拠として、特に問題意識なく当然のように使ってしまっています。しかしこれは問題です。
最高裁判決や学説の憲法解釈を活かす考え方を基本とするのが、立憲主義にも適合すると思いますが、世間の風潮は必ずしもそうなっておらず、逆に憲法解釈論を軽視・無視し、報道する側も安易な表現規制に乗っかってしまっている場合もあるように感じられます。
このように「見たくないものを見ない自由」は、「公共の場」においては、むしろ、広告表現を含む「表現の自由」に劣後する、というのが基本路線あるいは原則的な考え方といえます。にもかかわらず、「声の大きな」人あるいはクレームを増幅させられる人(議員や元議員等を含む)によって、原則と例外が逆転させられてしまっているという現象がみられ、これは立憲主義の精神との関係で問題だと思います。
なお、ゾーニングの話をしているのであって、表現の自由の話をしていないなどという旨の言説もあるようですが、これは間違いで、ゾーニングは表現の場所等の規制となるものですから、表現の自由そのものの問題です。
ちなみに、性表現のうち、ポルノグラフィティーについて「ジェンダー構造を再生産する」という立場から規制を求める動向もあります。しかし、たとえば宍戸常寿教授(東京大学)は、憲法の教科書で、現段階の日本においては「こうした動向は広く支持されているとはいえない」(渡辺康行ほか『憲法Ⅰ』(日本評論社/2016年)223頁)と解説しています。少なくとも現段階では、憲法学の専門家には広く支持されていない考え方だということです。
また、松井茂記教授(ブリティッシュ・コロンビア大学)は、ポルノによる性表現が女性の「人間性を傷つけ、その尊厳を損なう表現」だということで問題にするのであれば、「女性」の場合だけに限定すべき理由が乏しいことから、「およそ人間性を傷つけ、その尊厳を損なう表現はすべて禁止されうることになろう」とし、さらに「おそらく戦争の犠牲者やテロ行為の犠牲者の写真や映像も、公表できないことになろう」と解説しています(松井茂記『インターネットの憲法学 新版』(岩波書店/2014年)169頁)。
このように、「ジェンダー構造を再生産する」とか「女性の人間性を傷つけ、その尊厳を損なう表現」だといった理由で、表現の自由を制限する方向の議論を展開することは、表現の自由が広く制限されすぎてしまうことにつながりかねず、問題でしょう。
なお、国会議員等が、与党の解釈改憲や検察庁法の改正問題を批判した際には、憲法学や法律学の通説あるいは多数説によるべきとしつつ、別の局面では少数説の立場に立つという態度は、結局のところ、憲法学や法律学の専門家の意見を尊重して判断をするというのではなく、自分たちの立場と意見が合致するのであれば、専門家を都合よく利用するといった態度である可能性が高いといわざるを得ないでしょう。
ですから、そういった態度が国会議員等の権力者やこれから国会議員になる可能性のある者の発言等から見え隠れする場合には、市民としては、そうした政治姿勢を注視し批判すべきでしょう。
――公共空間における「広告」のあり方はどう考えるべきか?
「不快」と考える人が相当数あるいは多数いるからといって、多数者の意見を重視して、公共空間から特定の表現を排除するというのは、そもそも少数者の人権を守るという自由主義・立憲主義の精神に反するものです。
そのため、公共空間における「広告」のあり方に関して「ゾーニング」などの自主規制を強化すべきであるという意見もあるようですが、安易な自主規制は(もちろん憲法判例や憲法学説等を軽視した法的規制も)問題です。
自主規制には、(1)被規制者・利害関係者の権利・利益の侵害、(2)民主政プロセスに対する特権性・閉鎖性、(3)非効率性・高コスト性というデメリットあるいは潜在的危険性があります(原田大樹『自主規制の公法学的研究』(有斐閣/2007年)232~234頁参照)。
そこで、自主規制を設けたり、強化する場合でも、最低限満たすべき許容条件として、6つの指針的価値、すなわち(1)公平性、(2)公正性、(3)正統性、(4)透明性、(5)有効性、(6)効率性を満たすことを要求すべきでしょう(同書243~244頁参照)。
たとえば、国会議員や元国会議員の事実上の圧力や、声の大きな団体の意見ばかりが取り入れられたような自主規制のルールというのは、これらの要件のすべて、あるいはほとんどを満たさないことから不適当と考えられます。
性表現に対する考え方は個々人の「性道徳」の問題とも密接に関わります。しかし「道徳」はその意味合いや外延が曖昧で不明確ですから、人々の利害を調整する場合には「法」を基準とする方が良い場合が多いといえます。「道徳」教育や「ジェンダー」教育も大事でしょうが、日本では、子どもだけではなく大人の「法教育」「憲法教育」が圧倒的に足りていないのではないかと思ってしまいます。
私自身も憲法の教科書を書いたこともありますが(齋藤康輝=高畑英一郎編著『Next 教科書シリーズ 憲法〔第2版〕』(弘文堂/2017年/共著・基本的人権の保障と限界等の章を担当))、より多くの方に憲法や法律の入門書や教科書を読んでいただきたいですね。
【取材協力弁護士】
平 裕介(たいら・ゆうすけ)弁護士
2008年弁護士登録(東京弁護士会)。行政訴訟、行政事件の法律相談等を主な業務とし、憲法問題に関する訴訟にも注力している。日本大学法学部・法科大学院、國學院大學法学部非常勤講師。審査会委員や法律相談員、公務員研修の講師等、自治体の業務も担当する。
事務所名:永世綜合法律事務所
事務所URL:https://eisei-law.com/