Text by 後藤美波
Text by 上岡磨奈
アイドル、ファン、スタッフが空間を共有し、さまざまな立場からの思いが交差する「ライブ」。アイドル文化や産業の光と闇の双方を描き出すアプリゲーム発のコンテンツ『アイドリッシュセブン』においても、ライブは重要な場として位置づけられている。
終わりがくることがわかっていながら、終わらないでほしいと願うファンの感情。そのアンビバレントさが象徴するものとは。2015年から展開され、現在アニメ3期の第2クールが放送中の作品『アイドリッシュセブン』を通して、アイドルに向けられる「まなざし」を考える論考の後編では、ライブやアイドルの「有限性」と「永遠」に光を当てる。(前編はこちら)
近年何度目かのアイドル「ブーム」を迎えていると言っていいほど、日々アイドルに関するニュースがメディアにあふれ、「推し活」というパッケージとともにアイドルの射程もファンの射程も広がり続けているように感じる。
一方で「アイドル」が意味するものの曖昧さ、不安定さにも焦点があたり、受け手も送り手も多くの課題を抱えている現状がアイドル文化のなかでも語られるようになっている。アイドルとは、ファンとは何か。
その問いは、アイドルをテーマにしたフィクション作品のなかにも描かれる。アプリ『アイドリッシュセブン』(コンテンツとしての表記は『アイドリッシュセブン』、作中に登場する同名のアイドルグループはIDOLiSH7とする)には、アイドルやエンターテインメントの世界をめぐる葛藤や課題が散りばめられている。
作中に登場するアイドルグループRe:valeのメンバー、百によれば「アイドルを苦しめるのはいつだって、好きの感情」であり、ファン同士の矛盾するアイドルへの期待に一人しかいないアイドルがすべて応えることは不可能だという。しかし、それにすべて応えたい人が「アイドル」で「期待があるから不満が生まれて、好きがあるから、嫌いが生まれてくる」と『アイドリッシュセブン』の世界は語る。
このジレンマに解決方法はないが、「完全に個を消してファンに奉仕する」「自己犠牲」の姿をもってファンに応えてきた存在として作中で描かれるのは、アイドルグループTRIGGERのセンターである九条天だ。天自身は、「ステージのため、表現のために、自分を捨て去るのは犠牲じゃない。クリエイトだ」と語っている。ファンに提示されるアイドルのパーソナリティーはクリエイトの末にある姿であり、それをファンのためにクリエイトするアイドルの主体こそが魅力になるのだろう。
こうしたアイドルのクリエイティビティーが発揮される場として、『アイドリッシュセブン』の物語では「ライブ」が象徴的に示される。
プレイヤー自身であるIDOLiSH7のマネージャー(アニメなどではその役を小鳥遊紡が担っている)は、彼らのライブの演出を任されている。
ちなみに実際のアイドルのライブも活動規模の大小を問わず、マネージャーが構成や演出などを担うケースは少なくない(もちろんパフォーマーであるアイドル自身が担当する場合もあるし、演出家、プロデューサーを別で立てることもある)。物語のなかでは、IDOLiSH7のマネージャーがほかのアイドルのライブ映像を見たり、場数を踏んだりすることで演出家としての技能を高めていく様が描かれ、演出談義、ライブ談議の場面もしばしば登場する。
登場人物の一人で、かつてアイドルのマネージャーおよび舞台演出を手掛けていた九条鷹匡はアイドルの舞台演出を、アイドルに夢を見るファンの「夢」を「ラッピングする」行為と表現する。そのためにはアイドル個人の魅力を誰よりも理解しながら、そのアイドルを「シビアに解剖」していくことが求められると九条は語る。『アイドリッシュセブン』の世界でマネージャーはアイドルの魅力をラッピングし、観客まで届ける仕事として描かれる。
それはアイドルの見せ方、見られ方に手を加えるということではない。アイドルの仕事は現実でも多岐にわたり、そのすべてにおいてマネージャーの「ラッピング」を丁寧に施すことは困難だ。しかし、パフォーマー個人の魅力を理解し、観客に届けるうえでそのクリエイティビティーを牽引し、「訴求力」をコントロールすることは要となる。
「ライブ」という、パフォーマーとしてのアイドル、受け手としてのファン、送り手としてのスタッフ(九条は舞台演出者のことを「職人」と呼んでいる)が同じ時間、空間に会し、共有する場においては、アイドルを「夢そのもの」として提供することが可能になる。
そのような「ライブ」の場は、アイドルにとっても重要な場として描出される。それは「居場所」であり、悩みや答えのでない不安、恐怖を忘れさせる「歓声」に包まれる場であり、自分を肯定し、信じることができる時間である。
一方的で時にアイドルを傷つける観客のまなざしは一時、力強い支えへと転じ、アイドルのクリエイティビティーが遺憾なく発揮される。しかし、その時間は有限であり、非常に一時的でもある。本作ではその様子はしばしば「虹」と表される。なるほどIDOLiSH7のメンバーカラーはそれぞれ青、緑、橙、水色、紫、黄、赤、虹色だ。
TRIGGERのマネージャー・姉鷺カオルは、「理想のアイドル」について訊かれ、「決まってるじゃない。終わらないアイドルよ」と答える。「アイドルは夢なの。夢の終わりなんて、誰も見たくない」「伝説なんて賞賛よりも、ある日、突然、姿を消したりしないアイドルの方がいいの。日本一のトップスターじゃなくたって、顔に傷があったって、声が出なくたっていいの。終わらせないでくれたら、それでいいのよ」
「だけど、その夢を叶えるのが1番難しい」と解散などその時点ですでに活動していない作中のアイドルの名を挙げる。「それでも、精一杯、今をやるしかないわ」。終わらないことは当たり前に不可能な「夢」である。しかし、そこにできるだけ手を伸ばそうとする姿は、プレイヤーの胸を打つ反面、現実への切なさをも残す(一方で作中には、「終わらないアイドル」という理想そのものの是非を送り手の側から問う描写もある)。
IDOLiSH7のライブシーンで、「ここに来て良かった……。みんなのことが好きで良かった!」「こんな光景……。こんな感動、一生忘れないよ!」という観客の声が流れていく描写がある。そこで観客の一人は「好きなものが変わったとしても、趣味が変わったとしても、きっと、死ぬまで覚えてるよ!」と続ける。ライブやアイドルの「永遠」がアンビバレントに表現される台詞ではないだろうか。
「終わらない」夢、終わらないライブ、終わらないアイドルこそが観客が何よりも求める理想としながら、ここで観客の方は「好き」の終わりを認識している。観客の側からアイドルの終わりを示唆しながら、アイドルと過ごした「ライブ」の瞬間が、「死ぬまで」人生の終わりまで観客の心に刻まれるという有限のなかでの永遠が語られる。「だって、ただのライブじゃなくて、私の人生にとっても、すごく大事な瞬間だった……」
そう感じられる「瞬間」には何が起こっているのか。具体的なライブの内容などについて、特にゲームのなかでは、ほとんどプレイヤーの想像力に託されている。そこでのプレイヤーは、まさしく「観客」に同調するIDOLiSH7のファンとして、ライブというよりもそこに至るまでの軌跡やメンバーの想いに心を動かされるだろうし、また実際に自分のライブ体験と重ね合わせることで「観客」の感情を追体験することもあるだろうと思う。感動的な場面でありながら、アイドルというプロダクトをめぐる残酷さをも突きつけられるような思いがある。
『アイドリッシュセブン』の物語の本筋にはより複雑で精巧な仕掛けが数々用意されており、もちろんここで綴った内容はエッセンスのほんの一部に過ぎない。あらすじについてもほぼ記載していないし、本作に描かれる「アイドル」は展開のなかでより広範に問いをぶつけてくる。
またアニメソング音楽レーベルであるLantisが手掛ける楽曲の数々は、登場するアイドルそれぞれの個性を生かしながら、ストーリー展開にもリンクし、そのうえでアーティストであるアイドルの歌として成立するという点において人気が高い。
『アイドリッシュセブン』に登場するアイドルを日々の生活のなかで身近に感じることができるような演出や企画は、リリース当時、「三次元がライバル」と本作のIP(知的財産、Intellectual property)統括プロデューサーである下岡聡吉が語っていたコンセプトを裏打ちするものだろう(*1「シナリオのとある部分で“虹”を超えてというのがあるのですが、“虹”と“二次”をかけているんですよ」アニメ!アニメ!, 2015年9月11日公開,)。
有り体に言えば、アイドルの姿がリアルであることはファンにとって『アイドリッシュセブン』の魅力の一つだろう。もちろんフィクションならではの誇張や表現もあるし、それもまた楽しい。しかし、アイドルという分野に向き合う時にどうしても浮かび上がってくる葛藤や苦悩、不安――これはファンや観客といった受け手の目線のみならずパフォーマーやスタッフという送り手の目線に立っても同じである――をなかったことにせず、主題の一つに忍び込ませることによって物語を繰り広げる世界観が人々の心を捉えているように感じる。
アイドルとは何か、ファンとは何か。終わらないアイドルとは。いずれも答えの出ない問いばかりではあるが、苦しみながらもどうしようもない葛藤を抱えることはただ悲劇ではない。
IDOLiSH7のメンバー・六弥ナギは自身の友人の言葉を引用しながら語る。「愛や、期待や、支配や、支援の境目で。好きになれば、思い入れる。思い入れれば、理想が生まれていく。ですが、それは悲劇ではない。人が、人に出会って、思いをはぐくみ育てていくのは素敵だと」私たちはまなざす先に虹を紡ぎ出すことができるだろうか。