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アイドルを苦しめる好きの感情はどこに向かうのか?『アイドリッシュセブン』に見る、観客の「まなざし」【前編】

2022年12月15日 12:00  CINRA.NET

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Text by 後藤美波
Text by 上岡磨奈

「推し活ブーム」とも言われる今日。ファンにとって、アイドルとは何か。アイドルにとってファンとは何か。アイドルとは、アイドルを「推す」とはどういうことなのか。その問いにまつわる葛藤や課題がファンからもアイドル側からも語られるようにもなっている。BTSのリーダー、RMが「成長する時間がない」とアイドル産業に身を置く者としての思いを吐露したことは記憶に新しい。

本稿では、アイドル文化や産業の煌びやかだけではない側面にも目を向ける作品として、アプリゲーム発のコンテンツ『アイドリッシュセブン』(通称アイナナ)に光を当て、アイドルに向けられるファン / 観客 / 視聴者のまなざしを考える。

『アイドリッシュセブン』は、現在アニメ3期の第2クールが佳境を迎え、キャラクター原案は漫画家の種村有菜が担当、今年はさいたまスーパーアリーナでライブを成功させた人気コンテンツだ。楽曲提供者にはAyase、ミト(クラムボン)、kz、スガシカオ、小室哲哉、前山田健一、さかいゆう、水野良樹(いきものがかり)などの名前が並ぶ。

アイドルを「まなざす」私たちに、『アイドリッシュセブン』が突きつけるものとはなんなのか。『アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉』(青弓社)の共編著者であり、『アイドル・スタディーズ 研究のための視点、問い、方法』(明石書店)などへの寄稿でも知られる社会学者・上岡磨奈が前後編にわたって論じる。

アイドルにとってファンとは何か。

2022年現在に限っていっても、アイドルの定義を問われて一言で答えることは難しいほどに、アイドルという言葉が指すエンターテイメントはさまざまな形をしている。歌って踊るパフォーマーの誰もがアイドルと呼ばれる、または称するのではなく、また歌や踊りのジャンルも限定されてはおらず、どんなアーティストをアイドルと呼ぶのかを決めることは難しい。そしてファンがアイドルをどのように楽しむかももちろん一様ではなく、人によってさまざまである。

しかし、楽しみ方の一つとしてそのパーソナリティーが中心にあると考えることは可能だろうと思う。香月孝史は、著書『「アイドル」の読み方 混乱する「語り」を問う』(青弓社)のなかで「アイドル」という言葉の定義や範囲設定について検討しながら、「アイドルの自意識、より広く表現すればアイドルのパーソナリティが享受対象となること――それが今日の「アイドル」というジャンル内の共通項なのかもしれない」と指摘している(香月2014: 103ページ)。

アイドルのパーソナリティーを享受するファンは、アイドルに対して親しみや尊敬、憧憬などさまざまな感情を抱えながらアイドルを演じるその人をまなざす。

アイドルに対して向けられるまなざしは、時に無遠慮だ。「見られる」世界のなかで、アイドル自身が何を見せるか、見せないか、線引きを行なう必要があるが、その境界をはっきりさせることは難しい。

事務所など、アイドルを管理する立場にある者がその見せ方を決めることもあるだろうが、滲み出て見える、見えてしまう、意図しないアイドルの姿もまた魅力になることがある。再度香月の論に戻ると、アイドルのパーソナリティーが可視化されることこそが、「受け手に対しての訴求力」となるという(同74ページ)。

では、観客が見ているアイドルの姿とはいったいなんなのか。パフォーマーであるアイドル自身も答えることが容易ではないこの問いの先には、「ファンの期待」が少なからずある。

期待されるアイドル像が壊されると観客は時に怒りさえも口にする。「恋愛禁止」のはずのアイドルにパートナーの存在が明かされる、ファンとともに夢を追っていたはずのアイドルが別の夢を理由に新しい道へと歩き出す――共有していたはずの何かを失ったファンには少なからぬ戸惑いが生まれる。

もちろん、強い否定の言葉は決して「ファン」からのみ語られるものではない。そのアイドルを知っている、またはその瞬間に知ったすべての人が無遠慮な言葉を投げかける権利を持ってしまう。そこにいるのはそれほど関心を持たないただの視聴者といえる人々かもしれない。それでもアイドルは向けられた感情をもろに受けてしまう。それはアイドルという仕事をしているうえで当然の役割なのだろうか。

ここでアイドルを描く一つのコンテンツを参照したい。2015年8月にバンダイナムコオンラインよりリリースされたスマートフォン向けアプリゲーム『アイドリッシュセブン』である。

同作品はゲームのみならず、ノベライズ、コミカライズなど複数のメディアで展開されているが、特に2018年には『アイドリッシュセブン』(アニメ1期)がTOKYO MXほかで放映され、今年2022年10月に『アイドリッシュセブン Third BEAT!』(アニメ3期)の第2クールの放送がスタートした(アニメ2期『アイドリッシュセブン Second BEAT!』は2020年、3期第1クールは2021年に放映)。

ゲームの概要は、リリース当時の記事によると「スマートフォン向けアイドル育成アプリ。プレイヤーが7人のアイドルとともにアイドル界の頂点を目指す、フルボイスの本格リズムアクションゲーム」(※1)。

7人組アイドルグループ「IDOLiSH7」(以下、グループとしての表記はIDOLiSH7、コンテンツとしての表記は『アイドリッシュセブン』)のマネージャーとなったプレイヤーが彼らを「育成」する、アイドル育成ゲームとしての側面が強調されており、リズムゲーム(音楽にあわせてプレイヤーがアクションしスコアを獲得するゲーム)を行ないながら、彼らを「育成」するような内容が想定される。実際ゲームのなかにはその要素もあるのだが、どちらかというと「フルボイス」で届けられる物語の方が中心にあり、ノベルゲームとして捉える方が2022年の時点ではしっくりくるだろう。

この物語には、素朴にアイドルグループのサクセスストーリーのみならず、冒頭に挙げたようなアイドルやエンターテイメントをめぐる葛藤や課題が散りばめられている。IDOLiSH7や、TRIGGER(トリガー)、Re:vale(リバーレ)、ŹOOĻ(ズール)というアイドルの日々を描写することで、彼らが象徴するアイドルというジャンル、文化、(成熟しているとは言えない)産業の抱える問題点をも物語のなかに描き出し、いわば積極的に可視化するコンテンツの一つであるといえよう。

『アイドリッシュセブン』の物語は、マネージャーであるプレイヤー自身(アニメなどではその役を小鳥遊紡が担う)の視点で進むという設定だが、実際には展開の多くはマネージャー(紡)の預かり知らぬところで起きている出来事であり、基本的にはいわゆる「神の視点」で描かれている。

プレイヤーはある意味では傍観者の立場にあるが、たびたびマネージャーとして(ゲームでは、自分の入力した名前がマネージャーの名前として表示される)、そしてファンとして、物語のなかに自分に似た誰かを見つけることになる。

あまり語られることはないが、ストーリーのなかでのファンの存在は、特徴的だ。本作は、マネージャーやファンとアイドルのあいだで恋愛関係が発展するようないわゆる「乙女ゲーム」ではないのだが、モブ(名もなきその他大勢の登場キャラクター)としてたびたびファンや観客、視聴者が具体的に登場する。

アプリではシルエットのみで表現される彼らは、熱心に彼らを応援するファンであったり、たまたま彼らからフライヤーを手渡される通行人であったり、街中の食堂でテレビを見ながら彼らについての感想を語る視聴者であったりする。顔の見えないファンや視聴者の声がアイドルの進退に大きな影響を与えることもあるし、ある時はアイドルを完膚なきまで傷つける。『アイドリッシュセブン』を楽しむプレイヤーにとっては心苦しい展開であり、「神の視点」で舞台裏をも知る各アイドルのファンの立場としても悲しい場面である。しかし、一方で自分自身同じように無邪気にアイドルに言葉を投げかけてしまう可能性のある観客であることも思い起こさせる。

プレイヤー(や読者、視聴者)が目の当たりにするのは、IDOLiSH7の成功と苦悩、というよりもアイドルの、ひいては日本の芸能界の光と闇である。その闇に対してストーリー上、一つの答えが導き出されたとしても、もちろんそこに残された課題はすべて解決するわけではない。物語を追いながら、IDOLiSH7やほかのアイドルを楽しみ、応援する、物語のなかの一員かのような自分と、『アイドリッシュセブン』をプレイ、または視聴しながら自分の生きる世界に存在するアイドルとは、エンターテイメントとはいったいなんなのか、と問われる自分が二重に存在し、その入れ子構造のなかで揺らぎながら複雑な想いを抱えることもある。

(以下に物語のなかでもキーとなる場面を複数箇所記載し、ネタバレを避けがたい記述となることを了承のうえで読み進めていただきたい)

例えばこんな場面がある。IDOLiSH7のメンバーである和泉三月はある時、プライベートで買い物を楽しむ最中にファン同士の他愛もないおしゃべりを偶然耳にする。グループの冠番組についての感想を嬉しく思うも束の間、自分自身に対する遠慮のない言葉に気づく。

「センターでもないのに仕切ってさー」「空気読まないよねー。人気ないくせに」三月は誰よりもアイドルになることへの思いが強いメンバーだが、バラエティー番組などのMCとしての手腕について「彼は業界で注目されてる天才だよ」と所属事務所の社長が評するほどの実力者でもある。三月自身もMCの仕事に手応え感じ、自信を持っていたはずだったが、本来彼が聞くことを想定していなかった視聴者の一言によってアイドルとして、「芸能人」としてのみならず、自分自身を恥じるような激しい自己否定の念に駆られてしまう。

誰が悪かったのか。誰も悪くない不幸な事故かもしれない。アイドルとファンの関係はこうした不幸が付きまとう可能性を孕んでいることを思い出させる場面である。自分はこんな声を発したことがないと言い切れるだろうか。もしこうしたネガティブな感想をどこにも、誰にも公表したことがないとすれば、それはなぜか。

『アイドリッシュセブン』では、ファンの動向を読みながらプロデュースの方向性を探る場面もたびたび描かれる。SNSやファンレター、ライブでの反応からファンが、観客がいま何を求めているかを精査していく。もちろんそれに応えるだけがプロデュースではないが、ファン、観客、そしてまだそこまでの思い入れを持たない視聴者の欲望を汲み取りながらエンターテイメントの舵を取る光景が、ある意味でグロテスクなまでに生々しく提示され、アイドルを活かすのも殺すのも、向けられるまなざし次第であると感じさせる。

IDOLiSH7にとっての先輩グループRe:valeの百は、過渡期にあるIDOLiSH7を見てマネージャー(プレイヤー/紡)に「好いてくれる人が増えた分、みんなに向けられる感情が、ちょっとずつ変化していく」ことを指摘し、それはアンチの存在によるものではないとしながら「アイドルを苦しめるのはいつだって、好きの感情なんだよ」と続ける。一つでないアイドルへの感情に一人のアイドルがすべて応えることは不可能である。しかし、それにすべて応えたい人が「アイドル」なのだと百は語る。「期待があるから不満が生まれて、好きがあるから、嫌いが生まれてくる」

『アイドリッシュセブン』の世界のなかでファンは、アイドルを動かす存在であると感じられる。その動かす力は、決してポジティブな面のみを持っていることを意味しない。ファンの視線がアイドルを苦しめるのだということをも惜しみなく描き出す。

マネージャー(プレイヤー/紡)は、ファンの声に翻弄されるメンバーの姿に「好きも、嫌いも、視線も、笑い声も、ナイフや銃より、時には怖いものだから。そんな戦場の中でも、IDOLiSH7のみんなは、アイドルって言う人たちは、少しでも多くの笑顔を作ろうと頑張ってくれるから。1億のノーに勝つイエスを伝えてきます」とマネージャーとして、彼らのファン第1号として彼らのもとへと向かい、彼らの評価されるべき点を力強く語りかける。物語を俯瞰するプレイヤー/視聴者は、自分はマネージャーなのか、ファンなのか、彼らの味方なのか、敵なのかと逡巡する。

ファンにとってアイドルとは何か。

(後編につづく)